歴史的曲折Ⅰ 1901年から1930年まで

① 創設期

 1901年に中央福音伝道館が開設され、同時に聖書学院が開校されましたが、その後三年が経過した1904年には東京柏木に土地を取得し、建物も新築して両者は移転します。翌1905年には、「中央福音伝道館」に代わって「東洋宣教会」という名称が正式に採用されました。この「東洋宣教会」の総理として中田重治が、副総理として笹尾鉄三郎が、更に会計にカウマンおよび、E.A.キルボルンが就任しました。しかし、この組織はいわゆる超教派的伝道団体の組織であって、「教会」としてのものではありませんでした。また各地に設立された伝道館は、その名称をそのまま保持しました。

② 聖教団事件

 「東洋宣教会」の名称が正式に採用されて六年が経過した1911年、中田重治は「東洋宣教会」と別れて「日本聖教団」を組織します。両者は提携・協力するが、別個団体として活動することを了解しました。その主な原因は「米国の兄弟たちと、日本共同事業というものの解釈において根本的相違を見いだし」たからというものでした。これは東洋宣教会の働きにおける主導権の問題で、翌月には「東洋宣教会の事業の中なる日本の事業を日本の教役者に一切委ね、…少しも干渉せぬ」との東洋宣教会側の申し出により、両者は再び合一することになります。この「聖教団事件」と呼ばれる出来事は、わずか一ヶ月足らずで解決したのですが、日米両者の働き人たちが、どのような協力関係のもとでその働きを進めるかを問うた、重要な出来事でありました。

③ 東洋宣教会ホーリネス教会の発足

 聖教団事件から六年経った1917年、東洋宣教会は、従来の超教派的伝道団体としての性格を改め、一教派として出発することになります。その正式名称が「東洋宣教会ホーリネス教会」です。初代の監督に中田重治が選出され、監督局の書記として車田秋次、会計に山崎亭治が任命されました。その時明らかにされた宣言書によれば、伝道館支部四六、会員数二千に達し、単純な伝道館組織では、会員を強化育成するのに困難となったからであると、その設立の経緯が述べられています。更に東洋宣教会ホーリネス教会の神学的立場を問うものに対しては、初代メソジスト教会が説いた中心的な教義に立つことが宣言されたのでした。

 東洋宣教会ホーリネス教会が創立された翌1918年、第一次世界大戦が終結しますが、世界は恐慌と不況に悩まされることになります。こうした状況下で中田重治、内村鑑三、木村清松らによる再臨運動が日本各地で展開されました。この再臨運動と平行して、ホーリネス教会を一躍前進させたリバイバルが1919年に起こり、日本の福音派の教会に大きな影響を与えていったのでした。更に1930年には聖書学院においてリバイバルが起こり、「全国リバイバル大会」の名の下に教派を超えた大会が開催され、福音派の教会から教役者を始め神学生など多くの参加者があったということです。教勢も驚くほどに伸び、教会も自給の道を確立していきました。