7.教会

 使徒的な公同の教会は、キリストのからだであって、神によって召されて、イエス・キリストを救い主として告白し、礼拝する者たちの交わりの共同体である。
  教会は神の言を宣べ伝え、主イエス・キリストの制定による礼典、すなわち、洗礼と聖餐を執り行う。わたしたちの教会の特別な使命は、新生、聖化、神癒、再臨の四重の福音を全世界に宣べ伝え、この世界のあがないの完成のために奉仕することにある。

① 教会

 キリスト教信仰は、教会なくして成り立ちません。キリスト教の歴史は、教会の歴史です。
 教会は、《神のイスラエル》(ガラテヤ六・一六)と呼ばれています。その起源は、旧約聖書の神の選びと救いの歴史に関係があるからです。旧約聖書に預言された救いは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就しました。そして主イエスは、昇天され神の右に座しておられますが、聖霊によって見えない形でこの地上に現臨しておられます。それが教会です。
 教会の歴史上の始まりは、《突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった》(使徒行伝二・二~三)という、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事にあります。この日、主イエスの弟子たちは聖霊に満たされ、イエスがキリストであることを大胆に宣べ伝え、信じる者たちの群れが形成されました。このように、主イエスは約束どおり聖霊によってこの群れに現臨されました。教会の存在の根拠はキリストご自身です。
 この教会は、キリストご自身に根拠を置き、聖霊に導かれる、天に属する共同体ですが、精神的、観念的な存在ではなく、歴史的な地上にある共同体でもあります。また、使徒信条で告白する「聖」であると同時に、人間の汚れを抱えている存在です。さらに、教会史を通じて教会は、その本質を「見えない教会」と「見える教会」と言い表してきました。教会には、このような相対する側面があることを、正しく受け止める必要があります。
 このように、教会は信仰を持った人々が意気投合してできた集まりではありません。あるいは、バラバラの信仰生活では具合が悪いので、一緒に集まろうと決意してできたのでもありません。神が、長い救いの歴史の中で、決意して始められたみ業が教会です。そこに召し集められた人々によって、教会は見える群となったのです。この意味でまず「教会」があったといえます。

② 使徒的な公同の教会

聖書は、教会の本質について語りますが、教会の在り方を具体的に規定していません。そこで教会は、聖書が語る教会の本質に忠実であろうと努力し、教会とは何かを自ら言い表してきました。その言葉の代表的なものが、「使徒的な公同の教会」です。
 「使徒的」という言葉は、聖霊降臨によって最初に生まれた、主イエスの使徒たちの教会に連なっていることを意味します。しかしこれは、単に新約聖書の使徒たちに倣うという意味ではありません。使徒とは、復活の主イエスに出会い、その福音を告げ知らせた人のことであり、使徒的な教会は、その福音を伝えてきたのです。それが教会の伝統であり、生命の継承です。《あなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である》(エペソ二・二〇)とあるとおりです。
使徒たちによって伝えられた福音は、初代教父たちによって受け継がれ、彼らは「基本信条」を制定して正統信仰を伝えました。中世の形骸化したカトリック教会に対して、ルターやカルヴァンを代表とする宗教改革者たちが、福音を純粋にとらえなおしました。この宗教改革運動の影響を強く受けた教会に英国教会があります。しかし、この英国教会もやがて形骸化するにいたりました。この形骸化を打ち破ったのが、ジョン・ウェスレーに端を発したメソジスト運動で、わたしたちの教団はこの流れに連なっています。
 わたしたちの教団が自らを「使徒的な公同の教会」と告白したことは、リバイバル運動で強調された新生や聖化の生命的な躍動体験を大切にしつつも、教会の伝統をふまえた正しい信仰を受け継いでいることの自覚を明文化したものなのです。

 また、ここで用いられている「公同」という語は、「カトリック」という語の日本語訳ですが、ローマ・カトリック教会ということではありません。これは「普遍的」とも訳される言葉で、教会が地理的・歴史的制約を越えた、広がりをもつものであることを示しています。
 ですから、教会は本質的に公同教会です。わたしたちの教団や、一人一人が所属している地域(ローカル)教会も、この公同教会の一つの現れです。わたしたちは自らが公同教会に連なることを自覚することにより、自己本位ではない教会を形成し、公同の教会が信じる唯一の神、唯一の主の恵みに生きることが出来るのです。

 このような広がりを持つ教会は、その歩みの中で、外からは迫害、内からは誤った教えによって揺り動かされてきました。しかし教会は、その闘いの中で常に正統的な信仰を守り、これを受け継いできました。そこで大切なのは、教会が何を基準として信仰の正統性を守ってきたかということです。
第一に、教会は、正典を結集することによって信仰の正統性を守ってきました。
第二に、教会は、信条を制定することによって信仰の正統性を守ってきました。
第三に、教会は、職制を定めることによって信仰の正統性を守ってきました。すなわち教会は、使徒、預言者、教師、長老、監督などの役職を定め、教会の働きを秩序あるものとしました。
 これらのことは、見えないキリストのからだを、見える人間の群が正しく受け止め、その存在を鮮やかに示すためになされたものです。教会は、その長い歴史においてこの「正典、信条、職制」の三つの要素を、キリストのからだに欠くことのできないものとして、受け継いできました。わたしたちの教団も、その命の流れの中にあるのです。
 聖書に立ち返り、教理を明確にし、制度を整備することは、一度限りのものではありません。聖書が示す教会の本質に忠実であるとは、常に自らを変えようとすることでもあります。それは、人間の持つ愚かさや弱さとの闘いであると同時に、神の恵みの豊かさを新しく見出す喜びの営みでもあるのです。

③ キリストのからだ

 教会とは何かを示す聖書の言葉で重要なものは、《キリストのからだ》(ローマ一二・四~五、Ⅰコリント一二・一二)です。教会が「キリストのからだ」であるという時、次のことを理解しておくと良いでしょう。

  ⅰ.主イエスの命に与る共同体

 《死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである》(Ⅰコリント一五・二一~二二、ローマ五・一二参照)。
 この《ひとりの人》アダムは、罪を犯して死ぬべき存在である全人類を代表しています。それに対して《ひとりの人》キリストは、全人類の罪を負って十字架で死なれ、さらに死に打ち勝って復活されました。ですから自分の罪を告白してイエスを主と信じ、キリストに連なるものは、キリストと同じ復活の命に生きることができます。キリストは、この復活の命に生きるものを代表しておられるのです。
 エペソ人への手紙には、次のように記されています。《神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない》(エペソ一・二〇~二三)。
 このみ言葉が明らかにしているように、教会がキリストの「からだ」であるとは、昇天されたキリストが神の右の座につかれ、天地万物の支配と権威と、権力と権勢をもっておられることと密接に関係しています。すなわち教会は、キリストが現臨され、そのみ業がなされるこの地上における場なのです。教会は、キリストが人となられたこと、十字架で死なれたこと、よみがえられたこと、天に上り神の右の座につかれたことを思い起こすと同時に、再び来られる主を待ち望みます。特に説教と礼典において、わたしたちはキリストが現臨されることを待ち望みます。この意味において、教会におけるキリストの臨在は、決して自明のことではなく、教会という共同体で起きる信仰の出来事なのです。わたしたちの礼拝も伝道の業も希望も、実はここにかかっています。

 ⅱ.主イエスの命に生きる共同体

 教会がキリストのからだであるとは、キリスト者一人一人がその一部であることを意味します。説教と聖餐によって、キリストの十字架と復活のからだに与ることにより、卑しいわたしたちがキリストのからだにされるのです。そして、からだは一つであるけれども、そこに連なるキリスト者は多様です。《あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である》(Ⅰコリント一二・二七)、また《わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである》(ローマ一二・五)とあるとおりです。
 その多様性は、ここでは「使徒、預言者、教師」などの役職や、「奉仕、教え、勧め、寄付、指導」などの異なる賜物として描かれています。また、《彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである》(エペソ四・一一~一三)とも記されています。
 現実的には教会には多くの問題があり、キリストのからだというにはふさわしくないと思える点もあります。この地上に理想的な教会は存在したことがないとも言えるでしょう。しかし大切なのは、そのような教会の現実の中にあって、教会の主はイエス・キリストであると言い表すことです。このことを明らかにするために、《祈と御言のご用》(使徒六・四)を中心として、教会は早い時期からキリスト者それぞれの役割を決め、やがてそれは職制として整えられました。

現在のプロテスタント教会の多くは、職制を教職と信徒から成るものと理解しています。この場合、教職と信徒の間に、身分的な差別はなく、宗教改革者たちが主張した「万人祭司」の理念のとおり、全ての人は神の前に平等です。それでも職制があるのは、見える群であり、欠けの多い人が集う教会が、「キリストの主権」を現そうとするための秩序であり、教会を形成するのに必要不可欠な要素だからです。
 教職とは、教える人のことではなく、教会の職務という意味です。その内容は、神の言葉を正しく語り、礼典を正しく執行し、キリストのからだなる教会を、キリスト以外のものが支配することのないように労することです。信徒の職務は、教会で語られる神の言葉を聞き、礼典に与り、福音を世に証しすることです。それぞれの職務、その役割の違いを認識して尊重しあうことによって、教会は形成されます。
 この秩序の理解の違いが、職制の異なる教派となってあらわれています。この教職制度には三つの種類があります。教会の意思決定の権威を監督に置く監督制度、代表者たちの集まりである長老会に置く長老制度、会衆全体に置く会衆制度です。わたしたちの教団は、そのルーツとなる英国教会やメソジスト教会がそうであるように、監督制度の伝統に生きています。しかし、それぞれの教会で代表者による役員会や、全員が参加する教会総会が開かれるように、これらの三つの形態は、明確に区分すべきというよりは、相互に補い合う部分があります。そして、それぞれの強調点の違いが、教派の違いになっていると言えます。

④ 神の召し

  「教会」とはギリシャ語の「エクレーシア」の訳語です。これは、ギリシャ世界で「市民集会」を意味する言葉ですが、「呼び出す」という意味が含まれています。またそれだけではなく、「七十人訳聖書」で「エクレーシア」と訳され、日本語の旧約聖書で「会衆」と訳されている「カーハール」というヘブル語は、「召し集める」という意味がありす。したがって「教会(エクレーシア)」という言葉の背景には、こうした要素が含まれています。
 この「教会」という原語の意味からも明らかなように、教会とは建物のことではなく、神に召し集められた人の群れ、すなわち神に召された共同体です。わたしたちが信仰によって救いに与ったということは、この教会に召し集められたことです。

⑤ イエス・キリストを救い主として告白

《「あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」》(マタイ一六・一五~一八)。
この個所は、教会の設立者は、主ご自身であると明記しています。そしてその教会は「岩」の上に建っています。この「岩」とは、わたしたちプロテスタント教会においては、《あなたこそ、生ける神の子キリストです》というペテロの信仰告白だと理解しています。
この信仰告白を受けて、新約聖書には《イエスは主である》(Ⅰコリント一二・三、ローマ一〇・九、ピリピ二・一一)という短い信仰告白の言葉が繰り返し記されています。

⑥ 礼拝と交わり

 わたしたちの信仰は、仲間と共に礼拝を守り、交わりを深めることによって成長します。《日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである》(使徒二・四六~四七)と、原始教会の様子が記されていますが、特に彼らが大切にしたのは、主日礼拝を守ることでした。教会は、ユダヤ教の安息日である土曜日に代えて、主の復活を祝う《週のはじめの日》(マタイ二八・一、マルコ一六・二、ルカ二四・一)すなわち日曜日に礼拝を守ってきました。
 さて、プロテスタント教会には、カトリック教会のような告解室がありません。礼拝こそ悔い改めの場、罪の赦しの場であると理解しているからです。交読文や代表者の祈りの中で罪の告白と赦しが求められます。そして、十字架と復活によって救いを実現してくださった、イエス・キリストを主と拝します。そこで神とわたしたちの真実な交わりが生まれます。このことを指し示すのが、礼拝における説教と礼典です。キリストのからだなる教会に連なることが許されている喜びが、わたしたちの交わりの基礎であり、その交わりの輪は広がるのです。この礼拝と交わりへ加わることを呼びかけるのが、わたしたちの宣教です。
 このように、わたしたちの教会生活の中心であり、大切にされるのは礼拝です。大切にするとは、時間、健康、財を管理して礼拝に備えることを意味します。教会は、さまざまな事情で教会に集まれない人に対して配慮します。わたしたちが一人で祈り、聖書を読むことも、共に集まる礼拝があって初めて意味のあるものとなります。
 教会は神に召し集められたものの集いですから、共に集まること自体が神のみ業であり奇跡であると言えます。ですから、教会の交わりとは、単に親しくなることではありません。その交わりとはヨハネが言っているように、《父ならびに御子イエス・キリストとの交わり》(Ⅰヨハネ一・三)なのです。

⑦ 神の言を宣べ伝え

 「教会は神の言を宣べ伝え、主イエス・キリストの制定による礼典、すなわち、洗礼と聖餐を執り行う」という、信仰告白のこの言葉は、宗教改革者たちの言葉に根ざすものです。ルーテル教会が制定した「アウグスブルク信仰告白」には、次のような言葉があります。
「教会は聖徒の会衆であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられるのである」。
 この告白も、先の「使徒的な公同の教会」と同じように、教会とは何かを教会自らが言い表した言葉です。宗教改革者たちの、聖書が語る教会の本質に忠実であろうとした信仰の闘いの中で、この言葉は生み出されたと言えます。この信仰告白の言葉によって、わたしたちの教団は自らが「プロテスタント教会」であると言い表しています。
 さて、教会は神の言葉を、説教によって宣べ伝えます。会衆は礼拝において共に神の言葉に聞くのです。牧師、説教者は聖書を説き明かすことによって神の言葉を語り、会衆は共に牧師の説教を通じて神の言葉を聞きます。そこで明らかになるのは、《わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである》(Ⅰコリント一五・三~五)とあるように、聖書に記されているキリストによるあがないの出来事です。
 わたしたちの教団において、説教は重要視されてきました。各教会における礼拝説教が大切にされると共に、特にホーリネス信仰を強調して開かれる「聖会」においてもそうでした。説教によって、わたしたちの信仰は受け継がれてきたのです。しかしその一方で、牧師が自分の知識や経験に基づいて聖書をやさしく説き明かし、会衆はその恵みを受け取るのが礼拝であるかのような誤解のあったことも否めません。そうなると、会衆は牧師の説教を聞きに集まる客人と同じことになり、主体的に信仰に生き、また教会を形成しようという意識はうすくなりますし、牧師の説教に対する期待や批判が主観的なものになります。また牧師にとっても、神の言葉をそのまま説くだけでなく、分かりやすく、また感動的な説教をしようとする誘惑も付きまといます。
 しかし、神の言葉を語るものがその務めを全うし、神の言葉を聞くものも同様にその務めを果たすことによって、救いの出来事がそこに起こるのです。《全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう》(Ⅰコリント一四・二四~二五)とあるとおりです。

⑧ 礼典を執り行う

 教会は、その最初期から共に集まり、パンを裂いて主のみ業を記念し、三位一体の神の名によって洗礼を授けてきました。これは教会の礼典(サクラメント)として定まりました。プロテスタント教会では、主イエスが定められた、聖餐と洗礼の二つを礼典として執り行っています。
 教会が礼典を行うのは主イエスが定められたからです。それも、主イエスが定められたことを機械的に守り、実行するということではありません。罪からの救いはイエス・キリストによるのであり、この方以外に救いの道はないことを明らかにするためです。

 ⅰ.洗礼(バプテスマ)

 洗礼については、主イエスの宣教命令といわれる言葉の中で、次のように言われています。《あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ》(マタイ二八・一九~二〇)。このように、洗礼は主イエスが定められたことであり、またそれは主の弟子となることを意味します。
 洗礼には水が用いられます。水そのものに何かの力があるわけではありませんが、水が汚れを洗い流すように、罪が赦され救われることを表します。それはまた復活の命に与ることです。《キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう》(ローマ六・三~五)とあるとおりです。
 洗礼はイエスを主と信じたものがその信仰を主体的に言い表し、主に従う生涯を歩み始めることを表明するものです。また、新約聖書に何個所か記されている《イエス・キリストは主である》(ピリピ二・一一他)という信仰告白の言葉は、洗礼式に読まれた賛歌であると言われています。パウロは次のように記しています。《すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである》(ローマ一〇・九~一〇)。ここでいう告白とは自分の信仰を言い表すと同時に、教会が信じ伝えてきた信仰に対する同意をも意味しています。
 このように洗礼は、洗礼を受ける人の救いと、教会の信仰に深くかかわるものですから、教会は洗礼を大切にしてきました。その理解や強調点の違いが、さまざまな教派の特徴にもなっています。そこで、洗礼を受けて始まる教会生活について、少し具体的に考えてみましょう。
 まず、洗礼を受けるとは教会員になることですから、「教会籍」をもつことになります。《わたしたちの国籍は天にある》(ピリピ三・二〇)とありますが、その天の秩序を人間の集まりである教会の営みにおいて表すのが「教会籍」です。教会籍は、基本的には洗礼を受けた教会に属します。その教会で礼拝を守り、教会員としての生活をおくることによって、キリスト者は神の恵みに与ります。同時に教会籍をもつものは、その教会の形成に主体的に関わります。具体的には、毎週の礼拝や諸集会に出席することによって、またその教会の最高議決機関である教会総会における「議決権」の行使と、教会を経済的にささえる「月定献金」をささげることによってです。
 また教会籍は、転居その他の理由で移動することがあります。その際、牧師と役員会の承認を経ることが必要です。異なる教派の場合も、正統的な伝統に立ち、忠実に教会形成を進めている教派との間であれば、同じような手続きがとられます。いずれにしても教会籍は、自分の好き勝手な考えによって軽々しく移動するものではありません。なぜなら教会籍は主が定められた洗礼によるものだからです。
 わたしたちの教団では、洗礼はその人の主体的な決断によってなされることが重要であるとの立場から、幼児洗礼は行っていません。小学生に対する洗礼は教会によっては行われていますが、そこでも本人の意思が尊重されます。子どもの心身の成長に家族や社会が責任をもつように、子どもの信仰の成長について、家族や教会が責任を持って指導する必要があります。さきの教会総会における議決権行使と月定献金についても、子どもに洗礼を授ける教会が、責任をもって判断し指導することになります。
 洗礼を授ける牧師は、按手礼を受けた正教師に限っています。それは、教団の正規の手続きを経て執行された按手により、正教師は使徒に連なる職務に任職され、その職務を洗礼の執行によって果たすことになるからです。臨終等の緊急を要する場合に、正教師でない牧師が洗礼を執行することもありますが、極めて例外的なことです。
 最後に洗礼の方法ですが、全身を水に浸す「浸礼」と、司式者が洗礼鉢で水に浸した手を頭に置く「滴礼」とがあります。全身を浸すのは、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえることを表すもので、教会によっては浸礼のための洗礼槽を備えています。しかし、滴礼も同様の意味をもつものですから、わたしたちの教団では、この両方の方法を認めています。

 ⅱ.聖餐

 次に、聖餐についてパウロは次のように記しています。《わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」》(Ⅰコリント一一・二三~二五)。これが聖餐の制定の言葉です。
 聖餐に用いられるのは、パンとぶどう酒です。ぶどう酒の代わりに、ぶどうのジュースが用いられることもありますが、いずれにせよパンとぶどう酒は、キリストのからだと血を表し、イエス・キリストの十字架を想起させます。
さて聖餐は、最後の晩餐にその起源があります。それは共同の食事でした。共に食卓を囲むことは、同じ命に生きることを意味します。ですから、聖餐に与るとは、イエス・キリストをかしらとする教会の交わりの中で、キリストの死と復活によってもたらされた新しい命に生きることです。二千年も前のイエス・キリストの十字架の死と復活によってわたしたちが救われるのは、この共同体に招き入れられているからです。わたしたちの信仰体験は、個人的であると同時に、共同体的な体験です。このような聖餐についての共通の理解をもって、共に聖餐に与ることが、教会を形成する土台となるのです。
 まず聖餐において明らかにされることは、《わたしを記念するため、このように行いなさい》とあるように、主イエスによるあがないのみわざを想起することにあります。すなわちイエス・キリストの十字架の死と復活を、思い起こし、心に刻むのです。そうすることによって、聖餐に与るものが神の命に生き続けていることを自覚します。また《あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである》(Ⅰコリント一一・二六)とあるように、主の再臨を待ち望みつつ、十字架の福音を述べ伝える使命に生きるのです。
 聖餐のパンとぶどう酒そのものに、ご利益や魔術的な効果があるというのではありません。しかし、教派によって理解が多少違っています。カトリック教会では、パンとぶどう酒がキリストの体の実体に化すると説かれています。プロテスタント教会の中にも、パンとぶどう酒はキリストのからだと血の象徴であるという考えや、パンとぶどう酒にキリストが共存するという考えなど諸説がありますが、それは聖餐のもつ意味内容の豊かさを反映していると言えます。いずれにしろ、聖餐にはキリストの命に与るという神秘的な意味合いが含まれていますので、パンとぶどう酒を受ける際に、それを精神的にのみ解さず、キリストのみわざと現臨を深く心に留めるべきです。
さて、聖餐を執行する牧師は、洗礼と同じく按手礼を受けた正教師に限られます。その理由は洗礼の場合と同様です。聖餐の方法には、いわゆる「恵みの座」と呼ばれる礼拝堂の前方に会衆が集まって聖餐に与るやり方や、司式者が会衆席を回ってパンとぶどう酒を配るやり方などがあります。前方に集まるやり方が、メソジスト教会の伝統に近いと言えるでしょうが、わたしたちの教団として確定している方法があるわけではありません。教会の判断に任せられています。
 また、聖餐に与るのは洗礼を受けたキリスト者に限られます。この際、教派の違いや教会籍は問われません。大切なのは、三位一体の神の名によって洗礼を受け、教会員として生活していることです。
したがって、洗礼を受けていない人はこれに与ることができません。《ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである》(Ⅰコリント一一・二七)とあるように、聖餐は信仰の良心を吟味することによって受けるべきものです。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味を深く知って尊び、また自らを省みて悔い改めの思いをもって与ることです。ですから、洗礼を受けていない人がこれに与ることは、何の意味ももたないのです。
 洗礼を受けていない人に対して教会は、聖餐の意味を伝え、洗礼への招きをしなければなりません。それが教会の宣教のわざです。洗礼を受けていない人が聖餐に与れないのは、差別ではないかという考えがありますが、短絡的です。聖餐の意味を正しく理解せず、洗礼を受けていない人への配慮、すなわち宣教がなされないのであれば、それこそ深く自らを省みなければなりません。

⑨ この世界のあがないの完成のための奉仕

 わたしたちが福音を宣べ伝えるとき、そこに主イエス・キリストのみわざがなされます。《弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。》(マルコ一六・二〇)。キリストのみわざとは、何よりも、罪人の罪が赦され、救われるということです。
 ローマ人への手紙で、パウロは次のように語っています。《被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている》(ローマ八・一九~二二)。
 ここで明らかにされているのは、わたしたち人間の犯した罪が、被造物全体を苦しめていることです。それは同時に人間の罪からの救いが被造物全体にまで及ぶと言うことです。ですからわたしたちの福音宣教は、被造物全体の救い、この世界のあがないのための奉仕へとつながっているのです。したがって、わたしたちの救いの完成が終末の時であるように、被造物全体のあがないの完成もまた、終末のときの新天新地の出現によってもたらされるのです(第八章の「終末」を参照してください)。
 この尊い使命を、わたしたちは、特に「新生、聖化、神癒、再臨」という四重の福音を宣べ伝えるということによって担ってきました。