8.終末


 イエス・キリストが再臨する時、キリストにある死者は復活し、生きている聖徒は栄化され、神の国が完成する。

① イエス・キリストの再臨

 聖書は、この世界は「創造で始まり終末で終わる」という一貫した歴史観によって記されています。それは、すべてのものには終わりがあり、わたしたちや世界に対しての総決算の日(マタイ二五・一〇)があるということです。そのような終わりの時、すなわち終末は、主イエスがはじめに来られた時(初臨)から既に始まっていると言えますが、主イエスがこの世界に再び来られる時(再臨)に、誰の目にもはっきりと見えるかたちで実現します。《ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう》(使徒一・一一)と、あるとおりです。
 再臨の信仰は、聖書の中にあり、キリスト教会二〇〇〇年の歴史の中で信じ続けられている正統的な信仰で、「(主は)かしこより来たりて、生けるもとの死にたるものとをさばきたまわん」と、使徒信条で告白されているとおりです。

② 再臨の時

 さて、このような主イエスの再臨はいつ起こるのでしょうか。主が《その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる》(マタイ二四・三六)と言われたように、人が「その時」を予測することはできません。ダニエル書等から予測したりする人々があとを絶ちませんが、それらは異端として退けられてきました。それは終わりの時に対する人々の関心の表われでもありますが、わたしたちは主イエスのこの言葉に固く立ち、正しい望みに生きるべきです。
 しかし、いつ再臨があってもよいように備え、主を畏れ、信頼しつつ生きることが大切です。《だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである》(マタイ二五・一三)と、主が言われたとおりです(マタイ二五・一~一三、Ⅰテサロニケ五・一~一一、他)。
 マルティン・ルターは、「あなたは、明日主の再臨があるとしたらどうしますか」と尋ねられて、「たとえ明日が終わりの日でも、わたしは今日、りんごの木を植える」と答えたと言われています。それは、毎日の、あたりまえの生活を大切にすることが、主の御前の生活であると自覚することを意味します。それは主との交わりの喜びに生かされることであり、再臨の主への望みを支えるものです。
さらにわたしたちは、《神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです》(Ⅱペテロ三・一二 新共同訳)と言われているように、神の日、すなわち再臨の日を、待ち望みつつ「早める」ことが求められています。もちろん「再臨の時」は神の主権の中にあるのですが、教会は《御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように》(マタイ六・一〇)と祈るように、主イエスに教えられて、祈り続けてきました。この祈りは、なぜわたしたちは苦しまなければならないのか、なぜ悪が勝利する現実が続くのかという矛盾に満ちた世界に、「一日も早く、あなたの愛の勝利とご支配を実現してください」との切なる願いなのです。更に、《この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである》(マタイ二四・一四)とあるように、この主の愛の勝利にあずかる人々が一人でも多く起こされ、「再臨の時」が速やかに来るように、わたしたちは福音宣教に励むのです。

③ 死者の復活と栄化

 イエス・キリストが再臨される時、主イエスへの信仰に生き、すでに死んだ者たちが、まず主と同じように復活させられます。次に、その時生きている聖徒たちが主のもとに携え上げられます。《兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい》(Ⅰテサロニケ四・一三~一八)とあるとおりです。
 いずれにしてもこの時、わたしたちはよみがえりの主と同じ、栄光のからだに変えられます。これを「栄化」と呼んでいます。《しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである》(Ⅰコリント一五・二〇)、《ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである》(Ⅰコリント一五・五一~五三)とあるとおりです。また使徒信条において、「からだのよみがえり」を信じるとあるように、教会はこの信仰を告白し続けてきました。
 すでにわたしたちは、洗礼を受けた時に、主の死と復活とに結び合わされていますが、それが完成させられるのが主の再臨の時なのです。《それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう》(ローマ六・三~五)とあるとおりです。

④ 神の国の完成

 終わりの日に、主はすべての悪の力と死を滅ぼし、世界を父なる神にお渡しになります。そして神の完全な支配である、神の国が実現します。《ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである》(Ⅰコリント一五・二三~二八)とあるとおりです。
 またヨハネの黙示録には、次のように記されています。《わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」》(黙示録二一・一~五)。
 ですからわたしたちは、終末を絶望的にとらえてはなりません。その日には、「新しい天と新しい地」が出現し、そこで主と共に永遠に生きることができると約束されているのです。それですから、その日は希望と慰めに満ちた日なのです。
 《これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アーメン、主イエスよ、きたりませ》(黙示緑二二・二〇)。この「主イエスよ、きたりませ」は、原始教会の中で告白されていた主の再臨を待望する言葉です。それがコリント人への第一の手紙では、当時ユダヤの世界で一般的に使われていたアラム語で、《マラナ・タ》と記されています(Ⅰコリント一六・二二)。ギリシャ語で記されている新約聖書に、アラム語の言葉がそのまま用いられていることは、再臨を待望する信仰が、原始教会から告白されていたことを示しています。この再臨の希望によって、迫害や異端と戦う教会は支えられ、歴代の教会はこの正しい信仰を継承して来ました。
わたしたちもこの告白によって、その信仰に連なるのです。