和解委員会パンフレット9

〈はじめに〉  戦後民主的な教育の基盤と なってきた「教育基本法」を全面改定する政府 与党の法案が、2006 年秋の臨時国会で可決成立しました。 この法案にはすでにメディアや書籍で様々な問題が指摘されていますが、クリスチ ャンにとっても見過ごしにできない点が多く含まれています。皆さんの中には、ひ とつの法律の改定がどうしてそんなに騒がれるのか、いぶかっている方もおられる かもしれません。そこで福音による和解委員会では、教会とクリスチャンの視点か ら、新・教育基本法をめぐる問題点を整理し、日本ホーリネス教団諸教会の皆さん に提示します。子どもたちの育成のために、私たちの周囲の教員たちのために、ま た、この国の歩みが主のみこころからそれることがないように、とりなしの祈りと、 皆さんの生活の場での実践の参考にしていただければと願っています。

 
教育基本法が変わることが、どうしてそれほど大きな問題なのですか。法律は時代や状況に応じて改正するものでしょう?
 
他の法律と違い、教育基本法は「教育の憲法」と言われるように、この国の教育に関する基本理念を定めた理念法です。前文に「(日本国憲法の)理想の 実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とあったように(新・ 教育基本法では削除)、その理念は、戦後の民主憲法と密接不可分の関係にありました。1947年に施行された教育基本法は、戦前の軍国主義・国家主義的教育に対する反省・批判に基づいて制定されたものです。どのような国民を育成していくかを左右する教育の 基盤を据えるこの重要な法律の改定は、やがてこの国の基盤を据える憲法の改定につながっていく前段階といえます。ですから、普通の法律のように時代に合わせて簡単に変えてよいものではないのです。それを国会では、十分な審議を深めることなく、「やらせ」 タウンミーティングで世論を偽装してまで、拙速に、しかも文言の一部修正ではなく全く変えてしまいました。新・教育基本法では、戦後の民主教育の価値観が否定され、むしろ戦前に逆戻りするような国家主義的な価値観が醸成されようとしています。国が戦争を始めるには、それに喜んで従い協力する国民が必要です。新・教育基本法はその下備えともいえるような、国が定める道徳的な規範に従う国民の「心」を調達する役割を果たすという性格を帯びています。
子どものいじめや自殺、不登校、荒れる学級など、学校には問題がたくさんありま す。それらをなんとかするためにも法律の整備は必要なのではないですか? 
確かに、それらの問題を解決するために学校も社会も力を尽くすべきです。 しかし、そうした問題は、教育基本法の不備に原因があるわけではありませ ん。むしろ現実の教育行政ではしばしば、教育基本法の精神がないがしろに されてきました。例えば、これまで教育基本法は「個人の尊厳」に基盤を置いていまし たが
、現実の学校では、子どもたちの個性や個人の思想・良心・信教の自由がしばしば ないがしろにされ、「日の丸・君が代」が押し付けられるなど、教育基本 法の精神が軽視される場面が多々ありました。もし、教育現場でもっ と教育基本法が尊重されていれば、今日の学校が抱える問題の多くは 今より改善されていただろうと見ることもできます。
全面的な改正というけれど、何がどう変わるのですか? 
大掴みに言うと、教育の土台が、一人ひとりの子ども(国民) の「個人の尊厳」を尊重することから、国家が定める道徳規範 に基づき、国家が求める人間像を国民に要求し、国民はそれに従う よう求める法律に変わります。従来法を特色付けていた「普遍的にしてしかも個性豊か な」「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充 ちた…国民の育成」といった文言は影を潜め、代わって、新法では「公共の精神を尊び」 「伝統を継承し」「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた…国民の育成」など の価値観が前面に出されています。
クリスチャンの信仰にとって、何か影響はあるのですか?  
尊い一個の人格が尊重されることは、人が神のかたちに造られたという聖書 の価値観、人間観に通じるものです(創世記 1:27 他)。戦後、民主教育の 基礎を築いた教育基本法の制定にあたっては、東大総長の南原繁、恵泉女学園創立者の河井道ら、平和教育を重んじていたクリスチャンたちが中心的に法案作成に 関わりました。ですから、その教育基本法の理念には、聖書的な人間観、価値観が反映 していたのです。ところが新・教育基本法では、憲法で保障されている信教の自由、思 想・良心の自由、表現の自由など、クリスチャンにも関係の深い大切な「心」の領域に 国家が踏み込み、国が善悪の道徳規範を定めて国民に押し付けようとしています。国が 人のためにあるのではなく、国のために人があるという逆転が起こるのです。国家の目 標達成のために有用かどうかで個人の価値が評価され、国のために有用な人材となるよ うに教育されるようになります。これは、本来「神のかたち」である人間が、造り主で ある神以外のものに忠誠を強いられるということであり、その意味で「偶像崇拝」的な 社会に変質していく危険な方向性といえます。
具体的にクリスチャンの先生や生徒が困ることが、何かありますか?
例えば、卒業式や入学式で「国旗」に向かって礼をし、「国歌」を斉唱するこ との強制に対して、クリスチャンを含む教員や児童生徒、保護者、来賓らが、 自分の良心に基づいてそれらを拒否してきました。その根拠の柱が憲法であ り、教育基本法でした。法改定によって、その後ろ盾そのものが変えられてしまったこ とになるのです。問題は、単にクリスチャンが損か得かということではなく、この国で 暮らす少数派の人々の人格とその良心の自由が、教育において尊重されるという民主主義の根源的な価値が、改定によってないがしろにされてしまうことです。
「愛国心」を教えるのが問題だといわれますが、新・教育基本法では「愛国心」とい う言葉そのものを使うのをやめ、「統治機構としての国を愛するわけではない」と いうことを政府が確認したので、それほど問題ないのではないでしょうか?
論議を呼んだ「愛国心」は、新・教育基本法の第二条(教育の目標)5項に 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとと もに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という表現で記載されました。国を愛する「態度を養う」という表現によって、かえって、抽象的な理念だった「愛国心」が、それを守る態度のいかんで達成度を計られる評価の 対象となってしまいました。すでに、愛国心の達成度を盛り込んだ通知表が複数の地方 で現実に出現しています。「国を愛する」ことが、「道徳心」「公共の精神」「伝統と文化 の尊重」などと並んで扱われる時、それはどのような意味を持つでしょうか。町村信孝・ 元文部科学相はテレビ番組で、戦後教育基本法の下で伊勢神宮に生徒を連れて行く学校 が減ったことに言及し、「信教の自由の見地から日教組が間違ったことを教えた。そんな バカなことはない。イスラム教や仏教を押し付けようというのとは違う」と発言しまし た。ここに「国を愛する」態度を学校で教えようとする意図の本音が表れています。皇室の神社である伊勢神宮に代表される神道を、他の宗教とは違う「我が国の伝統と文化」として扱い、当然のように児童生徒に参拝させようとする、それはまさに戦前キリスト 教会を偶像礼拝の罪に陥れ、日本全体を侵略戦争に駆り立てた国家神道体制の再来その ものです。新・教育基本法が成立した今、私たちはこのような現実に直面していることを肝に銘じ、今後この法律が教育現場にどう適用されていくのかを監視しなければなり ません。
クリスチャンも、国を愛することは大事なのではありませんか?
聖書が教える同胞への愛と、新・教育基本法がいう「国を愛する態度」は 根本的に異なるものです。聖書にも「愛国心」を振りかざす人々が登場します。イスラエルは神に選ばれた特別な国であり、自分たちこそアブラハ ムの子孫だと、自国の歴史と伝統を誇ったパリサイ人はその典型です。そのようなパリ サイ人を、主イエスは厳しく糾弾しました。それは彼らが、律法の本質である他者への愛(隣人愛)をないがしろにし、自己の正当性ばかりを誇る偽善に陥っていたからでした。彼らが誇るイスラエルの歴史の中で、神はいくたびも預言者を遣わして罪を指摘したが民は罪を悔い改めなかったと、主イエスは嘆いておられます(マタイ 23 章)。かつてパウロ(サウロ)は筋金入りのパリサイ人で、「先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心」な愛国者でした。
ところが復活の主イエスに出会って真理に目が開かれ た彼は、自国や自民族を誇るプライドから解放され、そのような価値観を「ちりあくた」 と思うほどに変えられました。そして「ユダヤ人とギリシヤ人トの差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである」(ローマ 10:12)と言うことができました。一方でパウロは回心後、 同胞のためなら自分がのろわれてもよい(ローマ 9:3)と言うほど に同国人への愛を熱く語っています。偏狭な「自国中心史観」から福音によって自由にされた人は、本当の意味で自国民も他国民も愛することができる者へと変えられるのです。聖書が教える、私たちが持つべき「愛国心」とは、狭い自国中心のナショナリズムではなく、自らの罪を悔い改め、国や民族の別なくキリストの愛をもって接する隣人愛に根ざしたものです。
新設の第十条(家庭教育)はキリスト教界 でも重視していることですね?
その通りで、家庭教育はキリスト教的価値観にとってもたいへん重要です。し かし、それをこれまで説明したような国家主義的な性格をもつ教育基本法に盛り込むことにより、国がよしとする価値観を家庭の中にまで介入して持ち込む 恐れがあることが懸念されます。表面上は有益に見える条項も、個人の尊厳や国民の自 主性が損なわれるような適用がされないか、注意深く見守っていく必要があります。

日本ホーリネス教団福音による和解委員会(委員長・上中 栄)

2007 年 1 月発行

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