6.救い
イエス・キリストの贖いを信じる者は、信仰によって義とされ、神との和解を得、神の子とされる。義とされた者は、さらに聖霊の満たしにより、完全な聖化が与えられ、再臨の時に栄化の恵みにあずかる。
① イエス・キリストの贖いを信じる
第四章「子である神」の解説で述べましたように、主イエスの十字架の死によって、わたしたちは罪より贖われ、救いの恵みにあずかることができます。主イエスの贖いのみ業は、全人類のために既に成し遂げられましたが、その恵みを自らのものにするためには、主のみ業を「自分のためであった」と信じる信仰が必要です。
わたしたちの救いの根拠は、わたしたちの中にではなく、全てイエス・キリストにあります。わたしたち人間がどんなに善い行いをしても、どれほどの厳しい修行を積んだとしても、そのことによっては救われません。なぜならわたしたちは、自分の行いによって、自らの罪と死の問題に解決を与えることはできないからです。使徒パウロも《わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか》(ローマ七・二四)と、罪と死のとりこになっている自らの姿、そして全人類の姿を嘆いています。
しかし主イエスの贖いのみ業を信じることによって、神は、わたしたちの罪が主の十字架で全く処分されたものとして、わたしたちを罪のない者と認めてくださるのです。これは神の一方的な恩寵であり、わたしたちの信仰とは、このように救いの道を開いてくださった神を信頼し、主イエスの贖いのみ業を受け入れることです。
第四章「子である神」の解説で述べましたように、主イエスの十字架の死によって、わたしたちは罪より贖われ、救いの恵みにあずかることができます。主イエスの贖いのみ業は、全人類のために既に成し遂げられましたが、その恵みを自らのものにするためには、主のみ業を「自分のためであった」と信じる信仰が必要です。
わたしたちの救いの根拠は、わたしたちの中にではなく、全てイエス・キリストにあります。わたしたち人間がどんなに善い行いをしても、どれほどの厳しい修行を積んだとしても、そのことによっては救われません。なぜならわたしたちは、自分の行いによって、自らの罪と死の問題に解決を与えることはできないからです。使徒パウロも《わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか》(ローマ七・二四)と、罪と死のとりこになっている自らの姿、そして全人類の姿を嘆いています。
しかし主イエスの贖いのみ業を信じることによって、神は、わたしたちの罪が主の十字架で全く処分されたものとして、わたしたちを罪のない者と認めてくださるのです。これは神の一方的な恩寵であり、わたしたちの信仰とは、このように救いの道を開いてくださった神を信頼し、主イエスの贖いのみ業を受け入れることです。
② 信仰による義
神は「わたしたちを罪のない者と認めてくださる」と述べましたが、積極的には、神はわたしたちを義しい者と、認めてくださることを意味します。教会はこの恵みを、「義認」と言い表して来ました。
「義」とは、何よりまず神ご自身のご性質です。《主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である》(申命記三二・四、他)とあります。ですから、義である神の前に立ち、神との交わりに生きるためには、人も義でなければなりません。神は、人が義に生きるために、十戒を中心とした律法を与えてくださいました。しかし人はこれを完全に守ることはできず、かえって神の戒めに背いて、不義な生き方をするようになってしまいました。
義である神は、このような人間を裁き、滅ぼしてしまわれるのが当然です。しかし神は、そのような人間をなお愛され、律法とは別な方法によって、人間が義とされる道を開いてくださったのです。パウロはこの驚くべき神のみ業を、次のように述べています。《しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである》(ローマ三・二一~二六)。このように、罪あるわたしたちは、イエス・キリストの贖いのみ業を信じる信仰によってのみ、神に義と認められるのです。
義認の恵みは、プロテスタントの信仰に立つわたしたちには、特に大切な教理であります。一五一七年一〇月三一日、宗教改革者マルティン・ルターは、当時のカトリック教会が、功績による救いを説くばかりか、購入すれば神への功績を積んだものとみなされる「免罪符」の発行等によって堕落していることに抗議し、「九十五ヵ条の提題」をヴィッテンベルクの城教会門扉に提示しました。このことに端を発して宗教改革の運動が広まり、プロテスタント教会が誕生しました。プロテスタントとは「抗議者」を意味する言葉であり、またプロテスタント教会は「福音主義教会」とも呼ばれます。
宗教改革の三大原理として、「信仰義認」「聖書主義」「万人祭司」が掲げられましたが、「信仰義認」はその内容原理と言われ、宗教改革の原動力でありました。ルターはローマ人への手紙を学ぶ中で、《神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである》(一・一七)とのみ言葉に出会い、「自分の義を立てることによってではなく、信仰によってのみ神に義とされる」との福音を再発見しました。この福音の再発見の経験が、ルターを先の行動へと駆り立てたのです。
聖書が語り、宗教改革において再確認された信仰義認の教理にわたしたちの教団も立ち、「信仰によって義とされ」と、信仰告白において言い表すのです。
神は「わたしたちを罪のない者と認めてくださる」と述べましたが、積極的には、神はわたしたちを義しい者と、認めてくださることを意味します。教会はこの恵みを、「義認」と言い表して来ました。
「義」とは、何よりまず神ご自身のご性質です。《主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である》(申命記三二・四、他)とあります。ですから、義である神の前に立ち、神との交わりに生きるためには、人も義でなければなりません。神は、人が義に生きるために、十戒を中心とした律法を与えてくださいました。しかし人はこれを完全に守ることはできず、かえって神の戒めに背いて、不義な生き方をするようになってしまいました。
義である神は、このような人間を裁き、滅ぼしてしまわれるのが当然です。しかし神は、そのような人間をなお愛され、律法とは別な方法によって、人間が義とされる道を開いてくださったのです。パウロはこの驚くべき神のみ業を、次のように述べています。《しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである》(ローマ三・二一~二六)。このように、罪あるわたしたちは、イエス・キリストの贖いのみ業を信じる信仰によってのみ、神に義と認められるのです。
義認の恵みは、プロテスタントの信仰に立つわたしたちには、特に大切な教理であります。一五一七年一〇月三一日、宗教改革者マルティン・ルターは、当時のカトリック教会が、功績による救いを説くばかりか、購入すれば神への功績を積んだものとみなされる「免罪符」の発行等によって堕落していることに抗議し、「九十五ヵ条の提題」をヴィッテンベルクの城教会門扉に提示しました。このことに端を発して宗教改革の運動が広まり、プロテスタント教会が誕生しました。プロテスタントとは「抗議者」を意味する言葉であり、またプロテスタント教会は「福音主義教会」とも呼ばれます。
宗教改革の三大原理として、「信仰義認」「聖書主義」「万人祭司」が掲げられましたが、「信仰義認」はその内容原理と言われ、宗教改革の原動力でありました。ルターはローマ人への手紙を学ぶ中で、《神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである》(一・一七)とのみ言葉に出会い、「自分の義を立てることによってではなく、信仰によってのみ神に義とされる」との福音を再発見しました。この福音の再発見の経験が、ルターを先の行動へと駆り立てたのです。
聖書が語り、宗教改革において再確認された信仰義認の教理にわたしたちの教団も立ち、「信仰によって義とされ」と、信仰告白において言い表すのです。
③ 神との和解、神の子とされる
神に義とされたわたしたちは、同時に神と和解させられます。罪あるわたしたちは、神に敵対し、神の怒りのもとにある者でした。しかし主イエスの贖いのみ業によって罪赦され、神との平和が回復され、わたしたちは神との交わりに生きる者とされたのです(《このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている》(ローマ五・一)、《神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである》(Ⅱコリント五・一八~一九)。
このように神に義と認められ、神との平和が回復されたわたしたちは、また同時に神の子とされているのです。《すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である》(ローマ八・一四)とあるとおりです。この特権の故に、わたしたちは、イエス・キリストの父なる神を、「わたしの父」として、また教会に生きる仲間と共に「わたしたちの父」として、《「アバ父よ」》(ローマ八・一五、ガラテヤ四・六)と呼ぶことができるのです(第三章「父である神」、①「父である神」参照)。
また、信仰告白のこの部分では言い表されていませんが、神に義と認められ、神との平和が回復し、神の子とされるこの救いの恵みを、わたしたちの教団は「新生」の経験として、特に強調します。それは、新しい命、すなわちイエス・キリストの命に生かされるという、わたしたちの中に引き起こされた恵みの側面を強調するからです。
(四重の福音の解説「新生」の項を、さらに参照してください。)
神に義とされたわたしたちは、同時に神と和解させられます。罪あるわたしたちは、神に敵対し、神の怒りのもとにある者でした。しかし主イエスの贖いのみ業によって罪赦され、神との平和が回復され、わたしたちは神との交わりに生きる者とされたのです(《このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている》(ローマ五・一)、《神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである》(Ⅱコリント五・一八~一九)。
このように神に義と認められ、神との平和が回復されたわたしたちは、また同時に神の子とされているのです。《すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である》(ローマ八・一四)とあるとおりです。この特権の故に、わたしたちは、イエス・キリストの父なる神を、「わたしの父」として、また教会に生きる仲間と共に「わたしたちの父」として、《「アバ父よ」》(ローマ八・一五、ガラテヤ四・六)と呼ぶことができるのです(第三章「父である神」、①「父である神」参照)。
また、信仰告白のこの部分では言い表されていませんが、神に義と認められ、神との平和が回復し、神の子とされるこの救いの恵みを、わたしたちの教団は「新生」の経験として、特に強調します。それは、新しい命、すなわちイエス・キリストの命に生かされるという、わたしたちの中に引き起こされた恵みの側面を強調するからです。
(四重の福音の解説「新生」の項を、さらに参照してください。)
④ さらに聖霊の満たしにより、完全な聖化が与えられ
救いに関する告白の第二段階として、「聖霊の満たし」と「完全な聖化」について告白しています。これらは、わたしたちが経験する同じ恵みを別の言葉で言い表したものであり、わたしたちの教団では、「きよめ」「第二の転機」とも言い表してきました。この恵みは新生の後、すなわち義認の後に経験する信仰体験です。
もちろんわたしたちは、はじめから聖霊の働きの中に導かれています。自らの罪を認め、イエスを主と信じることが、既に聖霊のみ業です。《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない》(Ⅰコリント一二・三)とある通りです。しかしわたしたちは、新生の経験をした時点では、罪や信仰について、まだ浅い理解しかできません。それが信仰の歩みを続けていく中で、なお深い罪の自覚へと聖霊によって導かれ、その罪すらも主イエスの十字架の贖いによって赦されていることを、知らされるのです。それはわたしたちにとって、時には新生の経験にも匹敵する大きな喜びを伴う経験となるため、新生が人生における「第一の転機」であるのに対し、この経験が「第二の転機」といわれます。このような経験は一度だけのものではなく、何度でも繰り返され、その度により深い罪の悔い改めと、より大きな神の恵みを体験することになります。この自覚的な経験としての「第二の転機」をわたしたちの教団は強調しています。
この「第二の転機」の信仰体験は、後のメソジスト教会になるメソジスト運動を始めた、ジョン・ウェスレーが強調したもので、彼は、救いの全体を「聖化」の中で理解し、「義認・新生」を「原初的聖化」ととらえ、この第二の転機を「全き聖化」(キリスト者の完全)と、とらえています。わたしたちの教団の信仰の系譜は、ここに辿ることができます。
「第二の転機」は、「聖霊の満たし」と切り離すことはできません。使徒パウロは《わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない》(ガラテヤ五・一六)と語り、またエペソ人への手紙には、《酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい》(五・一八~一九)と記しています。御霊に満たされ、神と隣人を愛する愛に溢れ、主に従い、献身の生涯を歩むことこそ、聖書が示すキリスト者生活のあり方です。
さて、このような「聖霊の満たし」と「完全な聖化」の歩みは、わたしたちの教会生活において経験され、深められる体験です。教会の兄弟姉妹との交わりをとおして、わたしたちは改めて自らの罪深さを知らされます。そして兄弟姉妹と共に、主の日毎に礼拝をささげ、神の言葉を聴き、聖餐に与ることによって、わたしたちはその罪の赦しを経験するのです。この赦しの恵みに生きる者たちの交わりこそ「聖徒の交わり」といわれるものです。
(四重の福音の解説「聖化」の項を、さらに参照してください。)
救いに関する告白の第二段階として、「聖霊の満たし」と「完全な聖化」について告白しています。これらは、わたしたちが経験する同じ恵みを別の言葉で言い表したものであり、わたしたちの教団では、「きよめ」「第二の転機」とも言い表してきました。この恵みは新生の後、すなわち義認の後に経験する信仰体験です。
もちろんわたしたちは、はじめから聖霊の働きの中に導かれています。自らの罪を認め、イエスを主と信じることが、既に聖霊のみ業です。《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない》(Ⅰコリント一二・三)とある通りです。しかしわたしたちは、新生の経験をした時点では、罪や信仰について、まだ浅い理解しかできません。それが信仰の歩みを続けていく中で、なお深い罪の自覚へと聖霊によって導かれ、その罪すらも主イエスの十字架の贖いによって赦されていることを、知らされるのです。それはわたしたちにとって、時には新生の経験にも匹敵する大きな喜びを伴う経験となるため、新生が人生における「第一の転機」であるのに対し、この経験が「第二の転機」といわれます。このような経験は一度だけのものではなく、何度でも繰り返され、その度により深い罪の悔い改めと、より大きな神の恵みを体験することになります。この自覚的な経験としての「第二の転機」をわたしたちの教団は強調しています。
この「第二の転機」の信仰体験は、後のメソジスト教会になるメソジスト運動を始めた、ジョン・ウェスレーが強調したもので、彼は、救いの全体を「聖化」の中で理解し、「義認・新生」を「原初的聖化」ととらえ、この第二の転機を「全き聖化」(キリスト者の完全)と、とらえています。わたしたちの教団の信仰の系譜は、ここに辿ることができます。
「第二の転機」は、「聖霊の満たし」と切り離すことはできません。使徒パウロは《わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない》(ガラテヤ五・一六)と語り、またエペソ人への手紙には、《酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい》(五・一八~一九)と記しています。御霊に満たされ、神と隣人を愛する愛に溢れ、主に従い、献身の生涯を歩むことこそ、聖書が示すキリスト者生活のあり方です。
さて、このような「聖霊の満たし」と「完全な聖化」の歩みは、わたしたちの教会生活において経験され、深められる体験です。教会の兄弟姉妹との交わりをとおして、わたしたちは改めて自らの罪深さを知らされます。そして兄弟姉妹と共に、主の日毎に礼拝をささげ、神の言葉を聴き、聖餐に与ることによって、わたしたちはその罪の赦しを経験するのです。この赦しの恵みに生きる者たちの交わりこそ「聖徒の交わり」といわれるものです。
(四重の福音の解説「聖化」の項を、さらに参照してください。)
⑤ 再臨の時に栄化の恵みにあずかる
わたしたちの信仰生活は、完成を目指して成長し続けるものです。キリスト者の信仰が成長するとは、何よりも聖霊によってキリストに似た者へ変えられて行くことです。《わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである》(Ⅱコリント三・一八)とあるように、信仰の最終的な到達点は、主と同じ姿に変えられることです。
しかし、わたしたちがこの地上で生活する限り、罪を全く犯すことのない「天使的な、罪のない完全」に到達することは不可能です。それではいつこのことは可能なのでしょうか。それは、主イエス・キリストが再臨される時です。その時に、わたしたちは復活の主と同じ栄光の姿へと変えられます。この恵みを「栄化」と言います。《愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである》(Ⅰヨハネ三・二)。とヨハネが記しているように、主の再臨の日には、わたしたちは栄化されるのです。
(四重の福音の解説「再臨」の項を、さらに参照してください。)
わたしたちの信仰生活は、完成を目指して成長し続けるものです。キリスト者の信仰が成長するとは、何よりも聖霊によってキリストに似た者へ変えられて行くことです。《わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである》(Ⅱコリント三・一八)とあるように、信仰の最終的な到達点は、主と同じ姿に変えられることです。
しかし、わたしたちがこの地上で生活する限り、罪を全く犯すことのない「天使的な、罪のない完全」に到達することは不可能です。それではいつこのことは可能なのでしょうか。それは、主イエス・キリストが再臨される時です。その時に、わたしたちは復活の主と同じ栄光の姿へと変えられます。この恵みを「栄化」と言います。《愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである》(Ⅰヨハネ三・二)。とヨハネが記しているように、主の再臨の日には、わたしたちは栄化されるのです。
(四重の福音の解説「再臨」の項を、さらに参照してください。)