まとめ
① メソジストの流れに属する自覚
わたしたちの教団の歴史を振り返る時、その時々の指導者たちは、自らが「メソジスト」であるという意識をもっていたことが分かります。既に触れたように、確かに現在のわたしたちの教団の中には、礼拝形式や教会暦や教会政治など、そのスタイルにメソジストの影響はほとんどないと言って良いでしょう。「恵みの座」がある程度でしょうか。ですから、わたしたちの信仰のルーツを、メソジストに求めるのは無理があるという議論があります。
しかし、ホーリネス教会の創始者たちは、明らかに「メソジスト」という自覚を持っていました。そうでありながら、メソジスト教会の影響があまり見られないことには、理由があります。
それは、創始者たちは、当時のメソジスト教会に対して、言わば「宗教改革者」のような意識を持っていたことです。前述の通り、当時の日本の教会は、自由主義神学の影響を受け、教会や信仰の形骸化が深刻な問題だったわけですが、そのような教会に対して、「真の信仰、真の生命」を強調したのでした。そして、それこそが、ウェスレーの意図であり、メソジストの本質であると理解したのでした。資料の中の、「初代メソジスト随の教義」、「初代メソジストの信仰を模範」という言葉が示すところです。このようなメソジストの自覚に、アメリカのリバイバリズムの影響が重なり、メソジスト教会の「形」よりも「内実」を強調したのでした。
しかし、宗教改革者やウェスレーが、自らの信仰内容を表明したことや、熱狂主義者やモラビア派と決別したこと、礼拝形式を整えたことなどはあまり考慮に入れられなかったようです。これらの課題は、まさに「信仰告白」を表明した今日のわたしたちの課題です。
また、ホーリネス教会が公同教会に連なっているという意識のためにも、メソジストの流れに属しているという自覚は、大切なことと言えるでしょう。そしてそれは、単にメソジスト教会のようなスタイルを回復することを意味しないことは、言うまでもありません。
わたしたちの教団の歴史を振り返る時、その時々の指導者たちは、自らが「メソジスト」であるという意識をもっていたことが分かります。既に触れたように、確かに現在のわたしたちの教団の中には、礼拝形式や教会暦や教会政治など、そのスタイルにメソジストの影響はほとんどないと言って良いでしょう。「恵みの座」がある程度でしょうか。ですから、わたしたちの信仰のルーツを、メソジストに求めるのは無理があるという議論があります。
しかし、ホーリネス教会の創始者たちは、明らかに「メソジスト」という自覚を持っていました。そうでありながら、メソジスト教会の影響があまり見られないことには、理由があります。
それは、創始者たちは、当時のメソジスト教会に対して、言わば「宗教改革者」のような意識を持っていたことです。前述の通り、当時の日本の教会は、自由主義神学の影響を受け、教会や信仰の形骸化が深刻な問題だったわけですが、そのような教会に対して、「真の信仰、真の生命」を強調したのでした。そして、それこそが、ウェスレーの意図であり、メソジストの本質であると理解したのでした。資料の中の、「初代メソジスト随の教義」、「初代メソジストの信仰を模範」という言葉が示すところです。このようなメソジストの自覚に、アメリカのリバイバリズムの影響が重なり、メソジスト教会の「形」よりも「内実」を強調したのでした。
しかし、宗教改革者やウェスレーが、自らの信仰内容を表明したことや、熱狂主義者やモラビア派と決別したこと、礼拝形式を整えたことなどはあまり考慮に入れられなかったようです。これらの課題は、まさに「信仰告白」を表明した今日のわたしたちの課題です。
また、ホーリネス教会が公同教会に連なっているという意識のためにも、メソジストの流れに属しているという自覚は、大切なことと言えるでしょう。そしてそれは、単にメソジスト教会のようなスタイルを回復することを意味しないことは、言うまでもありません。
②
四重の福音
四重の福音は、ホーリネス教会の旗印でありますが、それだけではなく、明確な信仰告白を持たなかったホーリネス教会にとっては、「信仰告白」の役割を果たしたと言えます。特に、戦後の再建時の機関紙の中に、その意識が表われています。すでに紹介したように、1950年10月10日の機関紙で、車田秋次は、メソジスト教会の信条と、ホーリネスの四重の福音を、ほぼ同列に扱っています。
ですから、わたしたちがホーリネスという教派としてのアイデンティティを問う時、四重の福音を避けて通ることは出来ません。過小評価したり、安易にその項目の変更や削除をしたりは出来ないのです。むしろ、この四重の福音が、神学的検証、また歴史的検証に耐え得るものであるかを問い、それによってわたしたちの教会が継承すべき信仰を明らかにし、更に今日的な意義付けをすることが、わたしたちの課題であると思われます。
そして、わたしたちの教団が、1997年に「信仰告白」を採択したことと、四重の福音との関係についても、今後明らかにする必要があるでしょう。
③ 教会観について
「前文」の解説の中に、「創始者たちに教会を設立する意図がなかった」という表現が、比較的多く出てきます。歴史的な背景については、第二章に記されていますし、当時の資料からも「創始者たちに教会を設立する意図がなかった」と言えます。問題は、創立当初のホーリネスは、「キリストのからだなる教会ではなかったのか」という問いが生まれることです。これについては、使徒行伝に記されている初代教会や、宗教改革期の教会のように、教会としての形は次第に整えられていくものですから、ホーリネスの場合もそのように理解することが出来るでしょう。信仰告白を採択したことは、まさに教会形成の決意の表われです。
「信仰告白を持っていなかった」という表現も多く用いられています。一人一人が「イエスは主である」という信仰を告白してキリスト者とされているのは、言うまでもないことです。ただ、成文化された信仰告白を持っていなかった、またその必要をあまり感じていなかったことは明らかです。それは教会設立の意図を持っていなかったことと共通することです。
そこで、この解説でも言及されており、それ以前にわたしたちの教団で数十年以上も前から問われている「教会観」が問題となってきます。わたしたちの間では、しばしば「教会観がない」と言われてきました。しかし、教会観とは文字どおり教会についての「観、見方」ですから、わたしたちの教団に「教会観がない」というのは正確ではありません。むしろ、非常に明確な教会観があると言えるでしょう。それは、「教会とは、救われた、きよめられた個人の集合体」という理解です。伝道を第一とし、明確な救いやきよめの体験を強調するわたしたちの教会理解です。
しかし、成文化した「信仰告白」を採択し、教会をその形においても整えようとしているわたしたちに求められることは、教会は個人の集合体であるという教会観を転換することではないかと思われます。転換と言っても教会「観」の転換です。つまり、個人の集合ではなく、主イエスによって贖いとられたキリストのからだなる教会に信仰によって連なるというものです。洗礼によって教会に連なり、聖餐によってその恵みに与る。信仰告白が教会の絆であり、教会はキリストの主権を表すためにその形を整える。その歩みは、教会の正典である聖書によって規定される。もちろん、これらはわたしたちにとって何も目新しいことではありません。ただ、長い時間をかけて信仰告白を採択したということは、教会が個人の集合体であるという理解では充分に知ることの出来ない、教会生活の豊かさ、教会に託されている主の務めの豊かさに対する求めの表われではないでしょうか。それは、わたしたちの伝道第一主義や、明確な救いときよめの体験の強調を、さらに豊かにするものではないでしょうか。
このような点についても、豊かな議論がなされることが期待されます。
四重の福音は、ホーリネス教会の旗印でありますが、それだけではなく、明確な信仰告白を持たなかったホーリネス教会にとっては、「信仰告白」の役割を果たしたと言えます。特に、戦後の再建時の機関紙の中に、その意識が表われています。すでに紹介したように、1950年10月10日の機関紙で、車田秋次は、メソジスト教会の信条と、ホーリネスの四重の福音を、ほぼ同列に扱っています。
ですから、わたしたちがホーリネスという教派としてのアイデンティティを問う時、四重の福音を避けて通ることは出来ません。過小評価したり、安易にその項目の変更や削除をしたりは出来ないのです。むしろ、この四重の福音が、神学的検証、また歴史的検証に耐え得るものであるかを問い、それによってわたしたちの教会が継承すべき信仰を明らかにし、更に今日的な意義付けをすることが、わたしたちの課題であると思われます。
そして、わたしたちの教団が、1997年に「信仰告白」を採択したことと、四重の福音との関係についても、今後明らかにする必要があるでしょう。
③ 教会観について
「前文」の解説の中に、「創始者たちに教会を設立する意図がなかった」という表現が、比較的多く出てきます。歴史的な背景については、第二章に記されていますし、当時の資料からも「創始者たちに教会を設立する意図がなかった」と言えます。問題は、創立当初のホーリネスは、「キリストのからだなる教会ではなかったのか」という問いが生まれることです。これについては、使徒行伝に記されている初代教会や、宗教改革期の教会のように、教会としての形は次第に整えられていくものですから、ホーリネスの場合もそのように理解することが出来るでしょう。信仰告白を採択したことは、まさに教会形成の決意の表われです。
「信仰告白を持っていなかった」という表現も多く用いられています。一人一人が「イエスは主である」という信仰を告白してキリスト者とされているのは、言うまでもないことです。ただ、成文化された信仰告白を持っていなかった、またその必要をあまり感じていなかったことは明らかです。それは教会設立の意図を持っていなかったことと共通することです。
そこで、この解説でも言及されており、それ以前にわたしたちの教団で数十年以上も前から問われている「教会観」が問題となってきます。わたしたちの間では、しばしば「教会観がない」と言われてきました。しかし、教会観とは文字どおり教会についての「観、見方」ですから、わたしたちの教団に「教会観がない」というのは正確ではありません。むしろ、非常に明確な教会観があると言えるでしょう。それは、「教会とは、救われた、きよめられた個人の集合体」という理解です。伝道を第一とし、明確な救いやきよめの体験を強調するわたしたちの教会理解です。
しかし、成文化した「信仰告白」を採択し、教会をその形においても整えようとしているわたしたちに求められることは、教会は個人の集合体であるという教会観を転換することではないかと思われます。転換と言っても教会「観」の転換です。つまり、個人の集合ではなく、主イエスによって贖いとられたキリストのからだなる教会に信仰によって連なるというものです。洗礼によって教会に連なり、聖餐によってその恵みに与る。信仰告白が教会の絆であり、教会はキリストの主権を表すためにその形を整える。その歩みは、教会の正典である聖書によって規定される。もちろん、これらはわたしたちにとって何も目新しいことではありません。ただ、長い時間をかけて信仰告白を採択したということは、教会が個人の集合体であるという理解では充分に知ることの出来ない、教会生活の豊かさ、教会に託されている主の務めの豊かさに対する求めの表われではないでしょうか。それは、わたしたちの伝道第一主義や、明確な救いときよめの体験の強調を、さらに豊かにするものではないでしょうか。
このような点についても、豊かな議論がなされることが期待されます。
④ 教会の一致と多様性のために
さて、「前文」の解説により、信仰告白の重要性、否、信仰告白は教会に欠かすことの出来ないものであることが、お分かりいただけるのではないかと思います。
宣教団体として発足したわたしたちの教団が、創立100年を前にして、教会として更に整えられたのです。宣教団体という言わば運動体であった群が、「信仰告白」によって、キリストのからだなる教会である自覚を深め、前進しようという、転機にわたしたちは立っています。
形骸化した教会をリバイバル運動が覚醒させ、ホーリネス教会も、そのような働きを担ってきたことを、わたしたちは知っています。同時に運動体であり続けることは、教会の形成には至らないこともわたしたちは歴史から学びました。宗教改革後のプロテスタント教会や、ウェスレーの運動とその後のメソジスト教会が、神学的、歴史的評価に耐え得る正統教会であり得た理由も、このような自覚の中にあります。わたしたちは、リバイバリズムの重要性を認識しつつも、キリストのからだなる教会を形成するために、前進しようとしているのです。
キリスト教信仰には、形式と生命、教理と体験、共同体と個人、礼拝と伝道など、一見相反するものとして理解される要素が多く含まれています。そしてそのどれもが大切なわけで、しばしば両者のバランスが大事だと言われます。しかし、バランスというのは、口で言うほどやさしいことではありません。キリスト教界や神学界にも、その時々に特に関心を集める事柄やムーヴメントが起きることもあれば、関心が薄れていくこともあります。多くの事柄に関心を持ち、見識を広げることも大切なことですが、それらに振り回されることも起こり得ることです。ですから、中途半端なバランス感覚を持つよりは、関心を持ち、重荷と思える事柄に徹底して打ち込んだ方がはるかに良い場合があります。その時に、わたしたちが集中できる一つのこと、打ち込める一つのこと、そして共に分かち合うことのできる一つのことは、信仰告白に生きることです。「イエスは主である」という告白に集中することによって、わたしたちの歩みは、一層豊かさを増すと信じます。
今日、わたしたちを取り巻く課題は、宣教のヴィジョン、ホーリネス神学の確立、社会問題への関心、カリスマティック・ムーヴメントの影響など、多岐に渡ります。このような状況の中でわたしたちは、それぞれが使命と重荷を感じつつ前進すべきでしょう。そこには多様性があり、また一致があります。自分勝手な歩みが多様性ではなく、各自の個性を押し殺すことが一致でもありません。「信仰告白」によってわたしたちは、多様性と一致を保つことができます。
さて、「前文」の解説により、信仰告白の重要性、否、信仰告白は教会に欠かすことの出来ないものであることが、お分かりいただけるのではないかと思います。
宣教団体として発足したわたしたちの教団が、創立100年を前にして、教会として更に整えられたのです。宣教団体という言わば運動体であった群が、「信仰告白」によって、キリストのからだなる教会である自覚を深め、前進しようという、転機にわたしたちは立っています。
形骸化した教会をリバイバル運動が覚醒させ、ホーリネス教会も、そのような働きを担ってきたことを、わたしたちは知っています。同時に運動体であり続けることは、教会の形成には至らないこともわたしたちは歴史から学びました。宗教改革後のプロテスタント教会や、ウェスレーの運動とその後のメソジスト教会が、神学的、歴史的評価に耐え得る正統教会であり得た理由も、このような自覚の中にあります。わたしたちは、リバイバリズムの重要性を認識しつつも、キリストのからだなる教会を形成するために、前進しようとしているのです。
キリスト教信仰には、形式と生命、教理と体験、共同体と個人、礼拝と伝道など、一見相反するものとして理解される要素が多く含まれています。そしてそのどれもが大切なわけで、しばしば両者のバランスが大事だと言われます。しかし、バランスというのは、口で言うほどやさしいことではありません。キリスト教界や神学界にも、その時々に特に関心を集める事柄やムーヴメントが起きることもあれば、関心が薄れていくこともあります。多くの事柄に関心を持ち、見識を広げることも大切なことですが、それらに振り回されることも起こり得ることです。ですから、中途半端なバランス感覚を持つよりは、関心を持ち、重荷と思える事柄に徹底して打ち込んだ方がはるかに良い場合があります。その時に、わたしたちが集中できる一つのこと、打ち込める一つのこと、そして共に分かち合うことのできる一つのことは、信仰告白に生きることです。「イエスは主である」という告白に集中することによって、わたしたちの歩みは、一層豊かさを増すと信じます。
今日、わたしたちを取り巻く課題は、宣教のヴィジョン、ホーリネス神学の確立、社会問題への関心、カリスマティック・ムーヴメントの影響など、多岐に渡ります。このような状況の中でわたしたちは、それぞれが使命と重荷を感じつつ前進すべきでしょう。そこには多様性があり、また一致があります。自分勝手な歩みが多様性ではなく、各自の個性を押し殺すことが一致でもありません。「信仰告白」によってわたしたちは、多様性と一致を保つことができます。