10.四重の福音

 
はじめに

  「福音」とは「良い知らせ」という意味です。聖書は、わたしたちを罪から贖い出すためにイエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったこと、またわたしたちを死から導き出すためにイエス・キリストが最初に復活して下さったことを、語っています。「福音」とは、イエス・キリストがわたしたちのためになして下さった、救いの出来事の本質を表現する言葉で、それは文字通りわたしたちにとって「良い知らせ」です。
 
 日本ホーリネス教団では、この「福音」を「四重(しじゅう)の福音」(新生、聖化、神癒、再臨)と言い表してきました。「四重の福音」という言葉は、アメリカの長老教会牧師であったA.B.シンプソンが提唱したものです。シンプソンは、福音そのものであるイエス・キリストが「救い主」であり、「きよめ主」であり、「癒し主」であり、また「再臨の主」であるという意味で用いました。

 わたしたちの教団の創立者である中田重治は、この表現に敬意を表し、この言葉を使用しました。しかし彼は、その強調点を、福音そのものであるイエス・キリストが、人を変化させることが出来ることにおきました。すなわち、人はキリストによって新しく生まれ変わり(新化)、きよめられ(聖化)、癒され(健化)、復活体に変えられる(栄化)のです。新化と聖化は心霊的な変化を意味し、健化と栄化は具体的な肉体の変化を意味します。

 「新生」からキリスト者の歩みは始まります。そしてその歩みは成長を続け、ウェスレーが「キリスト者の完全」とも表現した「聖化」の体験にやがて導かれます。それはまた、神よりの直接的、間接的な「神癒」を重ねながら成長します。さらにそれは、主イエス・キリストの「再臨」を待望しながらの歩みと言うことができます。

 しかしこれは、単にキリスト者の歩みの順序を示しているだけではありません。過去に「新生」という救いの恵みを経験したものは、未来にその救いが完成する「再臨」という終末の出来事を目指して歩んでいます。「聖化」という現在の恵みは、この過去と未来の間の緊張関係でとらえられます。緊張関係というのは、神の恵みの現実(リアリティ)とも言い換えることができます。わたしたちの信仰の歩みは、こうして豊かにされ、また律せられるのです。「神癒」も同じです。


 また、前文解説で再三触れたように、中田重治は、教派や教会を設立しようとはせずに、ホーリネス運動をはじめました。ですから、信仰告白を制定するようなことはなかったのです。しかし自分たちが言い表している信仰内容を、「四重の福音」として言い表しました。

 厳密には四重の福音を信仰告白と定義することはできないかもしれませんが、似た役割を果たしたとは言えるでしょう。それは、四重の福音が単なるキャッチフレーズではなく、信仰内容を言い表すものであったからです。そして、わたしたちの教団の歴史を振り返る時、指導者たちは「四重の福音」と「信仰告白」をほぼ同列に扱っていたことが分ります。

 わたしたちはここに、運動体ではなく、キリストのからだなる教会という共同体を形成しようと決意し、信仰告白を制定したのですから、これらのことを踏まえて、四重の福音とはどのようなものであるのか、改めて問い直すことは、とても大切なことと言えるでしょう。信仰告白でも、「わたしたちの教会の特別な使命は、新生、聖化、神癒、再臨の四重の福音を全世界に宣べ伝え」ることだと言い表しています。

 このように、「四重の福音」というのは、わたしたちの教団が大切にしてきた、信仰の「体験」を表現したものと言えます。わたしたちが四重の福音についての理解を深めることは、わたしたちの信仰の歩みそのものが豊かになることですし、また、わたしたちの宣教が祝福されることにもつながるでしょう。

このような事柄を前提とし、一つ一つの恵みの内容について見て行きましょう。

① 新生(しんせい)

 宗教改革以来プロテスタント教会では、「救い」を特に「義認」すなわち神に義と認められることと表現してきました。わたしたちの教団の信仰告白でも、「義認」の信仰が言い表されています。「義認」は、本文中で詳しく解説されているように、神は人間が罪人であるにもかかわらず、義しいとみなしてくださるという意味です。この言葉は、法廷用語であったと言われ、「救い」を客観的に言い表しています。

それに対して「新生」は、罪人である人間を、神は新しく生まれ変わらせてくださる、つまり、実質的に変えて下さるということに強調点があります。ある人はこの新生を義化と表現しますが、「義認」も「新生」も、同じ「救い」を異なる側面から言い表す言葉です。

「四重の福音」で、義認ではなく新生という言葉が使われているのは、このように信仰の体験を大切にしてそれを言い表すためです。

 さて、「義認」はローマ人への手紙など、パウロの書簡に多く見出されますが、「新生」はヨハネによる福音書第三章の、主イエスとニコデモの対話に、その意味を見出すことができます。

 ニコデモに主は、《だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない》と言われました。《新しく》と訳されている言葉は、「もう一度」というように時間の経過を表しますが、同時に「上から」という意味をもっています。つまり「神より」の命によって新しく生まれることです。「救われる」というのは、このように信仰をもったものが、神の命によって新しく生まれ変わることです。それは実質が変化することであり、まさにそれは信仰の体験です。

 しかしニコデモは、《人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか》と言いました。《新しく》を「もう一度」の意味と理解したからです。律法の教師であるニコデモがこのようにまちがえるほど、これは人間に理解できるような事柄ではありません。神の恵みです。

 プロテスタント教会では、特に「義認」という言葉を用いると言いました。その中で、「新生」という言葉を好んで用いたのは、わたしたちのような信仰の体験を大切にした教派や、敬虔派と呼ばれるグループです。

 長い教会の歴史の中で、教会が形骸化してくると、信仰の体験を重視するグループが現れ、教会の信仰の命が回復するということが繰り返されてきました。しかし、体験を重視するということは、それだけ主観的になりやすいということでもあります。それはわたしたちが心にとめておかなければならない事柄です。

 たとえばわたしたちの間でも、「新生」の体験を、涙を流すとか、燃やされるといった、現象によって確かめるというようなことが伝統的になされてきました。もちろん、信仰の体験ですから、そのような現象が伴うこともあります。しかし、それが最高最善のものではありませんし、まして救いの確証となるものではありません。大切なのは、み言葉に基づく体験と聖霊の内的な確証です。

② 聖化(せいか)

 わたしたちの教団では、「聖化」を「聖別」、「ホーリネス体験」、「きよめ」などと言い表してきました。「キリスト者の完全」とも言われます。いずれも、一つの信仰体験の諸側面をあらわしています。その聖化とは、わたしたちが罪よりきよめられることです。それは、新しく生まれたものが、さらに体験する恵みです。

 わたしたちの教団の名が「ホーリネス」であるように、この恵みはわたしたちが特に大切に伝え、また強調してきたことです。同時にそれは、《わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである》(レビ一一・四四、Iペテロ一・一六)とあるように、神が全てのキリスト者に求めておられることです。

 この「聖化」も信仰の体験です。そのため、主観的に理解されたり、誤解されたりしてきた部分があります。それは、聖化の体験が「瞬間的」とだけ受け止められたことや、ウェスレーが言った「キリスト者の完全」の「完全」が、道徳的、倫理的に完全になると理解されたことです。人はきよめられた瞬間から再び罪を犯さず、またあらゆる面で完全な人間になると真剣に受け止め、苦しんだ人や、聖化を拒否した人がいます。

 しかし、罪を犯さない完全な人間などどこにもいません。それでも、聖化をそのように理解するなら、自分は完全だと思い込むか自分で努力しなければならなくなります。ですから、聖化の高い理想を掲げながらもそれに到達できないとなると、信仰の歩みが極端に禁欲的になったり、また献身や服従ということが自虐的に理解されたりすることになります。このような完全さを勧めたり人に求めるならば、相手に相当のプレッシャーをかけることにもなるでしょう。しばしばホーリネスの人は人を裁くとか冷たいと批判される理由は、この辺りにあるように思われます。しかも自分自身でそのことに気づかず、全く善意からでありながら、その言動が相手の人間性を無視したものになることもあり得るのです。

 しかしこれでは、既に聖化は恵みではなくなってしまいます。これまで、人々から完全だと思われるような、敬虔な聖徒たちがいたことは確かですが、全ての人がそうなれるわけではありませんし、それが聖化の基準ではありません。人にはそれぞれ個性や特徴があり、それが最大限に生かされるのが聖化の恵みです。

 まず聖化の体験は、瞬間的なものです。しかし、それで全てが完成するのではなく、そこから成長がはじまります。成長というのは、右肩上がりに上昇し続けることではなく、順調に進むこともあれば元に戻ってしまうようなことを繰り返します。そうして次第に成長していきます。これをらせん的に成長すると表現しても良いかもしれません。

 このような成長で良いのであれば、なぜ新生のほかに聖化の体験が必要かということになります。それははじめに記したように、キリスト者により深い恵みが明らかにされているからです。「完全」という言葉は、そのことを端的に示していると言えるでしょう。道徳的に、知的に、また天使のようであるとか、罪を犯す前のアダムのようになることが「完全」であるとすれば、それはわたしたちが思い描く理想とあまり変わりありません。

 《『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(マタイ五・四三~四八)と、主イエスは言われましたが、神を愛することと、人を愛することにおいて完全になるのです。ウェスレーが説いたこともそうでした。

 しかし、神と人を愛さなければならないと思い、愛せない自分に苦しむことがあります。これは、神の愛を知っているキリスト者の苦しみです。神の愛を知っているにもかかわらず、ますます神と人を愛せない、汚れた自分自身の姿を突きつけられるのです。聖化というのは、このような汚れが、イエス・キリストの十字架によってきよめられるという神のみ業です。ですから、愛において完全になることは、人間の努力によって達成できることではなく、神から与えられる恵みなのです。

 わたしたちはまず神と人を愛さなければならないのではありません。わたしが神に愛されていることに気づくのです。わたしに神の恵みは充分に注がれていることに目が開かれ続けることです。そしてわたしたちは神を愛し、その愛に押し出されるようにして人を愛する歩みへと導かれるのです。

 それはまた、キリストにある愛に生きる共同体に招き入れられていることに気づくことでもあります。このような愛に根ざしてキリスト者の交わりは豊かにされ、教会は形造られていきます。ですから、神と人を愛さなければならないとか、教会の交わりはもっと愛に満ちていなければならないというように、聖化の歩みを律法的に理解する必要はありません。そうすれば、牧師や教会員との間でお互いに求める事柄も、もっと広く言えばわたしたちの人間理解も深まることでしょう。

 聖化の歩みは、キリストの十字架に立ち返りつつ、成長を続けることです。それはキリスト者一人一人の内的な信仰の体験であると同時に、教会の中で共有し、分かち合う恵みです。その愛に生きる共同体の絆となるのが、信仰告白です。

 最後に、「きよめ」という言葉は、日本的な倫理観と混同して理解されてきた側面があります。今日のようにモラルが低下している現代、キリスト者が高い倫理観に生きることにも意味はありますし、聖化の信仰がそれを裏付けることもあり得ます。また、この混乱した日本の精神状況の中で、日本人らしさを取り戻そうと声高に叫ばれる今日、聖化の信仰に生きるものがどう生きるのかは、大切な問題です。

 しかしそれらも、あくまで聖化の信仰の「実」であって、その信仰の本質でも基準でもありません。聖書に根ざした聖化の信仰を正しく理解することによって、わたしたちは自由に生きることができるのです。

③ 「神癒」(しんゆ)

 「神癒」とは、神がわたしたちを癒してくださることです。

 旧約聖書には、《わたしは主であって、あなたをいやすものである》(出エジプト一五・二六)と記されていますし、新約聖書にも《イエスはすべての町まち村々を巡り歩いて諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった》(マタイ九・三五~三六)と記されています。このように、聖書はいやしという言葉や記事で満ちています。

科学万能の時代と言われる現代、「いやし」などと言おうものなら、非科学的と一笑されそうです。しかし今日、この「いやし」という言葉が一般社会において多用されています。「心のいやし」、「家庭のいやし」、「学校のいやし」、「社会のいやし」などと言われます。また「いやし系の音楽」といような表現もあれば、「ミュージック・セラピー」、「アート・セラピー」などという言葉が市民権を得てきています。なお、この「セラピー」という言葉は、聖書で「いやし」と訳されているギリシャ語がもとになっています。

 このように「いやし」という言葉が多用されているのは、現代社会が病んでいる一つの証拠と言えるでしょう。しかも「いやし」という言葉は、日本語では本来は肉体的な病気や傷を治すことですが、今日ではもっと広い意味で用いられています。興味深いことです。 

 しかし、そもそも主イエスのなさったいやしは、福音の宣教の一環としてであって、肉体的な病気や傷のいやしが中心的な関心ではありませんでした。中心となるのは福音です。《目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている》(マタイ一一・五)と主は言われましたし、《イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった》(マタイ四・二三)とマタイは主のみわざを伝えています。

 ですから、いやしは救いとの関係で理解されなければなりません。罪の中にあったものが、主によって罪赦され、神の子とされたということは、人間の本来あるべきところに立ち返ったということです。するといやしは、人間が健全な状態に回復するということになります。

 聖書では、《また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように》(Ⅰテサロニケ五・二三)とあるように、人間は「霊と心とからだ」の統一体であると告げています。ですから、健全な状態というのは、真に人間性が回復するということになります。聖書のいやしの物語を読んでいくと、そこで明らかにされているのは神の力であり、また人に求められるのは信仰であることが分かります。

 さて、かつてわたしたちの教団がリバイバルを経験した時、その高揚した雰囲気の中で、病気が癒されるということが起きました。そのような信仰の覚醒運動によって、教会の命が回復してきたとわたしたちは学びました。また、実際に病気が癒されるようなことも、真剣に祈り癒しを求める時に起こります。けれども、先の述べたように、そのような信仰の経験は主観的になりやすいものです。特に癒しという不思議な経験をすると、一層そのようになるでしょう。その結果、癒されないことは信仰が足りないとか、医者や薬にたよるのは不信仰であるというような理解が生じました。

 しかしそれは健康に害があるばかりでなく、人間性を損なうことになりかねません。なによりも、聖書の伝える癒しとは異なります。

 また、癒しを売り物にした宗教がありますが、人間の弱みに付け込んだ種々のトラブルが起きていることを見聞きするとき、真の癒し、そして真の人間性の回復とは何であるか、わたしたちは問い続けなければならないでしょう。

 このようなわたしたちの教会の歴史に関することや、今日の種々の癒しをめぐる問題があるため、わたしたちの間でも、いやしについて語られることは少なくなっているといわれます。

 しかし、自分自身が苦しみの中にある時、また愛するものが苦しみの中にある時、その癒しを心から願わない人がいるでしょうか。また癒しを神に祈るとき、はじめから癒されないと思って祈るでしょうか。そんな不信仰なことはありません。わたしたちは、心から神に祈ることがゆるされているのです。

 今のような時代だからこそ、わたしたちは真の癒しが何かを正しく理解し、伝える必要があります。肉体のとげが離れ去るようにと祈りながらも、それが適わなかったパウロは、しかしそこに神の充分な恵みを見出し、《わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである》(Ⅱコリント一二・一〇)と言いました。あきらめでもなく、やせ我慢でもなく、神の充分な恵みを知るものは、癒しを神に求めることができます。そしてその恵みを受け止めるとき、たとえ肉体がいやされなくとも、神のいやしのわざがなされているのです。

④ 「再臨」(さいりん)

 キリスト教神学において終わりに関する事柄は、一般的に「終末」と呼ばれています。四重の福音ではその信仰を、「再臨」に代表させて言い表しています。再臨とは、世の終わりのときに、キリストが文字通り「再び臨まれる」ことです。また再臨とは、終わりの「時」が強く意識された言葉で、そのリアリティが強く感じられる言葉であると言えます。 

 さて「『前文』の解説」でも触れたことですが、戦前、日本ホーリネス教会は再臨の解釈をめぐって分離しました。また戦時下、再臨信仰が治安維持法に抵触するということで弾圧を受けました。これらの体験を通じて、試練の中にあるものが再臨信仰によって支えられたこと、しかし一方で再臨信仰を誤解したために多くの混乱が生じたことを、わたしたちは学びました。ですから、再臨を正しくとらえることは、わたしたちの教団の信仰の歩みにおいて、非常に重要なことなのです。

 再臨について考える時、必ず大きな問題になることがあります。それは、再臨の時が「いつか」ということです。それこそ、誰もが関心をもつことです。キリスト教の異端の多くは、その時を明らかにしたり、教祖が自分は再臨のキリストであると断言したりします。しかし、これらはすべて、聖書の言葉によって退けられます。《だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである》、《その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる》(マタイ二四・四二、マルコ一三・三二、ルカ二一・三四)と記されているとおりです。

 新興宗教やキリスト教的異端のグループの人々は、世界の終わりが近いと言って人々の不安を煽って入信を勧めて歩きます。未来については、だれもが興味をいだき、また不安を感じるものです。二〇世紀末、なにかと「世紀末」という言葉が使われ、これに便乗するように、ヨハネの黙示録の「ハルマゲドン」という言葉や、再び注目を浴びた「ノストラダムスの大予言」が、マス・メデアなどを通してわたしたちの耳に入って来ました。それも、人々の不安の表われと言えるでしょう。その一方で、二一世紀に入り、人々の不安は変わらないものの、世紀末のような騒ぎ方はあまりありません。「時」についての認識の低さを感じます。

 このような環境の中で、わたしたちはどのように再臨を信じ、そしてそれに続いて起こる終末について考え、対処したらよいのでしょうか。神の言葉である聖書に聞き、み言葉に根ざした信仰を確立する以外に解決の道はありません。

 主イエスは、ご自身の再臨についてどのように語っておられるでしょうか。マルコによる福音書第一三章(その平行記事)において、主はエルサレムの陥落と合わせて世の終わりを語り、その中で次のように語りました。《その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう》(マルコ一三・二四~二七)。「人の子」とは、主イエスがご自身をあらわす時に用いられる言葉です。

 更に主イエスは、譬えをもって、その時に備えるようにと語られました。《そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである》(マタイ二五・一~一三)。思慮深いおとめたちのよう、油を絶やすことなく、目をさましてご自身の再臨を待ち望むようにと、主は語られました。

 またパウロも、再臨に備えた信仰の歩みをするようと、多くの手紙の中で教会に語っています。その中でも、最初に書かれたと言われるテサロニケ人ヘの第一の手紙に詳しく記されていて、一章終わるごとに再臨について言及しています(一・一〇、二・一九~二〇、三・一三、四・一三~一八、五・二三~二四)。その最後は、次のような祈りを記しています。《どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう》(Ⅰテサロニケ五・二三~二四)。

 既に救われたわたしたちは、終わりの時を目指して歩んでいます。その終わりの「時」が、抽象的なものではなく、まして神話などでもなく、現実であると信じることにより、今のわたしたちの信仰の歩みは支えられます。その時に備える生き方こそが「聖化」されたものの歩みであり、「栄化」につながる歩みであるといえます。

 更に「第八章 終末 ②再臨の時」でも述べたように、再臨を待ち望むわたしたちは、福音宣教を推進させる必要があります。わたしたちの教団は四重の福音を強調すると共に、「伝道第一」を標榜し、何よりも伝道することに力を入れてきました。救いにあずかり、再臨の主イエスの前に罪赦されたものとして立つことができるものが、一人でも多く起こされることを願ってのことです。

 再臨を前にしてわたしたちは、ますます「きよい生活」と「福音宣教」に生きるものでありたいと願わされます。