日本ホーリネス教団の教憲、教団規則、教規

 わたしたちの教団の「信仰告白」は、前半で日本ホーリネス教団の信仰を言い表した後に、使徒信条を告白します。これは、前半で日本ホーリネス教団の信仰を表明し、後半で公同教会の信仰を表明しているわけですから、この両者の関係について考えておく必要があります。


① 教憲、教団規則、教規

 まず、この「前文」に記されている、教憲、教団規則、教規がどのようなものであるか紹介しましょう。

日本ホーリネス教団教憲(前文)

「本教団は、主イエス・キリストを首(かしら)とする公同教会である。本教団は、福音を万民に伝え、キリストのからだなる教会の完成のために奉仕する。
本教団は、旧新約聖書六十六巻が全て誤りなき神の言であり、信仰と生活の唯一の規範であると信じる。
(また、使徒信条に代表されるキリスト教基本教理を維持し、かつ、ウェスレー・アルミニウス主義に立ち、四重の福音をもってその信仰の特色とするものである)」。

日本ホーリネス教団規則第三条

「この法人は、主イエス・キリストを神の子として信奉し、旧新約聖書を所依の経典として、新生、聖化、神癒、再臨の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成し、教会を包括し、その他この教団の目的を達成するための財務その他の業務を行うことを目的とする」。

日本ホーリネス教団教規第四条

「この教団は、旧新約聖書をことごとく神の言葉と信じ、使徒信条にしるされたキリスト教基本教理を維持し、四重の福音を以ってその信仰の特色とする。
われらは、何人もその罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じることによって救われること、即ち罪赦され、義とせられ、新たに生まれ、神の子とせられることを信じる。
われらは、新生したものの中になお原罪の存することを認めるが、キリストの血により聖霊のバプテスマによって、全く潔められることを信じる。
われらは、神の力により、信仰によって、肉体の疾病の癒されることを信じる。
われらは、主イエス・キリストが栄光の貌を以って再来し給うこと、その時キリストにあって死にし者は甦らせられ、地にある聖徒は栄化せられ、空中に携え挙げられたのち、地上に神の国の樹立せらるべきことを信ずる」。
(教規第四条には、「第四条は教憲および信仰告白の正式成立の時に廃止する」という一文が付されています)。

東洋宣教会(OMSI)の信条

規則や教規は、改正されるものですから、本信仰告白前文に記載されている、各条文の数は、一九九七年現在のものになります。

 さて、ここに記されている信仰内容を検討するときに、これらはキリスト教教理の全体からすると、断片的であり、曖昧な点があることに気づきます。例えば、三位一体については触れられていません。また、イエス・キリストが「真の神」であられることが記されていますが、「真の人」であられることにも触れていません。サクラメントについての記述もありません。もちろん、「キリスト教基本教理を維持…」とあるように、これらが全くないという意味ではありませんが、断片的な表現になっています。

 さらに、「本教団は…公同教会である」と記されていますが、日本ホーリネス教団が公同教会なのか、それとも教団が公同教会に含まれるという意味なのかははっきりしていません。また、東洋宣教会の信条との関係についても、同じ信仰の告白であるのか、その一部が関係するのかもはっきりしません。
このことは、一九〇一年当時、創始者たちに独立した教派としての教会を形成しようとの意図がなかったことと関係しますが、「一九〇一年創立以来の信仰に立ち、歴史的曲折を経つつも、一九四九年の再建時に再確認した信仰の内容を表現…」という表現は、歴史的曲折を経て、教理が形成されてきたことを示していると言えるでしょう。

 また、この教憲、教団規則、教規では、四重の福音がその中心を占めていますが、信仰告白本文では、「七.教会」の項で、「わたしたちの教会の特別な使命」として述べられています。このようにわたしたちの教団の信仰自体が、その歴史の中で深められてきていると言えます。

② わたしたちの教団の信仰

 このような事態をふまえて、この「信仰告白」が言い表している、一九〇一年以来、今日まで変わらない信仰、そして教憲、教団規則、教規、さらに東洋宣教会の信条によって指し示されている、その信仰が何であるかを考えてみましょう。

 それは、わたしたちの教団が継承してきた「伝統」と言うことが出来るでしょう。さきには、その継承している信仰が、どのように展開していくかを見通すことが出来なかったために、未熟な表現であったり、あるいは断片的な表現であったりしたのでしょう。あるいは誤った理解をしていたということもあるかもしれません。

 しかし、このように表現されてきた信仰の背後に、言葉では表現できないような生命的な信仰の継承がありました。わたしたちの教団は、伝統的に、教会の信条や職制といった、いわば教会の形や目に見える部分よりも、こうした信仰の生命的な部分を大切にし、強調し、宣べ伝えて来たのでした。長い教会の歴史の中でも、形骸化しつつある教会に生命を取り戻してきたのは、このような教会の生命的な側面を強調したグループでありました。ですから、わたしたちの教団が持っている、このような生命的な部分、それを強調してきた、この信仰の伝統は、非常に大切なことであり、これからも継承されていくべきことです。

 その一方で、既に触れられているように、生命的な側面ばかりを強調すると、信仰理解が偏ったものになったり、過ちに陥ったりしやすいことも事実です。そのことを自覚したわたしたちの先達によって、信仰告白制定の作業が進められてきたのですが、その信仰理解に発展があったということです。ですから、わたしたちの教団の伝統も、歴史の中で発展して行くものなのです。しかし、その発展の背後には公同教会の伝統があります。

③ 公同教会の伝統

それでは、公同教会の伝統とは何でしょうか。この「信仰告白」では、最後に使徒信条が告白されますが、もちろんそこにおいて告白されている信仰内容も大切ですが、その告白の背後に公同教会の伝統があることに、心を留めなければなりません。

 パウロは、エペソ人への手紙の中で、《主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、…父なる神は一つ》(四・五~六)と言っています。キリスト教はどこにおいて一つとなれるのでしょうか。パウロは、これより先に、《平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるよう努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目指して召されたのと同様である》(エペソ四・三)と言っています。ここでパウロが述べていることは、異なったものが御霊によって、しかも「からだ」において一つとなるということです。このことは、《わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである》(Ⅰコリント一二・一三)とも表現されています。

 すなわち、キリスト教は、正典である聖書に啓示されている受肉のキリストにおいて一つとなるのです。教会は、その受肉されたキリストを、信条、サクラメント、職制において継承しているのです。これが公同教会です。ですから、キリスト教の一致というのは、神学や教理の一致であるとか、体制の一致ではなく、継承するキリストにある生命の一致、伝統の一致と言うことが出来ます。そこにおいては、キリスト教が多くの教派に分かれていることは、何の障害にもなりません。なぜなら、「からだ」には、手があり、口があるように、それぞれ特徴をもった部分があるからです。


結び

 日本ホーリネス教団も、聖書、信条、サクラメント、職制を重んじてきました。その理解には、未発展な部分もあったでしょうが、しかし、よりよい教会の形成を願いつつ、前進しようとしています。そして、四重の福音を宣べ伝えるという使命を持ちながら、この公同教会に連なっているのです。わたしたちの教団が「信仰告白」を制定したことには、このような意味があります。