奉仕局
合同記念会 14:00~15:00
合同納骨式 15:00~15:30
場所:東京霊園 礼拝堂
日本ホーリネス教団墓地
東京都八王子市元八王子町2-1623-1
JR・京王線 高尾駅下車
北口バス1番「霊園正門」下車

宣教局


Level1セミナーの内容の中から、より信徒が実践できるものを抽出し、コンパクトにお届けいたします。具体的に以下の2つを学びます。
①コーチング(愛をもって人に接する姿勢)②福音を周りに伝えるための4つのステップ(手順)

Level1を学んだ方々でT&Mを実施している方を対象のセミナーです。親教会から子教会、または外に増え広がるスモールグループの発展的な宣教の広がりを学びます。

T&Mで取り扱われている証しの方法、三つの円を用いた伝道、エバンジェキューブを用いた伝道、訪問伝道、帰納的聖書研究などについての実践的な学びと訓練を致します。どなたでも参加できます。


天のまなざし
「テンモウカイカイ ソニシテモラザズ」。こう言われて私は育った。「天網恢恢、疎にして漏らさず。天の網は大きく広い。しかし、まばらのように見えても見逃すことはないぞ」。天から見張られているような、どう見られ評価されているか、いつも気にして生きるのは窮屈だった。野獣化していった。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」(「山月記」中島 敦)の虎が住んでいた。ほめられては有頂天、けなされるとどん底。その繰り返しだった。19歳で洗礼を受けて、自分に注がれる主のまなざしを知った。
それからもいろいろな事が起こった。お前はキリストを信じているから大丈夫なんだろう、と言われるが、実は逆で、信仰のゆえに苦しみが深くなることが多い。それでは信仰にはどのような恵みがあるのだろうか。池渾夏樹の「また会う日まで」に、主人公・秋吉利雄の妹トヨが、兄利雄に送った手紙の結びにこうある。
「主(しゅ)はさまざまな運命を私たち人間にお与えになります。いえ、この言いかたは間違っています。私たちは自由意思を与えられ、自分の判断で生きてゆく。その途中でさまざまなことが起こる。ただ、主はいつでも見ていて下さる。私は夫が、教派は違えても同じ信仰をもつものであることを嬉しく思います。そこに主イエスのまなざしをかんじるからです」
妻のヨネには「第七戒」の痛みがあった。夫の末次郎も知っている。それにもかかわらず、神のまなざしを、夫の中に感じている。信仰が与える恵みとは、お互いと、すべての出来事とに注がれる「主イエスのまなざし」ではないか。
この慈愛と赦しの中でなら、これで終わりと諦めることはない。「望み得ないのに望みを抱いて信じる」ことが始まる。人間に与えられている真実に生きようとする思いは、くじかれることはない。

勧士説教集の出版に期待する
「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。」
私は現在、財務局長をしておりますが、併せて教育局担当の教団委員としての働きもさせていただいております。
さて、私たちの教団には、勧士が12名おられます。勧士とは主の召しを受けて、教団が定めたカリュキュラムを修了し、認定を受けて教団に任命された信徒説教者です。牧師としての献身ではありませんが、社会で働きながら、その豊かな人生経験を活かして説教をしていこうとする、信仰に燃えた、熱心な信徒献身者でもあります。
ある時、この勧士の方々の説教をまとめて、説教集として出版できないだろうかと、数名の勧士が立ち上がりました。牧師の説教集は既にいろいろな形で世の中に出ていますが、信徒説教者である勧士の説教集は、まだ出版されていません。早速、教育局に相談し、全面的な支援をいただけることとなり、勧士による編集委員会が結成されました。
そして、祈りつつ地道に編集委員会を重ね、さらに教育局・出版部の後押しをいただいて、いよいよ年内に勧士の説教集が出版されることとなりました。
信徒として歩んできた波乱に満ちた人生経験を踏まえ、ていねいに紡ぎあげてきた勧士の説教は、必ずや多くの人々の共感を得ることができると確信しています。みなさんもぜひ、この勧士の説教集を手に取り、その説教に触れ、信仰の導き手であるイエスさまを見あげて歩んでいただければ幸いです。教団の将来を見据えて、牧師と共に教会を建て上げるために、信徒がそれぞれの立場で賜物を活かして、神と人とに仕えていくことができたら幸いです。


神に召されて生きる
私は17歳の時に主イエス・キリストの十字架と復活を信じ、罪と死の中から救われました。その喜びは今も変わることがありません。しかし私には、信仰告白した時に与えられた、もうひとつの救いの喜びというものがありました。それは、罪と死からの救いの喜びに勝るとも劣らない喜びでした。「人生の無目的からの救い」です。人は何ために生きるのか? それが十代の私にとって重大な問題でした。
人は、物を作るということにおいて、「同じである」ことに価値を見いだします。工業製品はある一定の水準を満たした同一物でなければなりません。違うものは廃棄されます。それに対して神の創造は、「違う」というところに価値を見いだします。長い人類の歴史と広大な空間の広がりの中に無数の人間が存在しますが、複製されたような同じ人はひとりもいません。神は人を母の胎の中で組み立てたと詩編139編に記されていますが、私たち一人ひとりをご自身の手にかけ、神の全能の力とはかり知れない英知をもって創造されました。たったひとりしかない「私」の創造は神秘的で、「私」というものがどのように造られ、どのような意図と目的をもって造られたのか、それは創造主なる神の他に知るものはないのです。だから、「私は何のために生まれてきたのか?」を知りたければ、創造主なる神のもとに帰るしかないのです。神の御手の中に握りしめられて、「私」というもののうちに秘められた本当の価値が明らかにされるのです。
80年代に映画『炎のランナー』が公開されました。1924年のパリ・オリンピックに出場した2人のスプリンターの実話に基づく物語です。ハロルドは裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、野心のために、エリックはスコットランドの宣教師の息子で「神の栄光のために走る」というそれぞれ対照的な目的がありました。2人はパリ・オリンピックの100メーター走決勝の舞台で最後の決着をつけるはずでしたが、叶いませんでした。予選が日曜日にあったため、エリックは出場を断念したからです。ところが、ある友人のはからいで400メーター走に出場し、エリックは世界新記録で優勝したのです。それは神に従った結果、彼自身も知らなかった本来の才能を見いだした瞬間でした。キリスト者は誰でも神に召されて生きるのです。召命は献身をもって応えるものです。行きたくないところへ行く……。その時、そこに輝かしい神の栄光が表わされるのです。