4.子である神


 御子は真の神であり、真の人である。この方はわたしたちを罪から贖うために、十字架にかかってくださった。御子は死より栄光のからだをもって復活し、永遠の命の保証となられた。この御子、すなわち天に昇られた主は、父から受けた聖霊を注ぎ、ご自身を教会の頭として与え、わたしたちのためにとりなしておられる。この主は栄光のうちに再び来られる。

  「子である神」とは、「イエス・キリスト」のことです。彼は父である神から、人類の救済のために、この世に遣わされた方です。「イエス」はギリシャ語ですが、ヘブル語の「ヨシュア(「神は救い」の意)」に相当します。また、「キリスト」もギリシャ語ですが、ヘブル語の「メシア(「油注がれた者」の意)」に相当します。間に「・」が入っているのは、「イエス」が名で、「キリスト」が称号であるので、その区別をするためです。

① 真の神、真の人

 イエス・キリストが真の神であり、また真の人であるというのは、理性的に理解することの出来ない、神の神秘に属することですが、キリスト教信仰における重要教理です。
 イエス・キリストと、父である神、聖霊である神との関係については、「三位一体」の項で触れたとおり、「ニカヤ・コンスタンティノポリス信条」で、決着をみました。そこで「イエス・キリストは神である」ということが確認されたのですが、それでは人となられたという側面はどういう意味を持つのかをめぐり、人間イエスが次第に徳を高めて神になったという説や、全く神であって人間ではないという説などが出て、激しい議論となりました。これも三位一体の教理と同じく、理性で理解できる問題ではなく、「イエス・キリストとは誰か」を問う、真剣な問いでありました。そして数回の教会会議を経て、四五一年にカルケドンで開かれた会議において、イエス・キリストは一つの位格(ペルソナ)のうちに、神性と人性をもっておられるという、カルケドン信条が制定されました。その冒頭で次のように告白されています。
 「この故に、我らは、聖なる教父らに倣い、すべての者が声を一つにして、唯一人のこの御子我らの主イエス・キリストの、実に完全に神性をとり完全に人性をとりたもうことを、告白するように充分に教えるものである」。そして、この神性と人性は、混ざることも、欠けることも、分けられることもできないと言い表されており、「ニカヤ信条」と「カルケドン信条」が、キリストに対する信仰の正統的教理となりました。それですから、キリストの神性、人性のどちらを否定しても軽視しても正しい信仰にはならず、異端として退けられます。
 これは、人の救いは全く神のみ業ですから、人の救いのためにつかわされたイエス・キリストは神であられるという信仰です。《そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである》(ヨハネ一・一四~一八)と記されています。
 同時にまた、人を罪から贖うために、罪に対する罰として神に捨てられ滅びることは、人として負わなければならないことですから、人の罪の身代わりとなって十字架で死なれたイエス・キリストは人であるという信仰です。《このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである》(ヘブル二・一四~一八)とあるとおりです。

 このように、イエス・キリストは、神が人となられた方、また真の神であり真の人である方なのです。これが、今日まで正統教会が告白してきた御子の人性と神性に関する告白であり、わたしたちの救いに深く関わることです。

② 十字架

 まず「子である神」、イエス・キリストの生涯を振り返ってみましょう。イエス・キリストは、処女マリアを母としてお生まれになりました。このような奇跡的な出来事は、聖霊によってのみ可能であったと福音書は記しています(マタイ一・一八、ルカ一・三五)。イエス・キリストは、大工を仕事とする父ヨセフと母マリアのもとで、ナザレの村でおよそ三〇歳まで過ごされました。その頃までの様子は、聖書にはあまり記されていませんが、《イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された》(ルカ二・五二)とあり、主イエスの成長が知育、体育、徳育の三育共に調和のとれた成長であったことが分かります。
 およそ三〇歳の時、イエスはナザレの親元を離れ、いわゆる「公生涯」に入られました。彼はイスラエルを巡り歩き、「神の国」の到来を伝えました。その時の様子は、《イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった》(マタイ九・三五)とあるとおりです。教育、宣教、神癒の三つが彼の主な働きでした。
 イエスはこれらの働きのために、十二人の弟子を召され、およそ三年半、彼らと生活を共にしながら活動されました。彼の公生涯の前半は、奇跡に代表される「み業」が中心でしたが、後半は「教え」が中心となりました。しかし、人々は主イエスの教えも奇跡もただご利益を得る手段として追い求め、彼が宣べ伝えた「神の国」への決断には至りませんでした。それは、人の思いが神のみこころから、かけ離れていることを示してします。そしてついに人々は、彼を受け入れず、むしろ捨て去り、十字架へと追いやってしまったのです。

 このようにイエス・キリストの生涯は、十字架の死によって終わります。ここで大切なことは、それが歴史的な事実であるということです。イエス・キリストの生涯、そしてその十字架の死が歴史的な事実であることは、使徒信条が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、特定の人物の名前を挙げていることにも現れています。
 さて、イエス・キリストが十字架で殺されることになった直接の理由は、大祭司の《あなたは神の子キリストなのかどうか》との問いに対する、《あなたの言うとおりである》(マタイ二六・六三~六四)という主イエスの答えが、神を汚すものと断定されたことでした。しかし、ピラトには《祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることがわかっていた》(マルコ一五・一〇)とあります。大祭司が神を引き合いに出してイエスを断罪した姿は、人の罪深さをもっともよく表していたのです。つまり、彼らは、罪を明らかにしたイエスをうらみ、人々がイエスに関心を抱くのをねたんだため、彼を十字架につけたのでした。
 ですから、人がイエス・キリストを裁いたように見えますが、むしろイエス・キリストの十字架の死は、神の裁きでありました。イエスは十字架の上で、《わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか》(マタイ二七・四六)と叫ばれましたが、それは人の罪の身代わりとなられたイエス・キリストが、わたしたちの罪のために神に捨てられ、死を引き受けられている悲痛な叫びなのです。
 「死」とは罪のために永遠に神に捨てられることです。この本当の恐れをわたしたちは知りません。ただ死に対する漠然とした恐れや不安があるだけです。死の恐れを真に知っておられたのは、イエス・キリストのみです。死を前にして主イエスは、《今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい》(ヨハネ一二・二七)と言われ、またゲツセマネの園では、《わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください》(マタイ二六・三九)と祈られました。それほどまでに、人の罪は重く、また神は必ずその罪を裁かれる方であることを、わたしたちは心に刻まなければなりません。
イエス・キリストは、人の罪を負い、神に捨てられて十字架で死なれました。こうして神の義は貫かれましたが、それはまた人間に対する神の愛の現れでもありました。このキリストの十字架の死のゆえに人の罪は赦され、神と人とが和解することができるのです。先に、イエス・キリストの十字架の死は歴史的な事実であると述べましたが、それはイエス・キリストが人の罪を負って神に捨てられたこと、そしてまたイエス・キリストによる救いが歴史に裏打ちされた事実であることの確かな証拠なのです。
 またイエス・キリストの死は、真の神であり真の人である方の死ですから、全ての人を代表しています。それ故に、イエス・キリストを死に定めたのはユダヤの指導者たちであり、十字架につけて殺したのはローマの兵隊たちであって、自分とは無関係であると言える人は一人もいないのです。今、わたしたちは、キリストの十字架が「わたし」のためであったと告白して罪を赦され、キリストのからだである教会に加えられ《主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせる》(Ⅰコリント一一・二六)ものとなりましょう。

③ 復活

 キリストの十字架の死は、歴史的事実であると述べましたが、キリストの復活も同様です。イエスが十字架で死なれたことが事実であることは、信仰をもたない人にとって比較的受け入れやすいことでしょう。しかし、復活を歴史的事実として受け入れることは、信仰が問われることなのです。
 まずわたしたちが心にとめなければならないことは、主イエスの復活は、単に死んだ人がよみがえったということではなく、「十字架の死」から復活されたということです。つまり、人の罪を負って神に捨てられた方が復活されたということは、罪に勝利されたことを意味します。ですから、人は、主イエスの復活を信じることによって罪に勝利することが出来るのです。これが罪の赦しの福音です。《主はわたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである》(ローマ四・二五)とあるとおりです。
 またキリストが十字架の死から復活したことは、死が打ち破られて命、それも永遠の命の世界が開かれたことを意味しています。そして、イエス・キリストの復活を信じ受け入れるものには、神はイエスと同じように復活を与えてくださるのです。《わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神は、イエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう》(Ⅰテサロニケ四・一四)。それ故に、《もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう、・・・もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在》(Ⅰコリント一五・一七~一九)となり、わたしたちは、罪と死の中にとどまり続けることになります。
 この復活の信仰を、教会は伝え続けてきました。《わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと・・・》(Ⅰコリント一五・三~)とあるとおりです。
 わたしたちが、毎週日曜日にともに集まって礼拝をささげるのも、《週のはじめの日》(マタイ二八・一)によみがえられたキリストの復活を記念し、その復活されたイエス・キリストに出会うためなのです。これがわたしたちの信仰の中心であり、喜びの源なのです。

④ 天に昇られた主

 キリストが天に昇られたということは、この地上でのお働きが終ったことを意味します。同時にそれは、新しい時代の始まりでもありました。復活の後、主イエスは四〇日の間、弟子たちに現れ、「神の国」の宣教を委託されました。そして昇天前に《見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい》(ルカ二四・四九)と言われました。その約束のとおり、聖霊が下り、教会が誕生しました。わたしたちは、今この教会の時代に生きているのです。
 それでは、教会に生きるわたしたちと昇天されたキリストとの間には、どのような関係があるのでしょうか。《信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである》(ヘブル一二・二、ほかにローマ八・三四、エペソ一・二〇、コロサイ三・一など)と聖書に繰り返ししるされ、使徒信条にも復活の主は「全能の父なる神の右に座し・・」と告白されているように、昇天されたキリストは、あがめられるべき神として、わたしたちに臨まれます。
  《そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない》(エペソ一・二二~二三)とあるように、キリストは今や教会のかしらとして君臨しておられます。そして《神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである》(ピリピ二・九~一一)とあるように、教会はキリストに対する信仰を言い表し、キリストを賛美し礼拝するのです。これは、キリストをかしらとする教会へと招き入れられたわたしたちの特権です。
 また「神の右」とは、主が神の権威の代行者になられたとの意味です。《キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さる》(ローマ八・三四)のですから、患難、苦悩、迫害などに苦しむことがあっても、わたしたちは常に執成していてくださる主イエスによって、勝利のうちを歩むことができるのです。

⑤ 再び来られる

 先に、主イエスが死に定められた決定的なみ言葉を引用しましたが、それを受けて《あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう》(マタイ二六・六四)と続きます。ここで主はご自身の再臨について断言されましたが、他の多くの個所においても、主イエスは再び来られると繰り返し告げられています。
 しかしこれは、未来のことで、わたしたちはそれが何時であるかを知らされてはいません。それにもかかわらず、未来についての不安や興味につけ込むような宗教や商売が次々と横行するのです。教会の中にも主の再臨をめぐる混乱が起こり、正統的信仰が危機に瀕したときがありました。このような現象は既に新約聖書の時代にあったことが知られていますし、わたしたちの教団の前身である日本ホーリネス教会もそれを経験したことでした。実に正統信仰を損ねるまで未来に関する不安は、大きな問題なのです。
 この様に再臨の時については、古来より様々な憶測がなされ、教会に混乱を来たらすることがありました。しかし主イエスが《その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる》(マルコ一三・三二)と言われたように、その「時」は神のみがご存知なのです。再臨による救いの完成自体への関心は、罪の赦しに生きるわたしたちにとって当然のことですが、その時を定めておられる神の領域に入り込むことは許されていません。むしろわたくしたちは、婚約中の男女が結婚の時を目指してあらゆる備えをするように、主が再び来られることを待ち望む信仰に生きるべきです。それは、既に救われたものがその完成を目指す生き方であり、喜ばしく、また希望に満ちた歩みなのです。《わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる》(ピリピ三・二〇)とあるとおりです。
 再臨に関連して、世の終わりが来るということは、それが世界規模のことであろうと、人生の終わりという個人のことであろうと、「死」への恐れと深く関係しています。それは突き詰めれば罪の問題となります。ですから、主イエスが再び来られるという約束は、わたしたちの罪と死の問題を鋭く問うものなのです。《わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである》(Ⅱコリント五・一〇)とあるように、神の義とそれに基づくさばきとを、わたくしたちは心に留めなければなりません。そこで、いよいよわたしたちは罪を赦すために十字架にかかられ、死を打ち破られ、再び来られるイエス・キリストを主とする信仰へと進むことができるのです。
 さらに《愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする》(Ⅰヨハネ三・二~三)とあるように、わたしたちが最後の時を待ち望みつつ生きることは、自らの生活を整えることになります。