「日韓共同歴史研究会」報告

 福音による和解委員会 平野信二
 
 昨年夏、WH連中高生キャンプで訪韓した折りに、ソウル神学大学校歴史研究所所長パク・ミュンス牧師より錦織寛牧師と蘇基昊牧師を通して、日韓双方の教団史に関する学び会を行いたいとの申し出がありました。これを受けて、2008年1月21~22日、ソウル神学大学校歴史研究所と福音による和解委員会主催、東京聖書学院と歴史編纂委員会共催による「日韓共同歴史研究会」が東京聖書学院において行われました。韓国から12名が来日し、日本側の出席者を加え総勢30名余の参加者により、有意義な研究発表と交わりを持つことができました。

歴史に関する学び会

 2日間で6セッションが持たれ、韓国側からは、「世界ホーリネス運動と韓国聖潔教会」(パク・ミュンス牧師)、「中央教会が韓国聖潔運動に与えた影響」(ジャン・クムヒュン牧師、基督大韓聖潔教会中央教会副牧師)、「在日韓国人聖潔教会の宣教の歴史」(ベ・ドゥクマン牧師、福音神学大学院大学校教授・教会史)、日本側からは、「日本ホーリネス史概観(1901~36)」(山田智朗牧師)、「日本ホーリネス史概観(1936~49)と、日本ホーリネス教団の戦争責任告白」(上中栄牧師)、「東京聖書学院の歴史と現状」(西岡義行牧師)が発表されました。

聖潔教会の堅実な歴史研究

 日本では先月号の『りばいばる』でも紹介された芦田道夫牧師の『中田重治とホーリネス信仰』(07年5月出版)等によって、ようやく明らかになってきた、「東洋宣教会と、それによって生み出された諸教団の起源を米国のリバイバル運動に見る」という視点が、韓国の教会史研究では20年近く前から前提となっていたことを知らされました。韓国というと熱い祈り、大きな教会、というイメージが先行しますが、今回の学び会を通して歴史研究の分野においても大きく水をあけられた感を持ちました。

歴史研究会における交わりと今後

 22日に教団主催夕食会が行われ、和やかな内に食事と交流が持たれました。また、この学びには蘇基昊牧師と来日以来の交友があり、ホーリネス教会史にも詳しい本間義信牧師(ウェスレアン・ホーリネス教会連合玉川キリスト中央教会牧師)が出席し、今までのWH連の枠を超えた交わりとなりました。
 すべてのセッション終了後に懇談の時を持ち、今後も同様の学び会を継続して開催することを確認しました。名称は「日韓聖潔教会歴史研究会」とし、第2回を08年夏頃に韓国で開催する方向で検討を始めています。それまでも、双方から選出されたコーディネーター(日本側・平野信二)を通して情報交換が行われていきます。
最後に、学びと交わりにおけるすべての通訳と、空港の送迎から観光案内まで担当してくださった蘇基昊牧師の多大な労に心から感謝いたします。
 

日韓共同歴史研究会&韓国殉教地ツアー

 
 福音による和解委員会 平野信二
 
1.日韓共同歴史研究会(5月18~19日)

 今回(2回目)はソウル神学大学校で開催され、日本側からは6名の教職信徒が参加し、韓国側から大韓聖潔教会ソン ユンキ総務、同校歴史研究所のパク ミュンス所長以下、教授、近隣教会の牧師、大学院学生らが出席しました。筆者(日本ホーリネス教団前史)、ウェスレアン・ホーリネス教団の本間義信牧師(第二次世界大戦後のホーリネス信仰の深化)、芦田道夫牧師(中田重治のホーリネス信仰)、パク ムンス教授(韓国聖潔教会の教会論的特徴)、ハ ドギュン教授(初期韓国聖潔教会の伝道活動)、カン ギュンジャ伝道師(聖潔教会のアイデンティティ確立のための聖潔論考察)が発題し、特に設立期の米国のホーリネス運動やOMSとの関わりについて質疑がなされました。
 前回は韓国側の学問レベルの高さや研究者の層の厚さに圧倒された感がありましたが、今回は、お互いの教団が同様の課題を持っており、今後はこの分野における対等の対話が可能であることを感じました。研究会の名称を「日韓聖潔教会共同歴史研究会」とし、次回は来年の夏に日本で開催することを約束して閉会しました。

2.韓国殉教地ツアー(5月20~22日)

 
殉教地ツアーでは、①1924年に57名の児童が神社参拝を拒否したカンギョン(江景)聖潔教会を訪ね、牧師より「日帝の朝鮮支配における宗教行政に大きな影響を与えた」との説明を受けました。②1950年の朝鮮動乱時、聖潔教会のムン ジュンギョン(文俊卿)伝道師と彼女に導かれた多数のキリスト者が殉教したジュンド(曾島)で、同師が開拓した一一教会の内の三教会、殉教祈念碑、現在計画中の殉教記念館用地を訪問・見学しました。同島はキリスト者の人口比率が90%と韓国で最も高く、「天国の島」と呼ばれている。その他、駆け足で、③三一独立運動のユ ガンスン(柳寛順)烈士の記念館、④独立記念館、⑤韓国基督教宣教百周年記念教会と外国人墓地、⑥西大門刑務所歴史館等を見学しました。

通訳、韓国側との交渉をしてくださった蘇基昊牧師、同師の友人でツアー案内をしてくださった「天国の島」著者のインピョンジン牧師に感謝します。
 
OMSの歴史をめぐって――
第三回日韓共同歴史研究の報告
(福音による和解委員・宮崎誉)
 
 七月12~13日に第三回日韓聖潔教会共同歴史研究会が、日光オリーブの里で行なわれました(韓国側17名、日本側14名参加)。
 
 
 開会礼拝の説教は郷家一二三教団委員長がなさいました。郷家先生は救いの歴史に生きているのに、なぜ痛みに満ちた人類の歴史があるのかを問い、使徒パウロが神の選びの民イスラエルのために祈り(ローマ9~11章)、人間の理解を超えた神の知恵に目が開かれるとき、歴史を理性的に解説することを越えて、賛美する者となると語られました。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富みは。…『だれが、主の計画にあずかったか。』…万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(ローマ11章33~36節)。批判的に歴史を見つめつつ、同時に歴史の中で神の恵みの導きを信じ賛美することを願い、共同研究会が始まりました。

 今回の主題は「OMSの歴史をめぐって」です。安井聖牧師は、1911年に中田重治とカウマンらが指導権をめぐって対立した「聖教団事件」を丁寧に描写しました。アジア全域を宣教の視野に置き、京城聖書学院の創立に向うカウマンとキルボルンに対して、中田は強硬な姿勢で、日本のホーリネス教会の指導権を、自ら取ることを主張しました。後に円満解決が公表されましたが、おそらくカウマンとキルボルンが中田の頑なな姿勢に譲歩せざるをえなかったと安井牧師は分析しています。

 許命渉(ホ・ミョンソプ)牧師は、韓国聖潔教会の制度の変遷過程について発題をされました。韓国の聖潔教会の中央組織は、監督制度、顧問制度、理事会制度、総会及び理事長制度と変遷しました。E・A・キルボルンは、定住した指導者の必要を感じて1910年11月に英国人のJ・トマス宣教師を韓国に招きました。反日感情の強かった韓国では、定住した欧米人指導者が必要でした。彼らは言語の習得で苦労し、二代目監督のW・ヘスロップも妻の病気により一年で帰国を余儀なくされ、1921年にキルボルンが韓国の監督になりましたが、彼も、カウマンの召天で空席になった東洋宣教会の総裁に就任することから、韓国の聖潔教会は監督制から理事会制へと移行していくことになりました。理事会制度になってからも、宣教師による指導は続き、1941年に理事会が第一回総会を招集して、第二回総会のときからは全自給を実行することを目指す決議をするときまで続きました。

 朴賛熙(パク・チャンヒ)牧師は、初期の韓国の聖潔教会の教理形成について話しました。李明植(リ・メイショク)牧師が、聖潔教会の信仰を弁証する機関紙『活川』の発行を呼びかけました。教団外には聖潔福音が異端ではないと誤解を解く必要があり、また教団内には健全な信仰を養う目的がありました。『活川』にはA・M・ヒルスの翻訳など日本のホーリネス教会でもよく読まれていたものも掲載され、発題で描写された初期韓国聖潔教会の聖化論は、日本の聖化論と重なる側面を持っています。朴賛熙牧師の丁寧な分析では、初期聖潔論の特長は「心の聖潔」が存在論的聖化を基礎としていて、その罪性を神の像(イマゴ・デイ)の歪みや破損として見ており、それはウェスレーが初代教会の東方の神学の観点から受けたものと理解していることです。その存在論的な救済観としての神の像の回復を、キリスト論的に見るならばキリストの似姿にあずかることであり、それはキリストの謙卑(ピリピ2章6~11節)として受け止めることができるのです。言い直しますと、聖化とは、壊れた神の像が回復されることであって、キリストの似姿にあずかり、キリストのように変えられていくことです。それは、キリストと共に十字架にまで降り、キリストと共に高く挙げられる恵みなのです。

 S・ダークープ宣教師はOMSが南米、アフリカ、アジア諸国など世界各地で、近年、新しい方法を用いて宣教が前進していることを報告して下さいました。
 
 平野信二牧師の発題「韓国併合とホーリネス教会」は『りばいばる』紙八月号で紹介されています。
 
 
 今回参加して、いくつもの豊かな交わりがありました。裵本哲(べ・ボンジョル)先生と、成田空港から日光までの間、約三時間交わりを持ちました。裵先生は聖潔教会の教団分裂と和解について語りました。韓国の聖潔教団は、世界教会協議会と交わりを持つか否かの議論をきっかけに、痛ましい分裂が起きました(1962年)。裵先生は両教団が和解し、働きを共にできるように取り組んでこられました。かつて具体的な和解のプロセスに入ったときも、分裂の痛みを生々しく記憶している人が、和解の方向に進むことに納得できなかったそうです。しかし、裵本哲先生は、和解のために労し続けています。私も日本での取り組みをお話ししました。戦争責任告白の文章が告白する罪は、戦争に直接関わることだけではなく、当時の日本のホーリネス教会の分離時に犯した罪も明記され、その悔改めの土台となる福音理解として和解論があり、そして中田重治宣教100周年のときには、別れていたホーリネス系諸教派が集まり、主のからだとして聖餐を共に祝ったことを話しました。裵先生は、深く頷きながらおっしゃいました「平和つくり出す人たちは、さいわいである(マタイ5章9節)、これが私たちの主イエス様の言葉だ。」
 

「和解の実りを目指して」

~第四回日韓共同歴史研究会の報告~
 
 
 福音による和解委員会と歴史編纂委員会は、ソウル神学大学現代キリスト教歴史研究所、基督教大韓聖潔教会歴史編纂委員会と共に、日韓聖潔教会共同歴史研究会を毎年、開催して、今年で4回目となります。今年は、韓国のガピョン市にあるピルグリムハウスという美しい自然に囲まれたリトリートセンターで開催されました。
 韓国側からは教会史を専門とされている一八名の研究者が参加しました。日本からは牧師五名、信徒二名が参加しました。
 

朴明秀師、朴文洙師、平野信二師

 今回のテーマは「1930~1950年代の日韓の聖潔教会・宗教政策と教会」でした。この期間は第二次世界大戦を含み、また韓国を併合した日本が多くの痛ましい人権侵害を重ねた暗い時代です。日本と韓国の教会に共通することとして弾圧を経験したこと、その中で信仰を貫こうという努力があったことと並行して、妥協という歴史の影の部分もありました。

  朴明秀(パク・ミュンス)先生の発題「日帝末の宗教政策と韓国聖潔教会」では、韓国における信仰の戦いの光と影について触れました。「日帝末の過酷なる試練の中である人たちは最後まで祖国を守ったのだが、多くの人たちが祖国に背き、日本の施策に順応したのであった。解放以降、日本の施策に従った人たちが未だに韓国教会の指導者として居残っており、彼らの親日的な行跡は禁忌の領域であった」と語られました。後世の教訓として正直に記録を残すように努めているとのことです。

  上中栄先生による発題「戦時下日本におけるホーリネス教会の歩み・小山宗祐自殺事件をめぐって」では、ホーリネス教会伝道者の小山宗祐が憲兵隊による取り調べ中に獄死した問題を丁寧に検証しています。小山牧師補は、1942年1月16日に函館憲兵分隊によって拘引され、3月26日未明に死亡しました。伝えられた死因は「自殺」ですが、拷問死の可能性が大きいことが遺体を引き取った方の証言から分かります。また、神社参拝拒否と理解された小山牧師補を、第6部の教役者会は非国民的な考えを持つ者、脱線的言動をなした者と語り、それと自分たちとは異なるという趣旨のホーリネス弾圧時の裁判記録が残っています。

 朴賛熙(パク・チャンヒ)先生の発題「1950年代初期の韓国聖潔教会・朝鮮戦争と教団の受難」では、朝鮮戦争における受難の様子を描き出します。1950年6月25日に朝鮮戦争がはじまり、韓半島の基幹施設の80%を破壊したほどの物質的被害が起きました。死亡者は南側・約63万人、北側・約88万人、負傷・拉致・行方不明者は南側約150万人、北側約332万人という膨大な人的被害が起きました。韓国教会にも大きな打撃を与え、完全に破壊された教会の数は、長老教会619、監理教会239、聖潔教会106、救世軍8と把握されています。朴賛熙先生は聖潔教会の教会や神学校が受けた受難(追放、拷問、殉教)の記録を紹介しました。チョンウプ・ドゥアム教会では子どもから成人にいたるまで計23名が殉教しました。ユン・イムレ執事は首を刃物で刺されながらもひざまずいて祈り、信仰を守りました。ある信仰者は、若者と共にとらえられた時に、私の命を好きにしてよいから、この若者の方は自由にしてあげてくれと頼み、殉教しました。共産主義による受難の最中に犠牲になった方々を覚え、「殉教者の霊性」として現代、祈りを深める運動がおきています。聖潔教会では木浦(モッポウ)の近くの島々で実り豊かな宣教を行い、1950年に殉教した文俊敬婦人伝道師(ムン・ジュンギョン)を覚え、殉教記念会館の建設に取り組んでいます。初代教会のテルトゥリアヌスが「殉教者の血は教会の種」と語りましたように、主は殉教者を信仰の苗床として用いてくださるのです。

李相訓牧師

 
李相訓(イ・サンフン)先生は、担任されている教会の75周年記念誌を元に、「広島聖潔教会の歴史」という発題をなさいました。広島聖潔教会は「韓国の教会ですか。日本の教会ですか」と問われるそうです。二つ文化の狭間に立ちつつ、困難を越えて使命に生きる国際的な教会を通して、「二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ」(エペソ2:15)てくださる神の御業が紹介されました。

 最終日に、研究所所長の朴明秀先生による特別講演があり、日本ホーリネス教団の戦争責任告白に、丁寧に応答されました。真摯な悔い改めを込めた戦争責任告白が日本ホーリネス教団から出されていることを、深く受け止めて評価するとお話しくださいました。この戦争責任告白を通して検証と対話が深められることを願い、いくつかの提言を受けました。①戦時下の教会の歴史的状況、特に他の教派との比較、②戦時下の日本の教会の信仰の戦いにおける評価と課題(長所と短所)、③当時の日本の政府への根本問題の指摘、④今日的な意味での問題「宗教の自由」など重要なポイントが指摘されました。その場にいた日本側の出席者にとりまして、この朴明秀先生の応答は深い感銘を覚えるものでした。戦争責任を告白してから一三年程になりますが、これほど正面から応答して頂いたことはこれまでなく、歴史研究所の責任者の先生より、戦争責任告白への深い理解と評価、そして更なる対話が呼びかけられたことは大変嬉しいことでした。また、朴賛熙先生も戦争責任告白に対する応答論文を現在、書いてくださっています。秋から、福音による和解委員会では韓国の先生方より頂いた応答へのレスポンスを準備する予定です。
 
 
 独立記念館の前 西大門刑務所跡地フォーラムの後に南怡島という美しい島でリフレッシュのときを過ごしました。冬のソナタのロケ地として有名な場所です。

独立記念館の前

西大門刑務所跡地

 その後、独立記念館、堤岩里教会、西大門刑務所歴史館を巡り、日帝時代の様々な人権侵害と解放を願う独立運動の記録を、学び直す貴重な経験をいたしました。

北朝鮮との国境付近

 北朝鮮との国境付近
 北朝鮮との国境(38度線)を見渡せる展望台にも行きました。地下深くを、北側から国境を越えて堀り続けていったトンネルを見学することもできました(第三トンネル)。韓国と北朝鮮の間にある緊張関係を切実に実感しました。また国境近くの静かな川の向こう側が北側という場所に立ち、金網に祈りが書かれた色とりどりの布が結び付けられているのを見るときに「主よ、兄弟であるはずの国々が、痛みある状況にあります。この地に癒しを与えてください」、と祈りが湧いてきました。 

 夜には基督教大韓聖潔教会本部の歴史資料室を案内して頂きました。
 今回の共同歴史研究会では、戦争責任告白文に、真摯な応答を受けたことが大きな収穫でした。これを機に、理解を深め、使命を再確認し、和解の福音を携えて対話を深めていきたいと切に願います。
(文責・宮崎誉)
~第五回日韓共同歴史研究会の報告~
   福音による和解委員会 宮崎 誉
 
 
 福音による和解委員会と歴史編纂委員会は、ソウル神学大学現代キリスト教歴史研究所、基督教大韓聖潔教会歴史編纂委員会と共に、歴史共同研究を行ってきました。それも今回で五回目となりました。
 
  今年は、京都の関西セミナーハウスで開催し、韓国側十八名、日本側九名が参加しました。特別に基督兄弟団の瀬戸偉作牧師(尼崎教会)の参加と、鄭盛範牧師(東花園教会)の発題もあり大変感謝でした。
 
 今回のテーマは「1945年(光復節と日本敗戦)以降の日韓の聖潔教会」として、日韓3名ずつ発題しました。

 パク・チャンヒ教授は、日帝時代から解放された後、韓国聖潔教会の社会認識について発題されました。当時、京城神学校教授の朴炫明牧師は、韓国の憲法11条が明記している政教分離について、政治と宗教を分離することではなく、政治と宗教がそれぞれ使命を尽くして国家建設に役立つことと理解しました。1946年に、李承晩氏が「聖潔教徒よ、社会の先駆けになりなさい」と呼びかけ、社会を建て上げる使命を明確にしました。特に、道徳と思想の面で教会の社会的役割を認識していました。

 ハ・ドキュン教授は「解放以降の韓国聖潔教会の伝道運動に関する研究」(1945~1961年)について発題し、教会と社会との関係を、伝道学の視点で掘り下げました。韓国聖潔教会は直接伝道に熱心に取り組みました。李聖鳳牧師が指揮したインマヌエル特攻隊や、ヨベルの年福音伝道隊は直接伝道の象徴的働きです。また、レティー・カウマンが十字軍伝道隊を組織し、OMSによる直接伝道がなされました。

 また、間接伝道にも取り組むようになります。困窮する人々のニーズに応えようと隣人愛を実践します。OMSの支援による救援資金と物資を用いた活動がなされます。しかし、組織や理念が未成熟であったので世俗化の課題がおきていきます。ハ先生は直接伝道の精神が薄まらない、間接伝道の在り方の必要性を訴えていました。

 ホワン・ドクヒョン教授は「過去の清算の機会とその神学的な意味」と題して発題をしました。日本が強要した神社参拝に対する三つの姿勢を描写しました。第一の姿勢は、対決姿勢で、迫害や殉教の厳しい道を覚悟した抵抗運動です。第二の姿勢は、神社参拝に協力し、同国民にも推奨する人々がいました。第三は黙認です。韓国では黙認した人々にも戦争責任を問う厳しさがあり、その鋭さに驚かされました。

 日本側は佐藤信人牧師が「再臨に関する中田重治の論説」と題して中田氏の解釈の課題点を、緻密な資料を通して明らかにされました。

 平野信二牧師は「日本におけるホーリネス系教会諸派の系譜」について語り、日本におけるホーリネス系諸教派と、その中心人物が紹介されました。

鄭盛範牧師

 基督兄弟団の鄭盛範牧師の発題は「在日二世としての自分史」という題で部落差別の実態と在日二世のアイデンティティ危機に関する内容でした。発題者が所用で出席できなかったため、瀬戸偉作牧師が代読されました。

 京都での開催でしたので、和田忠三牧師、西原信夫兄(豊中泉教会員)、宮氏努牧師をはじめ、近畿教区には大変お世話になりました。教区の諸活動と重なるなか、工面して協力して下さったこと、感謝申し上げます。韓国の皆さんと共に豊中泉教会で祈祷会にも参加させて頂き、リバイバルと平和のために心熱く祈れたこと、幸いに感じています。また、京都観光では新谷正明牧師にガイドして頂き、世界遺産や新島襄記念館等を見学しました。

 洛西バプテスト教会の杉野栄牧師より、キリシタン時代の品々を見せて頂きました。光を当てると十字架が浮かび上がるキリシタン魔鏡には驚かされました。共同歴史研究では、日韓の迫害を学ぶことが多いので、キリシタン弾圧の学びは意義深いものでした。
 
 
~初めてこの研究会に出席して~
   歴史編纂委員会 佐藤信人
 
 今回で五回目となるこの研究会は、当初は和解委員会の主催で始まりましたが、まもなく歴史編纂委員会との共催となりました。
 
 そのような経緯もあって、わたしがこの研究会に出席するのは今回が初めてでした。その歴史研究会とそれに続く京都観光を合わせた四日間は、わたしにとっては、「楽しかった!」と素直に言いたくなるような、とても心地よさが残るものでした。帰りの電車の中で、「この心地よさはどこから来るのだろう」と考えておりました。
 
 その理由の一つは、普段はあまり親しく接する機会のない韓国の方々と四日間を共に過ごすという異文化交流によるものでした。
 
 わたしたちはそれぞれ、外国人に対する自分なりのイメージというものを持っているものです。ときにそれは、偏見や差別といったものを生み出す原因にもなります。わたしが「韓国人」と聞くと、テレビなどでときどき報道されるように、反日感情をむき出しにして抗議行動を行う、そのようなイメージばかりが先行しておりました。そのような国民性の違いを、どちらかといえば否定的なものとして受け止めていたように思います。今回の四日間は、そのような韓国の方々に対するわたしのイメージが修正されていく、実に貴重なときでした。
 
 前半の研究会では、それぞれの歴史を互いに学び合いました。当然のことながら、相手の国とは違う独自の歴史がある一方で、お互いに共通する課題を抱えていることも確認されました。
 
 このとき、わたしが特に感銘を受けたのは、そのように相互の歴史を学び合う際に、自分たちの価値観を相手に押しつけるのではなく、相手を尊重しつつ違いを認め合う、そのような成熟した交流がなされていることでした。皆さんもご存じのように、韓国のクリスチャン人口は日本よりもはるかに多く、教会の規模も大きいため、「韓国に学べ」とばかりに、韓国は教える側、日本の教会は学ぶ側という構図が常にあります。同じホーリネス教会でも、大韓聖潔教会はわたしたちの教団よりも教勢においても財政面でもほぼ十倍の規模があります。それにもかかわらず、この共同歴史研究会では、一方が教える側でもう一方が学ぶ側というのではなく、あくまで対等の立場で、謙虚に学び合う、そのような姿勢が貫かれておりました。
 
 後半の京都観光では、二十名近い韓国の方々にわたしたちが付き添う形で名所をまわりました。そこでは、喜怒哀楽をストレートに表現する韓国の先生方の様子に、こちらも何度も目を丸くしながら、わたしの中で、次第にそれが親しみを覚えるものに変わっていくのを不思議な思いで感じておりました。様々な違いを乗り越えて、お互いを正しく理解し合うためには、このような具体的な人的交流が大切であることを改めて教えられました。
 
 そして、わたしが感じた心地よさの最大の要因は、「和解」にあるように思います。日本と韓国の間では、戦時中の日本軍などによる行動が今でも政治問題となっており、ことあるごとに謝罪が要求されます。キリスト教界においても、日本の教会が韓国の教会を訪れる際は、まず戦時中の日本の侵略行為に対する謝罪から始めなければならないと言われたりします。そのような中で、この日韓の聖潔教会による共同歴史研究会は今回で五回目になるということもあり、もはや謝罪する側とされる側という構図ではありませんでした。福音によって和解がなされ、大きな障害が克服されて、同じホーリネス信仰に立つ兄弟関係にある教団として、非常に友好的、建設的な関係が築かれているように感じました。そのような土台があったからでしょうか、初めて参加したわたしも、ほとんどストレスを感じることなく交わりに入ることができました。「ここに確かに和解の実がある」という思いを強くしました。
 

 それに導かれるようにして、わたし個人の中でも、韓国の方々との和解が一歩進んだ、そのような貴重なときとなりました。四日目の昼食後、一足先にお別れするわたしは、「いつの日か韓国に伺いたいと思います」と挨拶をしました。それは決してリップサービスではありません。より身近に感じるようになり、さらにもっと深く相手を知りたいと思ったからこそ、「一度行ってみたい」と願うようになりました。

 この研究会のために、自費で出席しながら多くの労を担っておられた和解委員会の四名の先生方に、心から感謝を申し上げます。

「日韓で共に学ぶ教会の歴史」 

 和解委員 宮崎誉
 
 7月8~9日、日韓聖潔教会共同歴史研究会が、韓国の江華島で開催されました。今年で六回目となり、日本から8名、韓国から18名の参加者がありました。基督兄弟団から、鄭盛範先生と澤村信蔵先生、ウェスレアン・ホーリネス教団から本間義信先生も参加されました。主題は「解放後復興期の日韓聖潔教会史(1950~1960年代)」で、五つの発題がありました。
 
 
 第一講演は、現代キリスト教歴史研究所所長の朴明洙先生により、「ウェスレアン福音主義的聖潔信仰の伝統・韓国聖潔教会の同根性」という発題でした。韓国聖潔教会は2007年に、100周年を迎えたのですが、イエス教大韓聖潔教会とキリスト教大韓聖潔教会に分裂しているという課題が続いています。分裂の要因となったのは、60年代に議論されたエキュメニカル運動への賛否(自由主義神学の課題)と、社会事業への賛否でした。しかし、これらの神学的諸課題は、その後の神学的理解の発展によって解消されています。それゆえに、二つのグループは、ウェスレアン福音主義的聖潔信仰の伝統という同根性に目をとめて、共同の歩みを見いだすべきであると、論じています。
 
 第二講演は、根田祥一氏(和解委員、クリスチャン新聞編集長)により、「弾圧への10年と戦後レジームからの脱却」という発題がなされました。最近、日本では一部の大衆による韓国人排斥デモや、政治家による慰安婦問題への歪んだ発言が続き、歴史認識が問われています。自民党の2012年「日本国憲法改正草案」は、端的に言えば、国のかたちを、天皇を元首とする戦前の大日本帝国憲法時代に近づけようとしていると言えます。この状況と、美濃ミッション事件やホーリネス弾圧事件を対比して考察していきます。
 
 美濃ミッション事件とは、1930年に教会に通う小学生が神社参拝を拒否したことが新聞で報じられたことをきっかけに、社会問題となり、多くの議論が起こり弾圧された事件です。当時の憲法でも信教の自由は認められていましたが、それは安寧秩序を妨げない範囲でというものでした。そこから、神社非宗教論が論じられ、神社参拝は日本の文化・風習であるので、偶像礼拝ではないとする考えが教会にも入ってきました。この考えを受け入れた教会は、民族主義的な御用宗教へと成り下がっていったのです。美濃ミッション事件からおよそ十年後、ホーリネス教会は弾圧を受けました。近年の教育基本法改正や「君が代」強制は、美濃ミッション事件と同様に教育の分野から圧迫が始まっていることに「時のしるし」を見分ける必要があると指摘しました。

 本間義信先生は、「1950年以降のウェスレアン・ホーリネス教団に至るホーリネス教会の歴史」という発題をなさり、1901年に中田重治が中央福音伝道館を始めてから、今日に至るまでの変遷を概観しました。1941年に、日本のプロテスタント教会は合同し、日本基督教団を形成し、ホーリネス系の諸教会は第六部と第九部として合同に参加しました。弾圧を通り敗戦を迎えた後、日本基督教団内にホーリネスの群れが始まりました。そこから1949年に車田秋次らは、離脱して、日本ホーリネス教団を形成しました。留まったホーリネスの群れは、離脱した諸教団と協力して東京クリスチャンクルセード、福音文書刊行会などの働きを担いましたが、1969年に学生紛争が起こり、日本基督教団は混乱状態に陥りました。ホーリネスの群れの中で、教団の教師検定試験のあり方を良しとしない諸教会は1985年にホーリネスの群教会連合をスタート、2002年に包括宗教法人ウェスレアン・ホーリネス教団を設立しました。

 許命渉先生(第三講演)と朴チャンヒ先生(第五講演)は、50から60年代の韓国聖潔教会の復興と成長について紹介しました。1954年に309の教会、約4万人の信徒でしたが、1960年には461の教会、60,620人の信徒数に成長しました。日本の帝国主義時代と朝鮮戦争を乗り越えた韓国聖潔教会は、韓国三大教派の一つとして驚くべき成長を遂げました。その働きの特徴は、純粋な福音宣教(十字軍伝道隊、ヨベルの年伝道隊等)と、社会的な広がりを持つ多様な伝道活動です。東洋宣教会による支援活動は盛んになされましたが、福音宣教と社会活動との関係性で未整理の部分もあり、検証がなされています。
 
 韓国側より、完成したばかりの李明職牧師の全集が贈呈され、日本側からは、小林和夫先生が提供して下さった小林和夫著作集を贈呈しました。第六巻に、小林先生と韓国聖潔教団、並びにソウル神学大学の先生方との長年の親交が写真に綴られて、これまでの交わりの深さが示されました。

〈江華島〉

  研修の後、江華島の歴史を学ぶ時を持ちました。江華島は、古朝鮮の建国神話の舞台です。十三世紀には高麗がモンゴル襲来より避難して遷都した歴史の古い島です。近代、開国を迫るフランス(1866年)、アメリカ(1871年)が江華島に迫り、一時的に占拠し、後には日朝修好条規(1876年)と呼ばれる不平等条約を結ぶ背景となる江華島事件もこの地で起きています(1875年)。この地にはカトリックの殉教記念地があり、現在は黙想施設として公開しています。

〈小鹿島(ソロクト)〉

 三日目には、韓国の南端にあるソロク島に移動しました。そこにはハンセン病の大きな療養所があります。元ハンセン病患者で、教会の伝道師と長老をされている方々が、経験を語って下さいました。日本と同じように、韓国の療養所でも人々は病による肉体の苦しみと差別による精神的な苦しみを経験しました。また日本による帝国主義の時代で、ソロク島に収容された人々は、山を切り開き、材木を獲得し、建築する重労働を自ら担うという苦悩を経験しました。島から逃げようとする者が、見張りに銃殺されることもあり、海に逃れても潮の強い流れにより、命を失った者もありました。

 厳しい対応をした歴代の責任者たちの中で、二代目の花井善良院長は、韓国人のハンセン病の方々をいたわり、、韓国人らしい服装や風習で生活することを許可し、ケアに取り組んだので、ソロク島の人々から慕われました。花井院長はこの地で亡くなりましたが、後に彼を記念して、療養所の人々が石碑を立てています。

 日帝時代が終わった後、もう一つの試練が襲ってきました。朝鮮戦争の時に、南下してきた共産主義の軍隊が、ソロク島にまで入ってきたのです。銃を握った兵士が、「おまえはキリスト者か、信仰は捨てる気があるか」と尋問をしました。当時、この教会の牧師は、殉教の死を遂げています。 

 いくつもの苦難を乗り越えて歩んできた、元患者の伝道師(写真、前列の左から二番目)が、自分たちは苦難の中も祈りを貫いて、主にある勝利を確信して歩んできたと証しされました。信仰の実感のこもった証しに、感銘を覚えました。
 
 
 この教会の側にある宿舎で一泊したのですが、伝道師から、「日本からの皆さんも、朝の祈りに参加して下さい。起こしにいきますので」と強く勧められました。翌朝、なんと三時半に、「皆さん、祈りの時間ですよ」と起こしに来られたのです。「早朝というよりも、深夜ではないか」と心につぶやきつつ、会堂に行くと、既に療養所の方々の祈りが溢れていました。10名ほどの聖歌隊も声高らかに賛美を歌っていました。蘇基昊先生は、急遽、説教を頼まれ、早朝四時からの説教を担当されました。深夜の祈り会に出席させて頂き、心が燃やされる素晴らしい経験をしました。

 二年後の2015年は、日帝時代が終わった敗戦記念(韓国・光復節)から、70年目になります。そこで、次回、来年の歴史研究会は「解放の前夜」という主題で、韓国の先生方を日本にお招きして開催する予定です。
 

日韓聖潔教会歴史研究会in長崎

 ~キリシタン史跡ツア~
和解委員 宮崎 誉
 
 7月7~8日(月~火)に、第七回日韓聖潔教会共同歴史研究会を長崎カトリックセンターで開催しました。会場は長崎に投下された原爆の爆心地の浦上天主堂の側にある施設です。韓国からは19名、日本からは宣教師も含めて16名参加しました。兄弟団からも2名参加しました。

 今年のテーマは「光復節前夜の聖潔教会」で、戦争末期の日本と韓国のホーリネス教会の姿を学びました。日本では通常「終戦の日」や「敗戦の日」と呼びますが、韓国では日本帝国主義による植民地支配からの解放を意味する「光復節」と呼びます。この光の回復という意味は、弾圧を受けた日本の教会にとっても意味のあることと捉え直して、共同研究のテーマとなりました。特に、来年は、敗戦から70年を記念する節目になります。
 
 
 第一講演は、ソウル神学大学の朴明秀教授から「大日本帝国(日帝)末期の宗教政策と韓国聖潔教会」というテーマで講演がなされました。元々、中国、韓国、日本には政教分離という概念がなく、戦前の信教の自由とは、安寧秩序を妨げない限りにおいて付与された自由でした。それゆえ宗教は国家による制御の下に置かれ、特に朝鮮では創氏改名や日本語強要に加え、「皇道精神」を養うためにキリスト者であっても神社参拝を社会儀礼として強要したのです。聖潔教会の指導者の李明稙牧師は、迫害が激化する前に、神社参拝を受け入れます。この態度に対し、後の人々は戦争責任を問います。聖潔教会には、李ゴン牧師や金ヨン牧師など、参拝を拒否し殉教した者もいました。

 日本では1942年六月にホーリネス弾圧が起こり、韓国の聖潔教会に対しては、1943年5月24日に、教職者200名、長老と執事100名が検挙されました。弾圧の理由は、欧米の宣教師の指導と経済援助、そして思想的には地上再臨の教義が革命的思想と受け取られたからでした。

 朴先生は聖書学者フォンラートを引用し、聖書の登場人物は皆傷だらけで弱さを持つ脇役であり、主役である神だけが完全であり、恵みの内に救いの歴史を導かれると語ります。同じように聖潔教団の歴史でも、偉大な指導者たちも限界を持った人間であり、限界を超えて導くお方は神であることを覚えたいと語りました。

 第二講演は、上中栄牧師より、「戦時下ホーリネスの『戦時』と『日韓関係』」。前述の朴明秀先生と同じ時代の内容を日本側から歴史資料に基づき報告しました。和協分離(1936年)から日本基督教団への合同(1941年)、教会解散(1943年)に至る7年間は、15年戦争の末期であり、日本の破滅への道と重なる教会の歩みの記録として批評的な視点で論じます。

 森田豊熊牧師が徴兵された時、「出征感謝祈祷会」が教会で開かれ、40名程集まり賛美を歌い、「何事も思い煩うな」(ピリ4:6~7)の御言で励まし、君が代を二唱して皇室と祖国のために祈ったという記録があります。上中先生は日韓の両国における歴史の陰の部分を鋭く指摘します。記録では朝鮮人のキリスト者が約200名集まり、徴兵された森田牧師を駅に見送りに来たとされています。確かに抵抗運動をした者もいましたが、親日派の立場の者も大勢いた歴史の陰の部分を見ることも重要です。

 上中先生は戦責告白の精神を深める重要性を語り、今日の日本の教会に見える、浅い謝罪のパフォーマンスで終わる「悔い改め慣れ」とも言える事例を指摘し、現状を嘆き、この時代に神のみ心を選び取ることができるように願うと訴えました。

 第三講演は、基督兄弟団の瀬戸偉作牧師より、「基督兄弟団の設立過程―ホーリネスの流れを汲む群れとして」という主題で戦後の兄弟団の復興の歴史が描写されました。1932年に中田重治牧師による「聖書より見たる日本」という講演をきっかけに分裂が起こり、中田派のきよめ教会と五教授側の聖教会とに別れました。弾圧を経て戦後の1945年11月に森五郎牧師を中心に礼拝が再開されます。当初の理念は福音宣教に専念し特定の教派性を持たないという願いを込めて「基督兄弟団」という名称を付けたのですが、1947年の秋季聖会で「特選聖歌」という軍歌のように鼓舞する賛美が多く歌われたことをきっかけに、きよめ教会時代の信仰に回帰していきます。今日の兄弟団は、健全な教会形成のために神学的検証を積み重ねる取り組みを進めています。

 第四講演は、崔仁植教授による、「神中心主義を実現する四重の福音精神の回復の道-日帝末韓国聖潔教会の神社参拝の歴史的な教訓」。崔教授は、ソウル神学大学の組織神学の教授で、ポール・ティリッヒ研究が専門ですが、近年、聖潔教会のアイデンティティである四重の福音を多面的に研究する使命を感じ、「グローバル四重の福音研究所」を立ち上げました。その研究発表としての歴史神学の視点で発題しました。

左:蘇師 右:趙鏞吉氏

 第五講演は今回の研究会のハイライトとなる内容でした。二年前に、韓国側より日帝時代の裁判記録が見つかったので翻訳して欲しいと依頼を受けました。日本における弾圧の手書きの調書は、歴史編纂委員会が保管して活字化の作業を継続していますが、韓国での裁判記録は他にあまり例がないようです。そこで東京キリスト教大学で歴史神学を講じる山口陽一先生に相談し、歴史学の専門訓練を受けている修士課程の趙鏞吉(チョウ・ヨンギル)氏に担当して頂くことになりました。趙氏は、その途中経過として、「1943年朝鮮聖潔教会の弾圧における刑事一審訴訟記録(光州地方法院)の概要」という報告をしました。この裁判記録は、1943年の韓国聖潔教会の弾圧時の調書に基づいています。1942年に起きた日本のホーリネス弾圧と同じ手法でなされているので、特高警察が日本で弾圧が行われた一年後に、韓国でも行ったのではないかと推測されます。聖潔教会と米国の宣教団体との関係、教義、神社参拝に対する考えなど、取調べがなされた記録となっています。この貴重な裁判記録を、歴史資料として出版する計画が進んでいます。
 

二十六聖人殉教記念碑

 
 第六講演は、許ミョンソプ牧師による「グンファ聖潔教会の受難事件」という研究発表です。この事件を巡る多くの資料を集めて、グンファ聖潔教会の弾圧事件を多面的に紹介しました。特に、この記録では牧師や長老だけでなく、信徒の方々が多く直接の受難を経験し、妥協した牧師たちよりも、むしろ信徒が純粋な信仰を表明したことが大きな証しとなっています。

 9~11日には九州キリシタン史跡ツアーを行いました。まず、長崎原爆資料館に行き原爆の悲惨さについて学びました。八月号の平和特集でも書きましたが、ファットマンと呼ばれる原子力爆弾を積んだ爆撃機が出撃するときに、従軍司祭のザベルカ神父は保護と祝福の祈りを捧げて送り出しました。アジアで最も大きなカトリックの町の一つである長崎の浦上天主堂の500メートル上空で原爆が爆発したのです。現在でも被爆マリア像は保存されていますが、歴史の悲劇でありアイロニーです。

キリシタン禁令の高札

踏絵(平戸)

 
 平戸まで足を延ばし、隠れキリシタン村の資料館に行きました。静かな山奥に、三百年続いた江戸時代の迫害を乗り越えた人々が住んでいた村があります。

資料館に主イエスの遺体が十字架から降ろされた描写(ピエタ)の板が展示されていましたが、これは踏絵です。このレプリカが売店にあり、キリシタン禁令を胸に刻む思いで一つ購入しました。

天草四郎を解説する鈴木師

島原城

 
 城主の迫害と横暴さに対抗して島原の乱が起きました。その舞台の島原城と、天草四郎が最後に籠城した原城跡を訪ねました。歴史編纂委員会の鈴木先生にキリシタン史跡の解説を担当して頂き、有意義な学びとなりました。

戦後70年を記念する来年も意義深い学び会を継続できるように、願っています。

日韓聖潔教会共同歴史研究会in済州島

~解放後の日韓聖潔教会~
和解委員 宮崎 誉
 
 2016年7月11~14日に、韓国の済州島にて、第8回日韓聖潔教会共同歴史研究会が開催されました。テーマは「解放後の日韓聖潔教会」で、第二次世界大戦以後の混乱期に、日本と韓国のホーリネスの教会が、どのように復興を目指して歩んだかを学び合いました。日本側11名、韓国側17名の参加でした。
 

 佐藤信人牧師が日本側代表として挨拶し、開会礼拝ではピリピ人への手紙三章20節より、「国籍を天に持つ私たち」と題して説教しました。
 
 フォーラムは、歴史学と神学的な研究として、日本と韓国における双方の教会の歩みについて、発題がなされました。
 
 朴チャンヒ牧師は、「解放直後韓国聖潔教会のタイムライン」という題で発題しました。韓国のキリスト者は、日本帝国主義という苦悩に満ちた時代からの解放として終戦を迎え、再建に取り組みます。1945年9月の第一主日に、京城神学校に300名が集い、再興礼拝をささげました。教団の組織を整え、名称を「基督教朝鮮聖潔教会」へ変更し(その後、1949年の第四回総会で「基督教大韓聖潔教会」に変更)、全国を5つの教区に分けて伝道を活発化させていきます。女性の働きを促し、信徒復興運動が展開され、神学教育のためソウル神学校を再開校します(1945年11月20日)。
 
 
 このような再建のわざは「懺悔」をもって実施されました。朴賢明(パク・ヒョンミョン)牧師は、日帝時代の妥協的な教会の生き方を、バアルに膝を屈めた姿だったと懺悔を促し、「……ああ卑怯という罪、これが朝鮮教会を荒廃させ、すべての指導者を脱線させ、すべての信者を堕落させた。……全体が連帯責任を負って心から悔い改めをし、慈悲なる神に赦しを請うものでなければならないだろう。…… 崩れた所を修補せよ」(『活泉』1946年5月号、5~6頁)。このような悔い改めの呼びかけがなされ、聖書信仰、使徒信条を根幹とする正統信仰、福音宣教など、基本姿勢が呼び掛けられました。
 
 このような回復期に、朝鮮半島は大きな危機に直面します。1950年、北朝鮮軍の奇襲南侵が始まり、朝鮮戦争に突入し、聖潔教会も直接的な打撃を受けます。1950年8月23日に、キリスト教連盟が神学校の回復のために支援するという偽りの言葉に騙されて、京城神学校を訪れた朴ヒョンミョン牧師をはじめ、中心的な神学校の教師たちが拉致されました。10月16~19日には、ピョンチョン教会で66人が殉教するなど、その後、数多くの教会が破壊され、教職と信徒が拉致され、殺害されます。この困難の中で、日帝時代の責任で自粛していた李明植(イ・ミョンジク)牧師が再登場し、教団の再興に尽力していきます。
 
 上中栄牧師は「敗戦前後の日韓ホーリネス関連事項」として、戦時下の宗教行政と、日韓のホーリネスの教会について研究発表をしました。日韓双方のホーリネスの教会が弾圧を受けたのですが、その法的根拠や理由が、未だ明確になっていない状況です。日本においては、切支丹時代からの邪教扱いは、開国後も変わりませんでした。しかし、キリスト教弾圧に対する列強諸国の圧力をかわす必要もあり、「神社非宗教論」が登場し、「神社の儀は国家の宗祀」とされます。1942 年にホーリネス弾圧が起きますが、これは改正治安維持法が適用されました。1943年にホーリネス系三教会が宗教団体法による認可を取り消され解散させられてから一か月後の1943年5月、朝鮮総督府は朝鮮聖潔教会に対する弾圧として、教職者の検挙を始めます。その時の調書の翻訳出版が、この共同歴史研究会の働きとして進められています。
 
 上中牧師はまとめとしてこう語ります。「ホーリネス弾圧において、治安維持法という特異な法律や、特別高等警察といった狡猾な権力機関が、キリスト教界に対して敵意を露わにした。それが『弾圧』であるということは理解しやすい。しかし、宗教行政はそれとは違い、平時においてはキリスト教界に攻撃的になることはない。それでいて、宗教の管理・統制というムチと、法律上の認可や税制上の優遇といったアメを兼ね備えている。ここに紹介した教会・牧師の歩みは、まさにそうした中で翻弄されたもののように見える」。
 
 内藤達朗牧師は、「戦後のOMSと日本ホーリネス教団の関わり」という講演をしました。資料として残されていた文献は非常に限られている中で、日本ホーリネス教団とOMSとの関係を丁寧に描き出しました。ネヘミヤ・プロジェクトが前進し、再建と再出発の時を迎えている教団において多くの方々に読んでほしいと感じる資料となっています。結びの部分を引用します。「戦後のOMSと日本ホーリネス教団の関係は、OMSと車田秋次との関係回復から始まったと言える。……車田が殉教したというニュースが米国に伝えられたが、車田が生きていることが判明し、中国伝道が行き詰る中、中国宣教師のサーベージが帰国前に日本に立ち寄ることで、不思議に両団体の回復へとつながった。ここに神の導きを感じたことだろう」。
 
 ソウル神大の女性教授チェ・ゼラク師は、講演「聖潔教会の女性の働きに対する考察」で、18世紀英国のメソジスト運動からホーリネス運動に至る歴史の中での女性の働きについて概観し、現在の大韓聖潔教会の課題について発題しました。日本のホーリネス教会とよく似て、大韓聖潔教会においても、草創期には女性が活躍しましたが、戦後は次第に男性中心になったとのことです。2005年に、ようやく女性教職への按手礼が執行されるようになったものの、まだ「ガラスの天井」があると言います。これからは、男性と女性が協力して全人的な神学を創造し、それを牧会の現場で実践すべき、と呼びかけましたが、それは私たちの教団に対するエールにも聞こえました。
 
 韓国側は、更にチャン・クムヒョン牧師の「韓国聖潔教会のリーダーシップの変化(1907~1961)」と、朴ミュンス牧師の「韓国民族主義とキリスト教」という発題がなされました。根田祥一氏は現代の課題として、「日本のナショナリズム強化とキリスト教の課題」という主題で語りました。2012年以降行われた東京・新大久保や、大阪・鶴橋における韓国人排斥を訴えるヘイト・スピーチ・デモに言及。それに対する対抗デモが行われるようになり、そこにキリスト者も多く参加していることを報告しました。
 
 ヘイト・スピーチ・デモを企画する排外主義者たちは、攻撃のターゲットを変え、2014年7月6日に、西早稲田にある日本キリスト教会館に押しかけてきました。人権運動に取り組むキリスト教の諸団体の事務所がある日本キリスト教会館を「反日の牙城」と見做したのです。
 
 一橋大学名誉教授の田中宏氏は、「クリスチャンはナショナルを超える視点を持っているので、闘争している人たちが惹かれていった。……宗教活動している人たちと連携することは非常に大事な視点だと思う」と、民族主義を越える視点を持つキリスト者に期待感を抱く発言をしています。
 
 フォーラムの後に、済州島の観光と史跡ツアーがなされました。カマオルム地下要塞は、太平洋戦争末期に、日本国本土決戦の時間稼ぎに米軍と消耗戦をする目的で掘った洞窟です。島民に労働を強いて、火山岩でできた山にアリの巣のような洞窟を作った日本軍の跡地です。その他、旧日本軍のアルトゥル飛行場や、約3万人の島民が李承晩大統領の時代に弾圧で命を落とした済州四・三事件を記念する場を数か所訪問しました。
 
 歴史的な悲劇を記念する地で、日韓の牧師たちがともに平和を祈るツアーとなりました。参加者の一人は、ギリシャ語の「平和(エイレーネ)」を描いたシャツを着て参加しました。また、途中で立ち寄った済州島最古の長老教会の資料室に、米田豊著『新約聖書講解』の韓国語訳を見つけ、驚きました。
 

 済州第一教会で水曜礼拝に出席しました。宮崎誉牧師が説教を担当し、蘇基昊牧師が通訳をしました。東アジアで最も美しい島と呼ばれる済州島を訪問し、美しさとともに歴史の闇に触れ、そこでこそ主を信頼し、平和を祈り、使命に生きることを学ぶ意義深いツアーとなりました。
(「りばいばる」誌 2016年9月)