「ルール違反の安保法制」
~聖書から見て容認できないわけ

福音による和解委員会 根田祥一
 
 安全保障のあり方については、賛否さまざまの意見があります。私たちの教団は、そのどれかに政治的に与しようとはしていません。聖書の規範から、また戦時中に弾圧を受けたとともに侵略戦争に加担した責任を告白した立場から見て、容認することができないことに絞り込んで抗議をしました。それは、政府が国のルールを無視して自分のやりたいことを強行し、押し通したという点です。

 

 上に立つ権威に従う

 
 ローマ人への手紙13章に、「上に立つ権威に従うべきである」と書かれています。時代により国により文化により、上に立つ権威が何であるかは異なります。王であったり皇帝であったり、大統領や首相、一つの政党が権威を持つ場合もあるでしょう。しかし、上に立つ権威には、それを権威として立てた、さらに上の権威があります。聖書の文脈ではそれは神ですが、現実面でも、首相や国会議員らを立てている権威が何なのかということは
重要です。

 戦後の日本は法の支配に服する法治国家なので、憲法が国のルールを定める最高法規です。その憲法によれば、この国の主権(最高の権威)を有するのは首相でも天皇でもなく、国民であることが明示されています。その国民の総意によって憲法が成り立っており、その憲法の定めるところに従って議院内閣制の統治機構(立法府、行政府、司法府)が成り立っているのです。

 首相・閣僚をはじめとする政府は、憲法のルールのもとにあり、主権者である国民の付託によって、その責任を行使する立場にあります。だから「この国の首相は私だ」と言って、総理大臣といえども、法を無視してやりたい放題のことはできません。いやむしろ、為政者は憲法に従って政策を実行する義務を負っているのです。憲法は国民に課せられたものではなく、権力者が守らなければならない義務として課せられたルールなのです。これが立憲民主主義であり、法の支配に服する法治国家の本来のあり方です。
 
 また、私たち国民には「主権者」として、政府が間違った方向に行かないように見張り、選挙権を行使して、目先の利害によらずにふさわしい為政者を選ぶ責任が課せられているのです。政治を見張る任務を放棄することは、上記の聖句にも反することになります。


権限を超えた高ぶり

 
今回の安全保障関連法案の強行採決は、法治国家の大原則に明らかに違反しています。日本では、政府が憲法に違反しないかどうかを判断するために、首相や閣僚が勝手に憲法解釈を自分の都合の良いように変えて運用してしまうことのないように、政府の機構の中に内閣法制局が置かれています。集団的自衛権を行使して軍事力を自国の専守防衛以外に使うことは、日本国憲法の下ではできないと、歴代の内閣法制局は解釈してきました。

 今、政府がしていることは、この法治国としての規範を無視して集団的自衛権を容認し、世界のどこへでも自衛隊を派遣して、「後方支援」という名目で他国の戦争や紛争に加担できるようにすることです。このこと自体、憲法違反であり、為政者が自らを立てた権威に従うことをないがしろにしている点で、聖書にも反しています。
 
 その上、内閣法制局の人事に慣例を破って介入し、首相の考えに近い人を長官に任命するなど、何が何でも自己目的を達成するために、なりふり構わずルールよりも自らを上に置こうとする政治手法は、自己を絶対化する独裁の危険をはらむものです。これは限度を超えて高ぶってはならないと命じる聖書から見ても容認することはできません。為政者の高ぶりに警鐘をならすのは、キリスト者の預言的な務めです。


 教団もルールのもとに

 
 このような視点から、左記の抗議声明は書かれています。定められたルールに従うというこのことは、教団の統治や活動にも当てはまります。戦前のホーリネス教会は、一人の監督が物事を決められる監督制でした。しかし、戦後は集団監督制に移行し、選挙で選ばれた教団委員会が合議によって監督権を行使するシステムになっています。この抗議声明も、教団内の一部のグループや個人が勝手に出したものではなく、教団の責任においてルールに従い手続きを踏んで発表しています。そのルールについては、教団ホームページの「日本ホーリネス教団が政府等に声明を発表する際のガイドライン」をご覧ください。
 

(2015年9月「りばいばる」誌)