解釈改憲と聖書「権威の下に生きる」

 和解委員会委員・根田祥一
 
 昨年末に国民世論の反対を押し切って「特定秘密保護法」可決を強行した安倍晋三首相は、続いて国際世論の批判をも無視して靖国神社に参拝しました。その後さらに、自国への誇りをもたせる教育という自らの信念を教科書検定基準に反映させることを求めるなど、強引な政権運営に世論も懸念を示しています。

 4月1日には、長年わが国の不文律だった武器禁輸三原則の撤廃を閣議決定し、政府自身が「憲法9条の下では認められない」と言い続けてきた集団的自衛権の解釈をも容認へと変更しようとしています。このような政治手法を、聖書信仰の立場からどう考えるべきでしょうか。

 聖書は、為政者を神の許しの下に立てられた存在と見ています(ローマ13:1)。そのことは同時に、たとえ国の最高指導者であっても、何でも自分の思いどおりにしてよいわけではないことをも示しています。立てられた者は、彼を立てた権威の下にあるのです。ですから、彼を為政者足らしめている権威によって定められた規範(ルール)に反する政策を、自分の好き勝手に行うことは許されていないのです。そして私たちキリスト者は、この国の為政者が神の御心に添った判断をするように祈る責任を負っているのです。

 旧約聖書には、イスラエルの初代の王サウルが、彼を立てた権威である神の定めに反して、自分には権限がない祭司の務めを勝手に代行し実施したことにより、王の職務を剥奪されたことが記されています(サムエル上15:26)。新約聖書でも、主イエスが、律法学者やパリサイ人が神の定めた律法に自分勝手な解釈を付け加えて変質させ、それをもって人々を苦しめていたことを嘆き、厳しく糾弾しています。

 日本国憲法が第9条で明確に禁じている武力行使による紛争解決という手段を、勝手な解釈を施して「できる」と強弁することは、国民の信託に基づき自らを首相の立場に就けた憲法の権威を否定することになります。

 和解委員会は、政府自民党が推し進めている「憲法改正」の動きについて、日本国憲法の基本原則である国民主権・基本的人権・平和主義を変質させ、国のあり方を根本から覆す危険があると警鐘を鳴らしてきました。最近の安倍政権の手法は、その改憲さえ待たず、解釈の変更によって実質的に憲法そのものを骨抜きにしようとするもので到底容認できません。

 国会の審議で、集団的自衛権の憲法解釈について、議長が内閣法制局長官に答弁を求めたのに対し、安倍首相は色めき立ってそれを制し、「私がこの国の最高責任者なんです。内閣法制局長官じゃない」と、自分が憲法解釈の権限を握っているかのような発言をしました。これは、たとえ最高責任者である首相であっても、閣僚も官僚も公務員も、権力者はみな憲法によって縛られるという立憲主義の根本を理解していない、あるいは無視する、高ぶり以外の何ものでもありません。

 そのような為政者に対して私たちがすべきことは何でしょうか。祭司また預言者の務めを託されたキリスト者は、上に立てられた人物が高慢を砕かれ、悔い改めて分をわきまえた職務遂行をするように、執り成しの祈りを捧げる(Ⅰテモ2:1~3)とともに警告を発する責務を負っているのです。
(2014年5月「りばいばる」誌)