伊藤めぐみ

 
 10月中旬、JOMA50周年世界宣教フォーラムがZoomにて開催されました。JOMAは「海外宣教連絡協力会」として、1971年にスタートしました。日本ホーリネス教団や私の派遣先であるOMFインターナショナルもJOMAに属しています。今回の宣教フォーラムでは、「50年前の宣教がいったいどのようなものであったのか」ということを、当時の宣教師や派遣団体・教会の諸先生方の貴重な体験から学ぶことができました。語られた方々の顔ぶれを見るときに、「Zoomだからこそ実現できた企画だな」と、思いもかけないコロナの恩恵に感謝しました。

 宣教フォーラムは2日間にわたって開催されました。1日目のテーマは、「派遣される側から」。1960年代、70年代に派遣された3名の宣教師が、当時の様子を証してくださいました。かなりご高齢の先生もおられましたが、いざ宣教について語り始めると、熱い思いがほとばしり、聞く私たちにもその情熱が伝わってきました。
 
 当時の宣教は、今とは比べものにならないほど過酷な状況でおこなわれたようです。多くの感染症と闘い、政治的にも不安定な中での働きでした。タイで宣教をしていた牧野師は、同僚が何人も殉教したと語ってくださいました。また、興味深いことに、証をされた3人の宣教師は、皆さん「最初、進もうと思っていたところとは違う場所に導かれた」とのこと。セスナ機でのアマゾン宣教を夢見た青年は、地味なアジア人伝道へ。日本で教会開拓のはずだった青年は、ケニアで教会開拓へ。「宣教は祈り支えるもの」と考えていた青年は、結婚と同時に自らが祈り支えられる宣教師に。それぞれにドラマがあり、どのように主に導かれていったのか、現代の私たちにも参考になることが満載でした。

 また、このベテラン宣教師の証の応答者として、2人の若手宣教師が証しました。そのうちの1人は、ロゴス・ホープ号で世界を巡回している(この記事が出る頃にはすでに下船)、茅ヶ崎教会の中道実由香姉。日本時間は夜でしたが、彼女は船上で朝日が差し込む中での応答でした。「すべての選択は、結果を生み出す。自分はこれまで長い間放蕩娘をしてきた。しかし、神さまの声に従ったこと、これは私が今までした中で、最高のチョイスだった」。青年、そしてPK(牧師子弟)への熱いメッセージに、青年でもPKでもない私まで心揺さぶられました。教団の諸先生方、教会の皆さま、この場を借りてお願いします。ぜひ、青年、PKに彼女の証を届けてください。語る機会を与えてください。牧師が10人語るよりも、大きなパッションを与えることでしょう。
 
 2日目のテーマは、「派遣する側から」。こちらも約50年前に、どのような思いやビジョンをもって宣教師を送り出してきたのかを、3人の先生方が証してくださいました。当時は、日本から宣教師を送り出すことなど、なかなか考えられなかった時代です。しかし、教団でビジョンを掲げ、そのビジョンを教会で共有し、一人ひとりが具体的な形で支えていった。そのプロセスから学ばされることが多かったです。「宣教は、宣教師だけの働きではない。派遣する側、派遣される側、ともに覚悟が必要」との言葉に、今も昔も変わらない、アンテオケ教会的なあり方を再確認させられました。

 2日目も前日同様、2人の応答者が立てられました。そこで、東京フリー・メソジスト教団の星加師から提案がありました。「現代は高齢化社会で、教会でもその風潮は否めない。若い世代をメインにした教会形成がなされていないので、宣教に重荷をもつのが難しい現状。『ザ・宣教大会』を開催して待つよりも、宣教経験者が、キャンプなどで若者と交わってほしい」とのことでした。実際、hi-b.a.キャンプで、ロゴス号経験者が夜な夜な語ってくれた宣教の体験は、今でも星加師の心に残っているそうです。

 現代はグローバル社会であり、国内・国外の境界線もあいまいになってきました。だからこそ、新型コロナウイルスの感染も、あっという間に全世界へ広がっていったのです。この新しい時代では、50年前では考えもつかなかったような方法での宣教が可能です。先輩方のもっておられる熱い思いはしっかりと受け継ぎつつ、同時に「新しい時代にあった宣教はいったいどのようなものなのか」と考えさせられるよき時となり感謝です。

 
 
宣教局長 加藤 望
 

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)。
 
 これは復活の主イエスが天にお帰りになる前に、弟子たちに遺された宣教命令です。あまりにも有名で、皆さんも耳にタコができるくらい聞いたかもしれませんね。先日、英語の聖書を読んでいてこの個所にきたとき、私はハッとしました。ゴー・イントゥとあるではないですか。ゴー・アウトではなくゴー・イントゥ! 出ていく行為が目的ではなく、どこに向かっていくのか、その対象が重要なのです。教会の外に出て行って福音を語らねばという義務感での宣教はゴー・アウトの宣教。あるいは積極的に御言を語る一方的宣教行為もゴー・アウトの宣教。出て行くこと自体が目的となってしまい、いずれも自己満足型の宣教になってしまう危険があります。
 
 ゴー・イントゥを直訳すると、「入り込んで」とでも言えるでしょうか。キリストの福音を伝える相手が抱える問題に関わり、ともに考え寄り添う、相手をよく知る、親しくなって相手のニーズを理解する……。福音の担い手にとって、相手に対するきめ細かい配慮が求められているのではないでしょうか。ある弟子化セミナーに出席したときのことです。シンガポールから来られた講師が、「ストップ・エバンジェライジング(一方的宣教は止めよう)、バット・スタート・ラビング・ピープル・イン・ザ・ネイム・オブ・ジーザス(イエスの御名によって人々を愛することから始めよう)」と言われました。そして、こんな例話が語られたのです。あるクリスチャンが、教会の特別集会に誘っていた友人を迎えに行くと、彼は子どもが熱を出していて行けないと断りました。その時あなただったら、強引に教会に連れて行きますか。そんなことはしないでしょう。残念そうに次の機会にと言って別れますか。多くの場合そうでしょう。その時、心の中で「サタンが働いて妨害した」と思いますか。熱心な方にありがちな反応かもしれません。でもむしろ、別れ際に「お子さんのために祈ってもよろしいですか」と尋ねてみたらどうでしょう。祈りを拒む人はいません。「イエスの御名によって人々を愛する」とはそういうことなのです。

 ゴー・イントゥ・オール・ザ・ワールド。あなたが置かれた世界で、福音を伝える相手が置かれている状況にあなたも飛び込み、その人に寄り添っていきましょう。あなたの存在を通して、神の愛が伝わって行くのです。
 

(「りばいばる」誌 2017年7月号)
 
前宣教局長 中道 善次

 
 OMS日本の宣教師として長年働かれたスタンレー・ダイヤ先生は、宣教学の分野での博士号の学位を持っておられる。ダイヤ先生のユニークな宣教の神学が、「神の三角形の法則」である。ダイヤ先生は、使徒行伝8〜10章に見られる救いの出来事から、「神の三角形の法則」を見出された。

 「神の三角形の法則」とは、三角形の頂点におられる神が、両底辺の人物にそれぞれ働きかけられる。一人は神が救いを与えようとされる人物。もう一人は神の僕である。

 神はご自身で直接求道者に働きかけ、その魂を救いへと備えられる。そして神はご自分の僕に、○○の所に行って、その人を救いに導きなさい(あるいは、バプテスマを授けなさい)と命じられる。神に命じられた僕は、当惑しながらも従うと、神がおっしゃったとおりに救いのわざがなされていく。
 
 使徒行伝8章では、神が直接働きかけられた求道者はエチオピアの高官である。神が用いられた僕はピリポである。エチオピアの高官の魂は備えられており、ピリポはイザヤ書53章を解き明かし、信仰告白に導き、洗礼を授けるだけであった。
 
 使徒行伝9章では、迫害者サウロ(のちのパウロ)の救いである。ダマスコ途上で、シェキーナの栄光の中で主はサウロに顕れた。サウロは主を認めた。洗礼を授けるように命じられたのはアナニヤである。アナニヤは迫害者サウロを恐れたが、主の言葉に従って洗礼を授けた。
 
 使徒行伝10章では、百卒長コルネリオが救われた。神を恐れる者とは、ユダヤ教の求道者を意味する。フラー神学校やトリニティ神学校の宣教学の教授ロバート・クリントン師は、コルネリオのことを「誰の手ほどきを受けずに導かれる魂」と呼び、今日も神が直接導かれる人がいることを示唆しておられる。備えられた魂を導くように命じられたのはペテロである。ペテロは異邦人コルネリオを導くことを躊躇したが、神に説得され、偏見が取り去られ、コルネリオとその家族に洗礼を授けた。
 
 ダイヤ宣教師はそのような聖書の事例を紹介しながら、ご自分の義理の息子さんの救いもそうであったと証言される。お嬢さんから、日系カナダ人の男性を紹介され(のちに義理の息子になる)、彼が家に遊びに来た時、ダイヤ宣教師は遠慮気味にこう言われた。「いつかあなたがキリスト教に興味を持たれる時が来たら、私に言ってください。キリストさまの救いについて教えたいです」。
 
 ダイヤ宣教師は、相手が日本文化の背景を持った日系カナダ人の男性なので、時間がかかると思われた。ところが彼は、「今ではダメですか?」と答えた。すぐにダイヤ先生は、彼を救いに導いた。「神の三角形の法則」は、使徒行伝が示す真理とともに、ダイヤ先生の体験から導き出された宣教の神学である。私は、ダイヤ宣教師の「神の三角形の法則」のメッセージを3回聞いた。一度は通訳をした。3度目に、ようやく自分も「神の三角形の法則」を経験したことを思い起こした。
 
 東京聖書学院一年訓練コースを卒業し、茅ヶ崎教会で教会献身をしている中国人の姉妹が救われた時がそれであった。彼女は、eメールで茅ヶ崎教会に問い合わせをしてきた。「キリスト教について質問があります」と。私は「聖書の神が天地を創造されたのです」と、ごく当たり前の返信をした。次のメールで彼女は、「私は神さまを信じます」と書いてきた。半信半疑の私は、「神さまを信じたら、毎週教会に来るのですよ」と書いた。その次の週から、毎週教会に通い、洗礼へと導かれた。私はとくに何もしていない。神が備えられた魂を導いたに過ぎない。
 
 川崎教会の小林重昭先生の牧会学博士論文には、宣教学者D・ボッシュの「神の宣教」が紹介されている。宣教の主体が神にあることを認識し、伝道に対する考え方の方向転換を提唱しておられる。
 
 私たちは「日本における伝道は難しい」という固定観念がある。それは私たちが頑張って伝道しなければというプレッシャーと表裏一体である。
 
 繰り返しになるが、宣教の分野での「正解」はない。紹介した「神の三角形の法則」がすべての伝道の困難の解決策でないことも承知している。しかし私たちの内にある、宣教の困難や伝道に対するプレッシャーを少しでも軽減できればという願いで筆を執った。
 

(「りばいばる」誌 2015年6月号)
前宣教局長 中道 善次

 
 パウロがエペソを拠点に行った第三次伝道旅行では、次のような素晴らしい伝道の成果を述べる記述がある。
 
「それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた」。(使徒行伝一九10)
 
 ここで言うアジヤは、ユーラシア大陸全域を示すのではない。聖書を知らない頃の私は、「アジア大陸」と理解していたが、このアジヤは現在のトルコ南西部のアジヤ州を指している。
 
 アジヤ州でパウロが展開した宣教の戦略を理解する助けになったのが、ヨハネ黙示録2~3章に出てくる「アジヤにある7つの教会」である。それらはエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤである。これらの教会のある町は、全て「アジヤ州」の中にある。黙示録が書かれた時代には、すでに存在しなかったようだが、ヒエラポリスとコロサイもアジヤ州でパウロが開拓した教会である。「アジヤに住んでいた者が皆」とは、アジヤ州の全ての町々に教会、あるいは集会所が開設されたことを意味すると理解できる。パウロの伝道方法は、まずその町にあるユダヤ人の会堂に入って御言葉を語ることであった。
 
 聖書地図を見ると、エペソからスタートして北に接する町を順番にたどり、やがて南下する。そして一回りしてエペソに戻る。パウロは、隣町への伝道をアジヤ州で展開したと思われる。
 
 同じ視点から、日本ホーリネス教団の教会分布を調べて行くと、アジヤ州の教会分布と似た地域が3つあることに気がついた。(他にもあればご指摘ください)。
 
 それは奥羽教区、四国教区、神奈川教区である。奥羽教区では、白鷹から近隣の町に教会が開拓されていった歴史がある。四国教区(特に愛媛県の教会)では、菊間を中心に東西の隣町に伝道がなされ、そこに教会が築かれていったことがわかる。また私が仕える茅ヶ崎教会は、横浜教会によって開拓された。横浜教会は、井土ヶ谷、相模原、茅ヶ崎を開拓した。やがて生み出された教会がそれぞれ、横浜いずみ、津久井、萩園を開拓した。茅ヶ崎と萩園は、神奈川教区の支援を得て、秦野を開拓した。
 
 ホーリネスの先輩の伝道者たちが、パウロの宣教の戦略を意識していたかどうかわからない。だが、パウロと同じように隣町や同じ県内に伝道を展開していったことは間違いがない。
 
 これは奥羽教区、四国教区、神奈川教区に特化することではない。教会が開拓伝道を始めるとき、近隣のまだ福音が述べ伝えられていない地域にターゲットを絞り、集会を開始するのではないだろうか。
 
 私はOMSの宣教師と一緒に7年間働いた。彼は萩園教会の献堂式が終わった日にこのように尋ねた。
 
 「次はどこを開拓するのか?」
 
 私にとってはプレッシャーを感じる言葉であった。だが彼は続けて言った。「神奈川県西部にまだ教会が一つもない市町村はないか。私はそこに開拓伝道をしたい」。OMS宣教師の言葉に背中を押されるようにして次の開拓伝道に乗り出した。
 
 彼の言葉から、多くの宣教師が抱いているパウロと同じ宣教の情熱を私は感じ取った。「キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった」(ローマ一五20)。
 
 日本ホーリネス教団では、新規の開拓伝道はここしばらくなされていない。それは、私どもの教団の宣教は、OMSの宣教戦略に負うところが大きいからである。戦後のECC(OMSの伝道方式の名称)による福音十字軍の働き(トラクト配布と開拓伝道)、また1980年代からは「開拓クルセード」(今はクルセードという言葉を使用しないが、ここでは当時の呼称をそのまま使う)が始まり、日本ホーリネス教団の「開拓指定」とセットで、教会開拓と会堂建築がなされた。
 
 しかし、2000年頃からOMSは宣教の戦略を大きく変えた。それがCM(チャーチ・マルティプリケーション=日本語では教会増殖)である。CM(教会増殖)が、従来のECC開拓と大きく違う点が2つある。それは、牧師を派遣しない。会堂を建てないことである。
 
 訓練を受けた信徒リーダーが集会を導く。それは「教会堂」という場所を必要としない小さな集会である。その集会で導かれた人が、増殖する集会のリーダーとなって行く。
 
 CMの日本への導入と適用は、決して簡単ではない。だが日本宣教の壁を打ち破る一つになってほしいと願う。
 
 先月も述べたように、宣教や教会の実践的働きに「正解」はない。今回は、「隣町への開拓」という切り口から、私たちの行ってきた開拓伝道を再評価し、新たな伝道へのチャレンジとしたい。
 

(「りばいばる」誌 2015年7月号)
前宣教局長 中道 善次

 
 パウロは、最初に海外に出かけた宣教師である。使徒行伝一三2で、バルナバとパウロが、バルナバの故郷、地中海のキプロス島へ宣教に送り出された。これを第一次伝道旅行と呼ぶ。その後、パウロのビジョンであったスペイン宣教(ローマ一五28)まで含めると、パウロは合計5回、世界宣教の旅に出かけている。
 
 今回は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ一六15)の御言葉から、世界宣教に焦点を当てて、宣教のチャレンジを受けたい。
 
 私の出身は、日本ホーリネス教団京都紫野教会である。京都紫野教会の牧師であった新谷正明先生は、ホーリネス教団の海外宣教局長として多くの宣教師を世界に送り出された。また京都紫野教会からは、教団内外を含めると4名の働き人が海外に送り出された。
 
 私が救われた1976年頃から母教会では、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」というメッセージがよく語られた。当時の私には、頭の上を通り過ぎるメッセージであった。私だけでなく、母教会からやがて宣教師として出かけて行く二人の仲間にとっても、当初は世界宣教のメッセージは頭の上を通り過ぎるものであった。私を含め、京都紫野教会の献身者たちが世界宣教を意識したのは、メッセージを聞いてから10~15年後のことであった。
 
 世界宣教の種は、人々の心にまかれてから、10~15年経過しないと、芽を出し、実を結んでゆかないことを体験的にも述べることができる。
 
 世界宣教に積極的に取り組むホーリネス系の牧師は、教会学校に集う小学生に世界地図を見せて、世界宣教について語りなさいと勧めた。それは10~15年後を見据えてのことである。
 
 世界宣教に熱心な韓国のある教会では、中高生のためにビジョン旅行を企画する。夏休みを利用して、宣教師が働く現場を訪れ、将来のビジョンを抱かせるための旅行である。旅費は、将来の宣教師を生み出すために、親が投資をするのだという。これも10~15年後を見据えたビジョンである。
 
 私は宣教師として海外に出かけることはなかったが、やはり、撒かれた世界宣教の種は、芽を出し、実を結んでいる。一年に二週間だけであるが、ミャンマーに短期宣教旅行に出かけている。茅ヶ崎教会から若者たちと一緒に毎年出かけた。宣教旅行に同行した多くの若者が献身し、神学校で学んでいる。出かけることの祝福を体験している。
 
 次に、海外からの宣教師を受け入れて一緒に働くことについて学びたい。
 
 友人のスティーブ・デュプリー宣教師(元OMS日本)は、かつて次のような厳しい言葉を私に語ってくれた。
 
 「日本人の牧師は、宣教師を用いるのが下手だ。アメリカからの宣教師には、『英会話を教えてください』としか言わない。だが君がもし逆の立場で、ある宣教地に行ったと想像してほしい。君が日本人だということで、『日本語を教えてください』と言われたらどう思う。君は説教も語れるし、聖書も教えられる。伝道のための創造的なアイディアもある。それなのに日本語を教えるだけですかと思わないか?」
 
 私はその言葉を聞いて、深く反省した。私も一時期、英会話クラスのためにアメリカから宣教師を招いていた。彼らにお願いしていたのは英語を教えることが中心であった。私は彼らのフラストレーションを理解していなかった。
 
 そのような私の反省の後に出会った宣教師たちは、英会話を教えるのが嫌いで、また苦手なワイルドな宣教師たちであった。私は彼らに「日本人が思いつかない伝道をしてほしい」と頼んだ。一人は大きなトランポリンをアメリカから取り寄せて、子ども伝道をした。もう一人は大学の近くでカフェを開業して、学生に伝道すると言いだした。いずれのアイディアも、日本人の観点からは「無理だ。うまく行くはずがない」と思われた。しかし私の狭い枠を越えて、トランポリンもカフェも用いられた。
 
 宣教師が主催するCPI(教会開拓)セミナーで、日本同盟基督教団の赤江先生の分科会に出席したことがある。赤江先生は、日本に来る宣教師と一緒に働いてこられた豊富な経験がある。そして言われた。「日本の宣教を宣教師に頼る時代が終わったなどと考えてはいけない。私たちはまだまだ宣教師の力を必要としている。宣教師と一緒に働いてください」。
 
 神さまは、文化も言語も考え方も異なる宣教師と心を合わせて一緒に働くとき、豊かに祝福されるのである。
 
 世界宣教には二つの側面がある。「宣教師を送り出す祝福」と「宣教師を受け入れて一緒に働く祝福」である。送り出す祝福と受け入れる祝福の両方を味わいたい。
 

(「りばいばる」誌 2015年8月号)
前宣教局長 中道 善次

 
 
 プロ野球では、「育てながら勝つ」という言葉が使われる。一流選手でメンバーを固定して、若手が育たないチームは、次の時代に苦労する。若手を育てながら、チームが強くなっていく。教会もそのようでありたい。
 
 パウロは、「育てながら宣教する」ことを実践した人物であった。パウロが育てようとした主な若者は、ヨハネ・マルコ、テモテ、テトスの三人であった。
 
 ヨハネ・マルコ(以下マルコと表記)は、バルナバの甥である。マルコの母は、二階座敷の女主人であった。マルコは、最後の晩餐、ペンテコステ、初代教会の祈りを見ながら育った。最初の海外宣教と言われる「第一次伝道旅行」にマルコは「助手」として同行が許された(使徒13:5)。将来のリーダーを育成する英才教育の始まりと私は理解する。だが未熟なマルコは、単身エルサレムに帰った(使徒13:13)。ホームシックという説とともに、パウロの異邦人宣教の考え方についていけなかったという説がある。いずれにせよ、マルコのわがままな態度をパウロは許さず、結果的にパウロとバルナバは別行動することになった(使徒15:37~40)。パウロでさえも、青年伝道者の育成が簡単でなかったことを示す物語である。マルコはパウロの手を離れ、やがてペテロの元で育てられる(Ⅰペテロ5:13)。
 
 マルコは、ペテロの通訳者としてローマ教会で働き、マルコ福音書の記者となる。パウロは晩年、マルコと和解し、一緒に働いている(Ⅱテモテ4:11)。

 テモテは、マルコの次にパウロが目をかけた若者であり、第二次伝道旅行に同行させた(使徒16:1~3)。マルコのことで挫折しても、「育てながら宣教する」というパウロの姿勢に変わりなかった。パウロはテモテを「わたしの子」(Ⅰテモテ1:18)と呼ぶほどに愛情を注いでいる。だがテモテには、気の弱いところがあり、パウロは彼を指導をするのに多くのエネルギーを注いでいる。年若いために軽んじられないように(Ⅰテモ4:12)。胃痛(神経性胃炎?)を抑えるために、葡萄酒を飲むこと(Ⅰテモ5:23)。神は臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊を下さった(Ⅱテモテ1:7)。テモテはやがてエペソ教会を任されるようになった(Ⅰテモテ1:3)。また年老いたパウロの心の支えとなった(Ⅱテモテ4:9・21)。
 
 三番目の弟子はテトスである。テトスはギリシャ人で(ガラテヤ2:3)、割礼を強いられることはなかった。パウロに導かれ(テトス1:4)、エルサレム会議(使徒15章=ガラテヤ2章に基づく、AD50年頃)に出席していたと考えられる。テモテより先にパウロの弟子となっていた。

 テトスはテモテと比較すると、書かれた手紙も短く、影が薄いように感じていた。しかしテトスは、パウロが頼りにした「タフな」弟子であった。コリント人への第二の手紙を見ると、テトスは二つの重い任務を託されて、コリントを訪問したことがわかる。一つは、教会内の不品行の問題で、きちんと悔い改めがなされたかどうかを確認するための訪問である。テトスからの報告が予定の場所で受けられなかったパウロは、心配でたまらなかった(Ⅱコリント2:13)。テトスは嬉しい報告を携え、パウロを慰めた(Ⅱコリント7:6~7)。もう一つ、滞っていた募金集めの使命も同時に託された。教会内の問題解決と献金集めを託せる頼もしい弟子がテトスであった。テトスへの手紙を見ると、問題の多いクレテ島の教会の人々に厳しく対処するようにパウロは命じている。タフなテトスでなければ、とても務まらない役目であった。
 
 パウロは、若い弟子たちとチームを組んで、彼らを育てながら伝道した。Jパッションという若者のための集会が2001年から開催されている。昨年久しぶりに、その集会に参加した。午後からの分科会のテーマの一つが、「ユースを育てる大人」であった。私と同年代の友人が担当しており、興味を持って出席した。彼が語った言葉で、深く心に留まった表現が二つあった。

 「若い人々の成功を喜べる大人であってほしい。教会内で自分より有能で、奉仕がよくできる若者がでてきたら、その人を認め、用いる心の広さを持つ大人であってほしい」。

「若い人たちの外見を見て、彼らを裁かないでほしい。大人には理解できないが、外見からは想像できない純粋な心を若者は持ち、奉仕している」。

 「若者を育てる」という点においても「正解」はない。パウロも若い弟子を育てるのに挫折を経験し、試行錯誤を繰り返した。日本ホーリネス教団の若い世代が生き生きと活躍できるような環境を作れる大人の一人でありたい。そのような願いを込めて、4回目の筆を執らせていただいた。 
 

(「りばいばる」誌 2015年9月号)