和解委員会パンフレット2

 

〈はじめに〉「国旗・国歌」法制定を受けて私たちの教団は、「『日の丸、 君が代』と私たちの教団」という教団の見解を表す文書を、教団 委員会名で1999年12月に公表しました。 私たちはこのことをどう受け止めるかを共に考えようと、パン フレット「『日の丸、君が代』と私たち」を2000年に発行し、 教団内の各教会に配布しました。その中の「いったいどういうことが起きると考えられるのか」という項目で、「国旗・国歌」法制定以後に教育現場で起きると予測されることに注目しました。 その後、同パンフレットに教育現場の報告を加えたり、子ども 用のパンフレット作成をしたりしてきました。さらに、法制化から六年が経ち、実際に今学校で何が起きているのかを知り、この国の行く末と子どもたち、そして苦境に立たされている教員たちのために覚えて祈っていただきたいと願い、この改訂版を発行することにしました。 私たちの信仰者としての歩みが、神と人との前に真実なものとなるように、このパンフレットを、各教会の牧師はもとより、学校で働く教職員や子どもを学校に通わせる保護者の教会員など多くの方々に読んでいただき、祈りと学びと歩みの参考にしていただきたいと願っています。


Ⅰ .いったいどういうことが
      現実に起きているのか

 

1.公立学校から奪われた自由

 
 「国旗・国歌法」の影響が最も直接的に表れたのは、予想どお り公立学校です。法案の審議過程で政府は、「日の丸・君が代を 児童、生徒には強制しない」と言っていました。
 
 しかし現実には、児童・生徒を指導する立場の教員たちに強い 圧力をかけて、全員が大きな声で「君が代」が歌えるように指導 することなどを強要し、従わない教師を教育委員会が「再教育」 したり、処分したりといった事例が各地で頻発しています。ここ では、最も典型的な東京の例を紹介します。

 

ⅰ.教職員への圧力

 
 2003年10月23日、東京都教育委員会は全都立高校と都 立盲・ろう・養護学校の校長あてに「入学式・卒業式等における 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」と題した通達を出しまし た。同通達は都立校の卒業式・入学式などにおいて、舞台壇上正 面に向かって左に国旗、右に都旗を掲示すること、「国歌斉唱」 の発声とともに起立、特に教職員は指定の席で国旗に向かって (下線 点筆者)起立し、音楽科教員のピアノ伴奏で国歌を斉唱すること、 舞台正面に演台を置き卒業証書を授与すること、式典会場は児童・生徒が正面を向いて着席するように設営することなどを事細 かに指示したものです。
 
 その結果、現に2004年以降、都立高校ではほぼ通達どおり の卒業式・入学式が実施されています。そして、実際の運用では 通達をさらに徹底する形が取られました。教職員は座席を指定さ れ、当日は都教委職員が配られた座席表を手に、国歌斉唱時に誰 が起立しないか、誰が歌わないかを監視しました。
 
 起立しない教職員は式典後、都教委職員に囲まれ、「起立しま せんでしたね」「都教委として現認しました」などと詰問されま した。中には処分を前提とするかのような恫喝ととれる発言もあ ったといいいます。さらに後日、不起立者は都教委による事情聴取に呼び出され、「研修」の名目ですが、「日の丸・君が代」に 対する考え方を変えるよう迫られました。
 
 規則や秩序を守ることが大切なのは言うまでもないことですが、 それが監視され強制されて実現したとしても、どんな意味があるのでしょうか。たとえば、礼拝や職制など教会の秩序も、規則や監視によるものではありません。キリスト者の自由で主体的な信仰によって守られていることに価値があると、私たちは知っています。

ⅱ.人間の尊厳の軽視

 
 こうした画一化された管理・監視体制は、養護学校でも例外なく行われました。体に障碍(しょうがい)を持つ生徒たちに配慮して、これまで養護学校の卒業式・入学式は平面で行われるのが 通例でした。卒業生と在校生が対面して座り互いの顔が見えるこの「フロア形式」は、普通校でも生徒や保護者から人気が高く、 かつては多くの学校で採用されていました。
 
 特に体の不自由な生徒が学ぶ養護学校においては、単なる好み の問題ではなく、生徒の人間としての尊厳にかかわる選択でもあります。フロア形式の卒業式では、生徒たちが自力で松葉杖や車 椅子を繰り、卒業証書を受け取りに出てきます。それがどんなに障碍を持つ生徒や保護者たちにとって誇らしい、学校生活の成果 を喜び祝うのにふさわしい場だったかと、養護学校の教師たちは 口をそろえます。
 
 ところが都教委通達は画一的に、壇上正面に国旗・都旗を掲げ させ、わざわざそのためにスロープを造らせてまで、生徒を介助 なしでは上れない壇上に上げて卒業証書を授与する形式を強いま した。画一化された管理・監視体制は、生徒たちが自分の力で車 椅子や松葉杖を使い、証書を受け取りに進み出るという、尊厳あ る美風さえ損なってしまっているのです。
 
 キリストによって真の人間性が回復され、隣人愛に生きようとする私たちキリスト者にとって、人間の尊厳の軽視は看過できな いことです。

ⅲ.戦前への回帰現象?

 
 さて、このようにまでして生徒に守らせようとする価値とはい ったい何でしょうか。国や学校を愛することは良いとしても、そ れを画一的な形式で押し付けるようなやり方は、「教育」とは言 えません。今日の学校の現実は、戦前の思想統制・監視社会に逆 戻りしてしまったかのようです。
 
 今日、公立学校の入学式・卒業式で、校長や来賓が登壇に際し、 壇上正面に掲げられた日章旗に向かって深々と拝礼する光景は普 通のことになっています。卒業生や在校生はおろか保護者や教職 員、来賓にまでお尻を向け、誰もいない演台越しにひたすら「旗」 に向かって平身低頭しています。これは、戦前の学校が天皇の肖 像である「御真影」を掲げていたものが「日の丸」に代わっただ けで、内容的には変わらないものです。
 
 私たちは思い起こさなければなりません。戦時下の教会におい て日の丸を掲げ君が代を斉唱し、キリスト者が神社参拝をするこ とは普通のことだったのです。その結果、「イエスが主である」 という信仰告白と隣人愛に生きることができなかったことを、私 たちの教団は悔い改めました。ですから、私たちは今日の教育現 場で起きていることに無関心であってはならないのです。

2.苦境に立たされるキリスト者教員

 

ⅰ.国立市の例

 
 東京・国立市立第二小学校で音楽専科を担当していたキリスト 者の教員・佐藤美和子さんのケースを紹介します。国立市ではか つて生徒や保護者・教職員らが工夫を凝らした個性的な卒業式が 行われていましたが、1999年に「国旗・国歌法」が制定され て以来、急速に統制が強まりました。2000年12月に校長あ ての職務命令が出され、翌年の卒業式では市内全校の校長が「日 の丸・君が代」完全実施の方針を打ち出しました。その際、校長 らは音楽専科によるピアノ伴奏にこだわりを示しました。
 
 これに対し佐藤さんはキリスト者として、信仰上の理由などを 挙げて「君が代」の伴奏をしたくない旨を校長に申し出ました。 その理由とは、自分の考え方の核をなすものが唯一絶対の神以外 の何ものをも崇拝しないというキリスト教の考え・信仰にあるこ とでした。佐藤さんは「かつて天皇を神とする考えに基づき礼賛 にも用いられた『君が代』の演奏をすることは、信仰上の強い抵 抗があり、私にとって内心の自由・信教の自由を著しく侵される 事柄です」などと説明して、他の方法に切り替えるよう願い出た のです。
 
 しかし当時の校長は、佐藤さんの言い分を聞こうとはしません でした。この事情を知った全国のキリスト者・市民から校長に嘆 願のファクスやはがきが殺到し、結局校長はピアノ伴奏を断念せ ざるを得なくなりましたが、その後も執拗にピアノ伴奏にこだわ り続けました。
 

ⅱ.その理由

 
 なぜ信仰上の理由で「君が代」のピアノ伴奏をしたくない教員 に無理に弾かせようとするのか?それに対する校長の答えは、信仰の自由は憲法で定められているから認めるが、その信仰を学校という公の場に持ち込んでは困る、という趣旨でした。信仰は 個人的な事柄であり家で何を信じようと自由だが、学校は公の場 なので個人的な信条はさし控えるべきという論理です。
 
 この校長の談話には、私たちの国に特有の「公共」を優先しな ければならないという国民感情が典型的に表れています。同じ「公共」という言葉を使ってはいても、これは近代市民社会の「公共性」の論理とは似て非なるものです。西欧で成熟した市民社会の「公共」において、主役は「市民」であるのに対し、日本の「公共」での主役は「お上」です。それは国家であり、政府であり、官の通達であり、教育委員会の指導であり、校長の職務命令です。
 
 「お上」が主役であるなら、個人の自由と主体性は制限されるのが、日本社会の実情です。信仰という人間性の根幹にある価値 観を疎外され、人権が侵害されたとしても、それが「私事」であれば軽視されてしまうのです。信仰が制限され軽視されるのは、教会の歴史の常です。だからこそ、私たちは自らを顧みて信仰に立ち続けなければなりませんし、その確認に基づいた生き方が問われてくるのです。

ⅲ.現代の偶像礼拝

 
 「日の丸・君が代」は、今なお単なる旗・歌に留まらず、「個」を制限しても「公」への忠誠を強いる機能を持っています。この「公」そして先の「お上」のトップに祭り上げられているのが天皇です。
 
 戦前の天皇は、憲法でも神聖不可侵とされましたが、天皇への忠誠を誓わせて国民全体を戦争へとまい進させる原動力となったのは、教育勅語です。つまり、教育の現場で個人の自由は制約され、天皇のために命を捨てるよう教えられたのでした。戦後憲法で「象徴天皇制」になったとは言え、この「お上」を優先させるという精神性は、戦前戦後を通じて本質的には変わっていませんし、それは再び教育の現場で明らかになっているのです。
 
 このように「日の丸・君が代」の強制は、現在の日本の「自由」や「民主主義」の底が浅く、未熟であることを明らかにしています。そればかりでなく、天皇を神聖視する日本の国民感情には偶像性が潜んでいることを、私たちキリスト者は見落としてはなりません

3.信仰・良心への挑戦

 

ⅰ.ささやき

 
 さらに、私たちの信仰にとっても深刻な問いかけが、特に「君 が代」にはあります。「たった四五秒、我慢して起立したら(弾いたら)いいではないか」「形だけ合わせれば済むことではないか」というささやきです。
 
 この種の声は、「君が代」を強制しようとする側ばかりでなく、 拒否者が窮地に立たされるのを見かねた善意の同僚や、教育者としての使命や家族の生活を守らなければならないが、拒めば職を失うかもしれないという恐れから逡巡する教員自身の心の声として響いてくることもあります。

ⅱ.現代の「踏み絵」

 
 「君が代」はまさに、キリシタン弾圧時代の「踏み絵」と同じ ように、私たちの信仰に対する挑戦となっています。苦渋の思い で「絵」を踏んでしまったからといって誰が責めることができるでしょうか。しかし、そのために生じる「自分の信条を貫けなかった」という良心の呵責は、心の底に残り続けるのです。
 
 実際にキリスト者の教師たちの中には、自分の気持ちとしては 「国歌斉唱」をしたくないけれど、拒否すれば処分され、教員の 立場を追われてしまう。教育者としての使命や家族の生活を考えると、本心とは裏腹に従わざるを得ない、という苦しい胸の内を 明かす人々もいます。こうした現状に堪えられずに、学校を退職 する人たちも出ています。
 
 「日の丸・君が代」は、単なる旗や歌の好みの問題ではなく、 このように人間性の根源をむしばむ思想統制の道具、すなわち「踏 み絵」とされています。このことを知って、現場で苦境に立たさ れている方々のために覚えてお祈りいただきたいのです。

4.教会の課題

 
 戦前戦・ 中、日本の教会の多くは「国民儀礼」と称して、毎日曜 日の礼拝式次第の冒頭に「国歌斉唱」や「宮城遥拝」をしてきました。法律で強制されたからではなく、「日本人として、日本の教 会として当たり前」の儀礼として、教会が自発的に時代の社会の要請する空気に従った結果でした。父子・ 聖・ 霊の唯一の神だけを主とするはずのキリスト教会の礼拝において、主以外のもの=天 皇=にほめうたを歌い、拝礼したのです。
 
 今すぐに現在の教会が同じ過ちを犯すことは考えにくいとして も、世論の大半が「日本人として国歌斉唱は当たり前」と考えるような地方では、教会が「変わり者の少数派」に甘んじる覚悟を要するかもしれません。それでは地域に伝道できない――と考え 始めるとき、かつてと同じような自主規制に向かう可能性がないとは言えませんし、何よりも無意識のうちにも信仰の「質」そのものが変質してしまうきっかけになりかねないのです。
 
 キリストだけを従うべき主とするのか、国家や天皇に従うことを優先するのか――問題の本質は、教会がだれを教会の主と告白 するかにあります。「イエスは主である」という信仰の告白は、言葉だけではなく、教会とキリスト者の行動において問われるでし ょう。


Ⅱ.いったい何が問題なのか

 
 この問題については、問題そのものを感じない人も多いようで す。そこで、そもそも何が問題であるのかを考えてみましょう。

1.「日の丸、君が代」の意味について

 

 ⅰ.一般的な事柄

 
 「日の丸」と「君が代」を一緒に扱ってしまうことにも多少無理がありますし、それぞれの起源や意味について、ここでは詳しく述べることは出来ませんが、一般的に指摘される問題点には次のようなものがあります。
 
 まず、諸説ある日の丸の起源の中には、天照大神に由来するというものがあり、今日の日の丸への拝礼とも相まって、宗教的色彩が濃いことが挙げられます。それは君が代についても同様で、 戦時中には現人神である天皇を賛美する歌として歌われたものですから、「君」をどう解釈しようと宗教的色彩は拭いきれません。
 
 また特に問題視されるのは、その歴史的な意味です。日の丸も 君が代も、かつての戦争中の戦意高揚の象徴であり、君が代の場合、現人神である天皇をたたえることによって、日本国民を精神的に統合するという機能を持ちました。それは、アジアの人々にとっては日本の侵略戦争の象徴であり、その不信感が今日なお拭いきれていないことは、ご存知の通りです。
 
 さらに、今日の憲法の理念にそぐわないという点です。天皇を 賛美する内容の君が代の歌詞は、天皇に主権があることを認めるものであって、主権在民という憲法の理念に反します。また、国旗、国歌の法制化によって懸念される、「日の丸、君が代」の押し付けは、思想、信条の自由を脅かすものであって、憲法の基本的人権や、子どもの権利条約にも反することです。

ⅱ.キリスト者の歩みに関して

 
 次に、キリスト者にとっての問題点ですが、先にふれたように、 日の丸、君が代は宗教性を帯びたものですから、キリスト者にとって日の丸への拝礼や、君が代の斉唱は、偶像礼拝につながるものです。
 
 また、思想、信条の自由への脅威は、信教の自由にとっても脅 威です。学習指導要領で義務付けられているものが法制化された ことで、それらが強制力を一段と強めているのです。
 
 さらに、かつての侵略戦争の象徴であったものを、公式の謝罪 も補償もしないままに国旗、国歌とすることは、悔い改めのない精神と国際感覚の欠如を示すものです。戦争責任告白を公にした教会にとって、日の丸と君が代を受け入れることは、自らの信仰に反することであり、アジアの人々との共生にとって大きな妨げになることは確かなことです。

2.国旗・国歌「法制化」の問題点

 

ⅰ.法制化の手続きについて

 
 1999年の臨時国会は、新ガイドライン法やいわゆる盗聴法など、重要法案が次々と可決、成立しました。
 
 それも当時のいわゆる自自公(自由民主党・自由党・公明党) が数の論理で押し切ったもので、そのような中で、「国旗・国歌法」も成立したのでした。充分な審議や議論がほとんどなされず、一 部の人々の思惑がまかり通ったということは、良心に基づく声がかき消されたり、国民のあらゆる自由に抑圧が加えられたりするのではないかという疑いをもたせるものでした。

ⅱ.法制化の意図について

 
 ところで 、「 国旗・国歌」の法制化の動きは、具体的には、「日の丸、君が代」の扱いを めぐって自殺に追い込まれた、広島県の県立高校の校長の事件が発端でした。それからあわただしく法制化となったのですが、しかし、「日の丸、君が代 」は、文部省が学習指導要領を通じ、長年かけて浸透させてきたものであって、降って沸いたような話ではありません。先の学校長への圧迫は、実際には教育委員会によるものの方が強かったと言われますが、教育現場の混乱を静めるという大義名分を見出した国が、一気に勝負に出たような形です。このように、この法制化はかなり恣意的なもののように思われます。国が行き詰まると台頭してくるのはナショナリズムです。経済、教育、福祉など、あらゆる分野が総右傾化していると言われる、この国の方向性に関することです。

3.教会の受け止め方に関して

 

ⅰ.大方の反応

 
 さて、これほどの問題点がありながらも、教会の関心と反応は今ひとつでした。その主な理由はだいたい次のようです。
 ①法制化で一応の決着がつき、混乱がなくなるのは良い。
 ②キリスト者も、法律には従うべきである。
 ③「日の丸、君が代」には愛着を感じるし、特に抵抗はない。
 ④「日の丸、君が代」に反対して社会を敵にまわすのは良くない。
 ⑤「日の丸、君が代」に反対するよりは伝道すべきである。
 
 これらの中には、理解出来なくもない理由があるのですが、しかし、よく考えてみなければなりません。

ⅱ . 歴 史 が 語 る こ と

 
 まず、①の「一応の決着」です。これは、行政府が決着させたのであって、問題の根本が解決しているわけではありません。
 
 戦時下、神社は宗教ではないとの主張が、キリスト教界に多くの混乱を招きました。教会の「神社は宗教なのか」との問いに、文部省は「愛国心と忠誠とを現はすものに外ならず」と答えました。「決着」させたのです。その結果、教会は積極的に神社参拝をするという、偶像礼拝の罪に陥り、アジア諸国の教会にも強要しました。
 
 これは、一応の「決着」がついたとしても、その後の教会の主体性が大切であることを示しています。
 
 ②の「法律に従うべき」は、これはある意味で当然のことです。
 
 しかし戦前に次のようなことがありました。政府は宗教団体を管理するための宗教団体法案を国会に提出しました。それに対してキリスト教界は大反対しました。けれども戦争が泥沼化する中で教会は口をつぐみ、宗教団体法は成立します。そして、教会はこの法律に従って、国家権力の言いなりになり、戦争協力の道へ と突き進みました。
 
 究極的には、私たちは国の法律よりは神の言に従います。しか し、現段階でも現「国旗・国歌法」には強制力はなく、諸法律を 規定する「憲法」で、信教の自由は保障されていると主張するこ とが出来ます。これは全く合法的なことです。

ⅲ.信仰への問いかけ

 
 次に、③の「日の丸、君が代への愛着」ですが、愛着を感じること自体は何も悪いことではありませんし、否定されることでもありません。しかし、日の丸に対する拝礼や、天皇賛美の歌を歌うことは、唯一の神を信じる私たちの信仰とは、どうしても相容 れないものです。「愛着」という感情によって、私たちの信仰を曖昧にしてはなりません。
 
 ④の社会を「敵にまわしたくない」という心境は、キリスト者が少ない日本社会では切実な思いです。けれども唯一の神を信じ、 「イエスは主である」と告白する信仰は、基本的にこの世とは相容れないものです。しかし、その「世」に対して私たちは伝道しているのです。
 
 もちろん、教会はいたずらに社会と対立はしません。私たちの福音を宣べ伝えたいという思いと、「国旗、国歌」の強制に抗することは、国民の自由のための闘いであるという思いが理解されるためには、地道で真実な歩みが求められます。
 
 このような教会の態度は、社会のためにもなることであり、「日の丸、君が代」について意見を持っている一般の人々と共に、この問題に対応することが出来るようになります。それはさらに、 この世界に主の御旨を知らせることになるのです。 最後に⑤の、教会は日の丸、君が代の強制に反対しているよりも「伝道すべき」との意見です。これはもっともらしく聞こえて、 実はまことに誠意に欠ける意見です。
 
 今回の「国旗・国歌」の法制化が、これだけ教会の本質的な在り方を問うているにもかかわらず、それに目を閉じて、伝道だけ が出来るわけがありません。さらに、実際にこの問題で苦しみ悩んでいる人々が、私たちの教会の中にもいることに目を閉じることは出来ません。悩む人々と共に歩むのがキリスト者の在り方であるはずです。
 
 このように「日の丸、君が代」は、私たちにキリスト者として、 また市民としての歩みについての大きな問いかけとなっています。 私たちは、これを避けて通って良いのでしょうか。


Ⅲ.いったい私たちに何ができるのか
          どう歩むべきか

 

1.私たちの教団の歩みをめぐって

 
 このような問題意識を背景として、私たちの教団の見解が、「『日の丸、君が代』と私たちの教団」として、教団委員会名で公表されました。ここにその全文を掲載します。

 

ⅰ .「日の丸、君が代」と私たちの教団(教団の見解)

 
 日本ホーリネス教団に連なる皆さんへ 「日の丸、君が代」と、私たちの教団 『みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように』。このように共に祈る私たちは今、
 
 「日の丸」と「君が代」の扱い をめぐって、信仰者としての在り方を問われています。 「日の丸、君が代」に対する感情や関心は人それぞれでしょうが、共に考え、祈っていただきたいのです。
 
 「日の丸、君が代」の内容とその歴史的意味、さらにこれらを国旗、国歌として法制化した一連の動向は、歴史に学ぶことをせず、主権在民や基本的人権の尊重という憲法の理念にも反するものです。私たちは、法の下に生きるものとして、この事態を憂慮します。
 
 特に、思想、信条の自由さえ制約されかねない公立学校の教職員と生徒、教会学校の生徒と親、教会員の子どもたちをはじめ、 私立学校関係者や公務員、また教会の地域との関係において、信教の自由が脅かされないか懸念しています。
 
 そして何よりも、「日の丸」への拝礼や、天皇賛美である「君が代」を歌うことは、唯一の神を信ずるキリスト者として、受け入れ難いことです。
 
 ですから、私たちは「日の丸、君が代」が「強制されること」に反対します。それはキリスト者の信仰の良心に従うものであり、 市民としての自由と権利が真実なものとなることを願うからです。そのためには、憲法第19条の「思想及び良心の自由」の理念に基づいて、「国旗掲揚、国歌斉唱」を拒否することも、私たちに与えられている大切な権利であり、選択肢の一つと考えます。
 
 しかし私たちは、「日の丸、君が代」の拒否を「強制」しません。 かつて戦時下の教会が、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌い、神 格化された天皇を崇敬するなどして、偶像礼拝に墜ちたことを、 私たちは悔い改めました。神の赦しの恵みのうちを歩む私たちの 願いは、ただ「イエスは主」であることが明らかにされることで す 。
 
 そのために、日本ホーリネス教団に連なる一人一人が、明らかな信仰の良心に従って考え、判断し、行動し、みこころを選び取 っていただきたいと願っています。各教会においても、これを自らの課題として、祈っていただきたいのです。
 
 多様な状況の中で、判断に悩むこともあると思いますが、どのような判断をされても、信仰によって歩むものと主は共にいて下 さいますし、これからも私たちは、共に支え合っていきます。同じ教団に連なる信仰の仲間の祈りがあることを忘れないでいただきたいのです。
 主の平和を祈ります。

1999年12月14日

 

 ⅱ .教団の見解の概要

 
 読んでお分かりのように、この文は四つの段から成ります。
 
 第一の部分は、「主の祈り」が引用されているように、この問題 は私たちのこれまでの信仰に対する挑戦であって、多くの人に共 に考えてもらいたいという呼びかけです。
 
 第二の部分は、「日の丸、君が代」をめぐる現状とその問題点で す。これらについての詳細は、このパンフレットでより理解していただけると思います。
 
 第三の部分は、対応です。既に「国旗・国歌法」として成立していますから、法制化への反対ではなく、「強制されること」に反 対することを明確にしています。市民として反対する根拠として 憲法第一九条を挙げ、具体的な対応について述べています。さら にキリスト者として反対する根拠として、「イエスは主である」と いう教会の信仰告白と、戦争責任告白の趣旨とが挙げられています。
 
 第四の部分は、この問題への対応は具体的であること、教会が共に負い、支えあっていくべき課題であると結ばれます。
 

ⅲ .教団の見解の趣旨と特徴

 
 ①市民の権利、キリスト者の権利
 
 「日の丸、君が代」に対する教団の見解の一つの特徴は、いわゆる市民の権利と、信仰者の権利を同じ軸の上に見据えていることです。信仰を生活の場で実践しようと努めていた割に、信仰を心の問題と捉えたために、信仰が現実社会から遊離しているとの反省が反映していると言えるでしょう。また、最近よく言われる ホーリスティック(包括的)な福音理解とも関係のあることです。
 
 信仰を心の問題とだけ理解することは、真実な信仰生活に至らないばかりか、信仰が変質することもあり得ると、既に述べてきました。戦争責任告白の趣旨もそこにありました。ですから、市 民の権利をキリスト者として考えることは重要なことであり、ま たこのような事柄に慣れていない私たちにとっては、良い学びの機会ともなります。
 
 また、表面だった反対をしていなくても、「強制」されることに疑問を感じている人が多くいることは、新聞等の投書欄などからも窺い知ることが出来ます。教会がこの問題に対する態度を明確にすることは、そのような人々に共感を与えることになるのでは ないでしょうか。
 
 ②子どもの権利
 
 さて市民の権利と言いましたが、特に公立学校の教職員と子どもの人権が問題となってきます。その中でも、このような問題に主体的に関わることが難しい子どもについて考える大人の責任は大きいと思います。
 
 しかし、「子どもの人権などと言っているから、子どもは自分勝手になり、学級崩壊のような事態に陥るのだ」という批判があります。確かに明確なヴィジョンもなく子どもの自主性を尊重することなどには問題があるでしょう。けれども本当は子どもの人権についての考えが未熟なのではないでしょうか。
 
 子どもの人権とは、私たち信仰者の言葉に言い換えれば、神に造られた人格であり個性です。子どもの個性を理解も出来ずに、大人の理屈が当てはめられる、まして公権力が介入するなど本末転倒ですが、しかし「国旗・国歌」の法制化などは、まさにその ような思いの表れとしか思えません。学習指導要領で、子どもの 個性と自主性をうたっている文部省自体も自己矛盾しています。 子どもの信仰と生活に責任を持つ教会の責任は重大です。
 
 ところが「子どものため」というかけ声は、もっともらしく聞こえて、実は親や教師のエゴの反映に過ぎないことがあります。 私たち教会のこの問題への取り組みも、このような子どもを「だし」にしたものであってはなりません。教会の課題として、自分自身の問題として、今後も関心を持ち続けなければなりません。
 
 

2.これまでの枠の中での具体的な対応

 
 けれども、このような問題への関心と関わりを意識的に避けて きた私たちの教団にとって、具体的な対応といってもどのようにして良いか分からない部分が多くあり、また一頃のいわゆる社会派と呼ばれた人々のような行動が求められるのかという、誤解と不安も大きいようです。
 
 しかし、何度も繰り返すようですが、私たちの信仰の在り方が 問われているのです。それに対して沈黙することはキリスト者として真実ではありません。さらに、私たちのこれまでの信仰が、社会と全く遊離したものでないとすれば、私たちに出来ることも多くあるはずです。 

ⅰ.祈り

 
 その第一は祈りです。まず、国のために祈ることです。為政者のために、私たちの国が元来た道に戻らないように、信仰の自由 が守られ、子どもたちが偶像礼拝から守られるように等々。これらのことのために祈るのは、私たちの大切な務めです。私たちの 祈りが無責任な願い事でなく、真実なものになるためには、現在 の状況についても良く知らなければなりません。 次に自分たちのために祈ることです。社会の動きがどのようであっても、神の御心に目を留め続けることが出来るように、神の御心を選び取っていくことが出来るように、明らかな信仰の良心のもとに歩むことが出来るように、信仰的な妥協をすることがないように等々です。

ⅱ.あかし人として生きる

 
 私たちに出来る第二のことは、「あかし」です。私たちが「イエスは主である」と明確に告白することが一番のあかしです。さらに、この問題によって、教会が人の自由や尊厳、国の在り方を真剣に考えていること、教会が隣人と国を真実に愛して歩んでいることを示すことが出来るのではないでしょうか。ホーリスティッ ク(包括的)な福音理解と宣教ということについても、この問題は私たちに大きな課題を投げかけていると思います。
 
 そして、私たちが日本社会に生きている以上、この世の動向と 無関係な伝道をすることは出来ません。教会が日の丸や君が代の問題について、ある意見を持ってそれを表明することが、特定のイデオロギーやキリスト教の偏狭な考えに基づくもの、あるいは キリスト者の権利のためのものとしか受け止められないとすれば、 私たちの伝道の在り方を問わねばならないでしょう。

3.更なる可能性

 
 しかし、教団委員会から公表された見解は、これまでの私たち の信仰の枠組みから、一歩前進することを促すものです。

 ⅰ.国旗掲揚、国歌斉唱への対応「良心的不服従」

 
 何を考え、何を信じ、何に従うか――という「思想・良心・信 教の自由」は、他のどのような自由にも優先する基本的人権と言 われます。それは他のどのような法律があったとしても、それに 優先して守られるべき人間にとって普遍的な権利であることが、 日本国憲法(1)でも国連人権規約(2)でもうたわれています。たとえ国 家でも、この自由を侵すことは許されません。従って、キリスト者は基本的には自分の置かれている国の法律に従うべきですが、 法律の実際上の運用が基本的人権をないがしろにすることは、あ ってはならないことなのです。
 
 ですから、「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と法律で定めら れても、国やその機関が外交や公式の席、文書などで使用する旗 と歌が正式に決まったということであって、「日本人ならだれも がその旗に敬礼し、その歌を歌わなければいけない」というもの ではないのです。この法律を楯にとって「従いたくないなら日本人をやめて外国へ行けばいい」などというのは、基本的人権を侵 す暴言であり、容認できません。法律で決まっていても、「私はこの歌を歌いたくない」「私はこの旗を使いたくない」という自由は、 より上位法である憲法と国連人権規約によって保障されていると 考えられます。この「良心的不服従」の原則は、全体主義国家や 強権国家でない民主的な法治国家であれば、守るのが当然の普遍的な価値です。
 
 もちろん、教団の見解にも「私たちは、『日の丸、君が代』の拒否を『強制』しません」とあるように、「日の丸、君が代」への賛成の気持ちも、明らかな信仰の良心によるものであれば尊重されるべきであると考えます。しかし、選択肢が「賛成」しかないとすれば、それは既に「強制」になっていることに留意しなければ なりません。
 
 よくアメリカなど外国では国旗が大切にされ、国歌が歌われているではないか、と言われます。諸外国の中でも、法律で国旗・ 国家を定めているかどうかは様々ですが、いずれにしても民主国家であれば、それらを受け入れない個人の自由も確保することは 当然の権利とみなされます。ましてや、学校教育の中ですべての児童・生徒に従わせるよう教師が強要されることなど、あり得な い国権の乱用というほかありません。
 
 基本的な人権とは、私たち信仰者にとっては、「神は自分のかたちに人を創造された」という聖書の人間観に基づくものであって、「思想・良心・信教の自由」を何ものも侵してはならないと考え る基盤があります。ここに、その権利を国家と言えども侵してはならないという、明確な根拠があります。


(1) 日本国憲法第19条「思想及び良心の自由」思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(2) 市民的及び政治的権利に関する国際規約(人権規約B)第18条「思想・良心及び 宗教の自由」
1.すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。 この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその 宗教又は信念を表明する自由を含む。
2.何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
3.宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみ を課することができる。
4.この規約の締結国は、父母及び場合により法廷保護者が、 自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。


 

ⅱ.ホーリスティックな福音理解

 
  ホーリスティックな福音理解が提唱される中で、「日の丸、君が 代」に対する見解のような文書が、教団から公表されたことは大きな意味があります。このような課題を通じて、私たちが福音をよりよく理解し、私たちの宣教の豊かさにつながるよう願わされます。
 
 しかし、この問題への対処ということでは、当事者は本当につらく難しい判断をしなければならないと思います。私たちが単に信仰的な理想を掲げるだけではなく、迷いと悩みを共に分かち合い、支え合うことができるよう、私たちの人間理解が深まる機会ともさせていただきたいと願っています。

あ と が き ( 改 訂 三 版 )
 「和解パンフレット2」を発行してから六年が経ちました。「日の丸、君が代」の問題は、特に学校で厳しさを増しており、当委員会でも本パンフレットの版を重ねてまいりました。そして今回、現実に起きていることの紹介を目的として、再びみなさんのお手元にお送りすることといたしました。
 この問題に対する思いは一様ではなく、当委員会の中でも議論を続けていますが、この国でこの時代に神のみこころを選び取ることができるよう願っています。私たちの教団の見解も、「日の丸・君が代」の強制には反対するが、不服従を強いるものではありません。特に、教育の現場で葛藤を覚えておられる方々と、祈りを共にしたいと思っています。
 教会員の中で公立学校の教職員をしておられる方々や子どもたちをはじめ、関心のある方々の具体的な対応の仕方や感想などをお待ちしています。郵送、ファックス、Eメールで、当委員会宛にお寄せ下さい。

和解委員会パンフレット2
2000.2.18.一刷 2006.2.20.改訂三版
編集:日本ホーリネス教団福音による和解委員会
発行者:上中 栄
発行所:日本ホーリネス教団
 
東京都東村山市廻田町 1-30-1

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