宣教局


Level1セミナーの内容の中から、より信徒が実践できるものを抽出し、コンパクトにお届けいたします。具体的に以下の2つを学びます。
①コーチング(愛をもって人に接する姿勢)②福音を周りに伝えるための4つのステップ(手順)

Level1を学んだ方々でT&Mを実施している方を対象のセミナーです。親教会から子教会、または外に増え広がるスモールグループの発展的な宣教の広がりを学びます。

T&Mで取り扱われている証しの方法、三つの円を用いた伝道、エバンジェキューブを用いた伝道、訪問伝道、帰納的聖書研究などについての実践的な学びと訓練を致します。どなたでも参加できます。


春の訪れを待つ
私は三月の初旬に生まれましたが、三月が好きではありませんでした。
その理由の一つは、「寒さ」を一番感じるのが三月だったからです。私は京都に生まれましたが、三月の京都は特に寒さを感じました。あかぎれ、しもやけに毎年悩まされました。
もう一つの理由は、「早生まれ」です。小学校入学時、私は他の子たちよりも体が小さく、他の子が大きく見えました。そして同級生にできることが私にはできないという経験を何回もしました。「早生まれは損だな」と思ったものです。
使徒パウロというキリスト教の初期に活躍した人物は、先輩たちと比べて、「私は未熟者」ということを「月足らずで生まれた」の言葉で表現しました。
このパウロ、イエス・キリストと出会う前はキリスト教が大嫌いで、キリスト教を迫害した人物でした。しかし、キリストはパウロに現れて、彼に語りました。
その言葉を聞いたパウロは「目からうろこが落ちる」体験をして、イエス・キリストを宣教する人になり支した。復活のキリストと出会ったことを「最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました」と手紙に書いています。「復活」はキリスト教において最も重要な教えです。パウロは突然、復活のキリストに出会い、未熟者ということを受けとめつつも、復活の力に生かされて、誰よりも一所懸命に神と人のために働く者となりました。
三月は好きではない、早生まれは損と思った私ですが、寒い中、地面の下では球根が春を待ち、暖かくなった時に新しい命となって地面から出てくるように、春を待つ季節にも意味があると、今は感じています。春が訪れるように、イエス・キリストは、あなたにも出会ってくださいます。

喜んで後になる恵み

教団委員長 大前信夫
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20章16節)
春を迎えました。春と言えば「入学式」を連想する人が多いように、春は新しい生活に向かって一歩踏み出す思いを与えます。
私にとっても今年は新しいスタートなのですが、それは高齢者医療制度において前期高齢者となること、つまり老後のスタートなのです。ブラジルではこれを人生の第三期と呼びます。家庭や学校で育てられる第一期。社会のメンバーとなり、人を育て、支える第二期。そして第三期です。統計によると、2040年での平均寿命は男性が83.27歳、女性が89.63歳と予想されています。この第三期をどう生きるのか。人きな課題です。
そんな時期を生きる(?)ベテラン信仰者に対し、主イエスは冒頭の言葉をお語りになられました。同じ言葉が19章30節にも語られていますが、これらの言葉で挟むようにし、神の恵みを表わす「ぶどう園の労働者」の讐話が語られるのです。
これは、ぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために出かけるという物語です。まず、農繁期にもかかわらず仕事にありつけない人が招かれます。役に立たない、価値なしと決めつけられた人が招かれるという恵みです。さらに報酬の約束をされなかった人に、一日分の報酬が与えられます。それは「払ってやりたい」との主人の思いによりました。労働の対価ではなく、ただで受けるという恵みです。こうして後にいた者は神の恵みを得、この恵みに先にいる者は蹟くのです。
救いを経験した時、誰もがこの後にいる者のようでした。ところが時が経つと、当然後にいる誰もが先にいる者になります。その時に恵みを忘れると、無価値だったはずの自分にも、長年頑張ってきたとの誇りが生まれます。責任感をもって奉仕をしていると、そうでない人に厳しくなることがあります。
だから「先にいる者が後になる」は、いつまでも初めの恵みを忘れないようにとの戒めです。また、それは先にいる者が喜んで後になるようにとの勧めでもあるでしょう。後にいる者のために上手く自分の場所を譲る。そして、後にいる者が恵みに喜ぶ時、共に喜ぶのです。こうして先にいる者も後にいる者も、共に恵みをさらに知ることになるわけです。
人生の第三期、後にいる者のために上手く後にまわる知恵を持ちたいと願います。こんな老後に向かって踏み出す春を翻っています。


小さな働きであっても
「バタフライエフェクト」という言葉があります。この言葉は、「蝶の羽ばたきが巡り巡って竜巻を起こす」との意味で用いるそうで、歴史に見られる様々な出来事の不思議なつながりを表現しています。日本風に言えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」ですね。もちろん、私たちはその不思議なつながりの背後に、神さまの御手を見るわけです。私たちのなす小さなわざが歴史を動かすものになる……なんて大袈裟なことではないでしょう。でも確かに私たちの小さなわざが、神さまの御業(宣教)において、思いがけない結果につながることがあります。神さまが私たちのわざを用いられるからです。
私は友人が熱心に誘ってくれ、教会に通い始めることになりました。その後は、教会の牧師をはじめ、多くの方々の祈りがあり、助けがありました。しかし、初めて聖書を開いたのは高校生のとき、その聖書は姉が持ち帰ったギデオン協会により配布された日英対訳聖書でした。初めて読んだはずの聖書ですが、私は多くの言葉を知っていました。また、聖書を開く前からキリスト教の祈りも知っていました。中学2年生だった私は、何とか好きだった女の子の隣りに座りたいと、一ヵ月以上祈り続けたのです。それも毎晩窓を開けて、「天の神さま」と呼び、「アーメン」と締めくくっていました。何とその祈りは答えられ……。
ところが、どうして聖書や祈りを知っていたのか考えることもなく、私はクリスチャンになり、牧師になりました。そして、何とようやく10数年前、そのすべてが母の与えてくれた一冊の本から始まったことを思い出したのです。それは母が近くの教会のバザーで見つけた「ベッドタイムーストーリーズ」(ふくいん社)でした。内容は道徳的な教訓話と聖書物語ですが、何しろ自分の本はそれ一冊だけでしたから、何度も繰り返し読みました。こうして私に福音の種を蒔いたのは、実はキリスト教のことなど何も知らない母でした。
その母は、肝臓癌の手術をきっかけに教会に通い始め、1992年に召されました。母の死をきっかけに父が教会に通い始め、2017年に召されました。昨年、初めて京都紫野教会での追悼記念会に参列することができました。まだほとんどがクリスチャンではありませんが、そこで姉たちの家族全員(15名)が共に御言葉を聞いていたのです。息子に本を読ませてやりたいと願った母の小さな行動が、思いがけない結果となりました。神さまの宣教という御業は不思議で満ちています。