宣教局


Level1セミナーの内容の中から、より信徒が実践できるものを抽出し、コンパクトにお届けいたします。具体的に以下の2つを学びます。
①コーチング(愛をもって人に接する姿勢)②福音を周りに伝えるための4つのステップ(手順)

Level1を学んだ方々でT&Mを実施している方を対象のセミナーです。親教会から子教会、または外に増え広がるスモールグループの発展的な宣教の広がりを学びます。

T&Mで取り扱われている証しの方法、三つの円を用いた伝道、エバンジェキューブを用いた伝道、訪問伝道、帰納的聖書研究などについての実践的な学びと訓練を致します。どなたでも参加できます。


翼の陰に守られて
私を憐れんでください。神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまであなたの翼の陰に私は逃れます。(詩編57:2)
鉢植えの胡蝶蘭が咲き終わり、その枝を切って、室内で大切に育てていたのですが、私の気持ちとは反対に葉が萎れ、半分以上枯れてしまいました。
考えた末、教会庭の大木のへこんだ部分に、蘭の根を苔に包んだ状態にしてそのまま置いて、半ばあきらめながらも様子をみることにしました。夏は太陽が燦々と降り注ぎ、台風時期は強風や雨にさらされていく中で、もう枯れてしまったと思っていると、大木の葉の隙間から枝が2つに伸びてそれぞれに胡蝶蘭の花がきれいに咲いているのをみて、驚きました。そしてよく見ると、蘭のまわりを木々の葉が包み太陽の直射日光と雨風を遮り、また枯れかけていた葉の横から新しい芽が出て生き生きと成長し、きれいな花を咲かせていたのです。
このように、弱っている部分を他の木々が労り合うことで癒された植物が、美しい花を咲かせることができたのです。
私たちは相手との関係を大切に育てようと思いながらも、自分の思いとは反対に家族や隣人や職場や学校の中で互いの関係に誤解や亀裂が生じたり、また仕事の上で行き詰ったり、とそれぞれ日々の生活の中に問題や課題が生じてくることがあります。
人生の嵐と思えるような状況の中で私たちは悩んだり孤独を感じたり傷ついたり無力感に苛まれ、人生に希望を見い出せないような時もあります。しかし神さまは私たちを憐れんでくださり私たちに逃れの場を備えていてくださるのです。その逃れの場は神さまの翼の陰です。神さまは私たちの弱っている部分をその愛をもって包み癒してくださり、私たちはその愛に育まれ新たな力を蓄えることができるのです。
いま悩みの中におられるでしょうか。いろんなことで行き詰まりを感じてはいませんか。どうぞ教会にいらして、神さまの翼の陰に身をゆだねてみませんか。

教団委員(長)選挙を前にして

総務局長 佐藤信人
「聖霊と私たちは、……しました。」。
(使徒言行録15章28節)
来月行われる教団総会で、教団委員長及び教団委員の選挙が行われます。教職と信徒の代議員60名により、新たに9名が選ばれます。全国のすべての信徒の方々も、各教区において総会代議員を選出することにより、間接的にこの教団委員の選出に関わっています。
私はこの3月でその働きが終わりますが、この4年間、教団委員として求められる働きに対して、さまざまな面で足りないことを痛感させられました。自分なりに頑張ってきましたが、しばしば厳しいご指摘を受け、自分にはとても担えないと思うことが何度もありました。それでも、教団総会で選ばれたという事実の中に、主の御心があると信じ受け止めるがゆえに、働きを続けて参りました。
そのような中で思うことは、選ばれた側の献身が問われるだけでなく、選ぶ側の献身も同時に大切ではないか、ということです。2021年発行の教団の式文(改訂版)によりますと、教団委員長及び教団委員就任式では、選ばれた教団委員(長)だけが誓約を求められています。しかし、役員就任式の式文には、選ばれた役員と選んだ教会員と両方の誓約が記されています。これが教団においてもあるべき姿だと思います。すなわち、教団委員(長)就任式においても、役員就任式と同じように選ばれた側だけでなく、選んだ総会代議員も誓約を求められるのではないでしょうか。
私たちの教団が採用している監督制度というものは、選ばれた側と選んだ側の相互の献身によって成り立つものです。選ばれた側は、主によって選ばれたと受け止めて、その務めに献身します。選んだ側も、選んだ責任と献身をもって支え、協力します。この相互の献身がなければ成り立ちません。教団においても教会においても、使徒言行録15章にあるエルサレム会議の決定において表明されたように、双方が「聖霊とわたしたちとは……決めた」(口語訳)という信仰に立つことが求められます。
来月の教団総会で、私たちは新しく教団委員長及び教団委員を選出します。主が最もふさわしい方々を選んでくださるように深い祈りを持って備えるとともに、選んだ以上、私たちもそれらの方々を精一杯支えて行く、そのような教団でありたいと心から願います。


教会の「ゆ」
温泉が嬉しい寒い季節となりましたが、ここ飯坂も古くからの温泉地です。飯坂温泉の特徴は、効能もいろいろありますが、何と言ってもお湯が熱いこと。そのため、「地元のお客様へ」との張り紙があります。「温度が高く、観光客の方が困っているときは、43度位になるようご協力ください」。これでも熱いと思われるでしょうが、通常は47度なのですから、私のような初心者は数秒でアウトです。
九州のある教会を訪問しました時、近くの温泉に誘われました。冬の露天風呂、お湯が温めで湯船の外に出られませんでし た。だからこそのぼせることなく、一時間 ほどお湯の中でおしゃべりを続け、とても楽しい時間を過ごすことができました。
教会は温泉ではありませんが、それぞれに温度があります。もちろん、伝統的にホーリネス教会では熱くあることを求めました。でも、個人的なことを言うと、教会の温度はちょっと温めがちょうど良いな……と思っています。いやいや、「冷たいか熱いかであってほしい」と主イエスは言われたはずだ。だから熱くあるべきとお叱りを受けるかもしれませんね。
確かに黙示録3章には、「熱いか冷たいかであって欲しい。熱くもなく冷たくもなく、生温いので吐き出そう」と言われています。しかし、追い求めるべき理想的な姿として熱いか、冷たいかが語られているのではありません。問題は生温さの意味するところです。それは、目に見える豊かさに安住し、そのため自分の貧しさに気づかず、問題意識も、神への求めもない姿を表します。そのような人は、主イエスが必要を満たすために待っておられても気づかない。扉を叩いておられる主を、その人生に招き入れようとしない。この主イエスへの無関心さを生温さとするのです。
大切なことは人間的な熱心さで教会を測るのではなく、主イエスを中心とした交わりと、それによって与えられる豊かさに心向けることです。きっとその中で最も尊いものは赦しでしょう。それにより友人を得、夢を分かち合うことができる。そして、人生にゆとりが生まれ、さらに将来に進む勇気が湧き上がってくる。もう気づかれましたね。一度人れば出たくなくなるほど心地よいたくさんの「ゆ」が、教会とその交わりにはあります。このように教会の温度を実に心地よいものにしてくださるのが主イエスなのです。皆さんの教会の「ゆ」はいかがですか。
次年度、「来らんしょ、熱いお湯なら飯坂温泉、ちょっと温めな○○教会」なんて年間標語もいいなあと思うのです。