東洋宣教会とわたしたちの関係

東洋宣教会(OMSI)は、ホーリネス教会の創設時から今日に至るまで、わたしたちの教団と深い関係を保っています。ここでは、その関係がわたしたちの教団にどのような影響をもたらしてきたかについて、考えてみることにします。
東洋宣教会…現在はOMS(ワン・ミッション・ソサエティ)と名称を変更しております
 
① 沿革

 東洋宣教会の創立は、ホーリネス教会と同じ1901年です。正確には、両者は一つの団体でありましたが、後に分かれて、東洋宣教会は宣教師団体、日本ホーリネス教会は教会としての歩みを続けることになります。このように東洋宣教会は、もともと教会ではなく、伝道団体でありますが、それはホーリネス教会も当初は教派としての教会設立の意図がなかったこととも合致します。

 さて、1901年当時は、「中央福音伝道館」と名乗っていました。「東洋宣教会」と名乗ったのは、1905年のことで、中田重治が総理でありましたが、後にC.E.カウマン、E.A.キルボルンと、東洋宣教会の責任者はアメリカ人が担っていきます。

② 東洋宣教会の影響

 ホーリネス教会は、教派的、あるいは信仰的にはメソジストの伝統を受け継いでいます。前述の通り、中田重治はメソジスト教会の教職でありましたし、カウマンもアメリカのグレース・メソジスト・エピスコパル教会に属していました。しかし、礼拝形式など、そのスタイルにメソジストの影響はほとんど残っていません。

 その理由は、中田重治とカウマンが出会うことになる、ムーディー聖書学院など、アメリカのリバイバリズムにあると言えるでしょう。中田重治がアメリカで経験した「きよめ」の体験のような、明確な個人の霊的覚醒の経験や、カウマンらが抱いた海外宣教の幻など、宣教の情熱が、ホーリネス教会の信仰的な特色となりました。
信仰告白との関わりでの影響についても考えてみましょう。メソジスト教会は、メソジスト信仰箇条を持っています。それは、ウェスレーが英国教会の聖公会大綱から、カルヴァン主義的な内容を削除するなどの修正をしたものが土台となっています。しかし、創立当初のホーリネス教会が、このメソジスト信仰箇条を重視した形跡は、ほとんど確認出来ません。

 むしろ重視されたのは、「四重の福音」でした。四重の福音が信仰告白であるというわけではありませんが、機能的には似た役割を果たし、先達も「四重の福音」と「信仰告白」を、ほぼ同列に考えていたことが分かっています。その四重の福音を提唱したのは、A.B.シンプソンです。シンプソンは、もとはアメリカ長老教会の牧師ですが、のちにアライアンス教団の母体ともなる伝道団体をつくります。カウマンが、海外宣教の幻を与えられたのも、このシンプソンの説教を聞いてのことでした。

 このように、ホーリネス教会の信仰的な特徴や、自らの信仰理解には、アメリカのリバイバリズムの影響を見て取ることが出来ます。それは東洋宣教会との関係に負う部分が大きいわけですが、このような特徴が、当時の日本での宣教を、飛躍的に拡大させたことを、わたしたちは正しく理解する必要があるでしょう。

 最後に、日本のほとんどの教会がそうであるように、ホーリネス教会も東洋宣教会を通じて、アメリカのキリスト者の祈りと共に、多大な経済的な援助を受けてきたことを、明記しておかなければなりません。

③ わたしたちの課題

 同時にわたしたちは、東洋宣教会との関係から、自らの課題についても学ばねばなりません。
まず、わたしたちの教団の課題としてよく取り上げられる「教会観がない」と言われる点です。その主な理由は、前述の通り、教会を組織する意図がなく、個人の信仰体験と宣教を重視したことにあります。

 中田重治は、当時の自由主義神学には同調しなかったわけですが、それだからと言って、正しい信仰が何かを追求しきったのではありません。それは、ムーディー聖書学院での「体験」に取って代わったと言えるでしょう。
またカウマンは、そもそも信徒伝道者であり、自分の会社で同僚に伝道するうちに、学びの必要を感じて、ムーディー聖書学院に学んだのでした。また宣教師としての按手についても、メソジスト教会の派遣を拒み、当時のアメリカに既にあった、ホーリネスを強調する運動団体に関係する学校から按手を受けるなど、「教会」的な背景については曖昧な部分があります。

 このように、創始者である中田重治、カウマンらは、宣教の情熱によって活動したのであって、神学的に確立された宣教理念や教会観があったわけではありません。その影響が、今日に至るまで残っているのです。しかし、創始者たちの歩みを分析して批判するのはやさしいことですが、むしろわたしたちに課せられている課題は、このような教会の特徴、体質を、わたしたちの教会の課題として受け止め、克服することにあるでしょう。

 第二の点は、宣教師たちと日本人教職との間の確執です。これは、東洋宣教会とホーリネス教会の関係に限らず、日本の諸教会が程度の差こそあれ、経験してきたことです。日本人としては、自給独立を目指し、教会の運営にも主体的に関わろうとするのですが、母国の方法を主張する主にアメリカの宣教師との間に、溝が生じたのです。ホーリネスの場合で言うと、後述する「聖教団事件」がそれにあたります。

 また、このようなトラブルは、日本ばかりでなく、アジア諸国にもありました。特に、現地の教職が、宣教師の態度に、後進国扱いや民族蔑視の思いを感じ取った例があります。
このような確執は、国粋主義的な思考とも無関係ではありません。やがて、昭和十五年戦争の時期になると、日本のほとんどの教派が、アメリカの宣教師団体との関係を否定するようになります。わたしたちの教団の前身である日本聖教会も当然含まれています。それは、国家権力からの自己保身の術でもあったわけですが、日本聖教会の表向きの主張は、自分たちは宣教師とは関係のない自給独立の教会であり、「純国産基督教会」であるというものでした。そして、日本の教会は、軍国主義、国粋主義、そして天皇制へと埋もれて行き、それが信仰告白よりも重視されてしまいます。このような教会の体質は、今日のわたしたちの課題でもあります。

 また、戦時中の東洋宣教会は、日本のホーリネス教会に対して、どのように接したのか、現時点では明らかではありません。戦況が厳しくなると、日本から宣教師は引き上げます。東洋宣教会の宣教師は、活動の本拠地を現在の韓国や中国に移すことによって、かなり早い時期に日本から引き上げたようですが、そのような事態に至るまでの間、すなわち天皇制や軍国主義に染まって行く日本の教会に対して、東洋宣教会は、どのような態度を示し、どのような発言をしたのでしょうか。この時期の東洋宣教会との関係は重要なものであると思われます。教団の歴史編纂委員会による検証が待たれるところですが、国粋主義のような自らを絶対化するような思考が教会にあれば、それは宣教師団体との関係にも必ず影響を及ぼすでしょうし、それだけ自らを見る目、その視野は狭められることでしょう。現在のわたしたちと東洋宣教会との関係についても、今日的な意味が問われることでありましょう。

 最後に、統計主義について考えたいと思います。宣教師は母国の教会の支援によって活動します。ですから、その活動報告や統計が、非常に重要な情報として母国の教会に提供されます。そしてその活動報告によって、支援額が変わることも否めない事実です。そのため、宣教活動が、統計や報告のための伝道へとなってしまうこともありました。今日のわたしたちの、教勢報告や受洗者数などの「統計」とも関係しています。それは重要なことです。わたしたちの宣教活動が、それらの統計だけに左右されずに堅実に進められるためにも、わたしたちが最も大切なことが何であるかを見極めることが出来るように、そのためにも信仰告白に生きることの大切さを確認したいと思います。