胎児から成人までの一貫した教案誌 個人的な学び・家庭集会にも最適

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 このコーナーは聖書の光の子どもデボーション (子どもだけでなくてもいいのですけれど…)のページをそのまま載せてあります。自由にコピーしてフリガナをつけたり、文字の大きさを変えたり、言い方を変えたり、 みなさんのクラスの子どもたちに合わせてアレンジして使ってください。

 悩みや不安がある時、人に話したり、どうやって乗り越えようか考えたりします。でも何よりもお祈りがいちばんの力と助けです。

3月30日(日)マタイ二六36〜38

 イエスさまは三人の弟子の前で苦しみ悩みはじめられました。そして「共に目を覚まして祈ってほしい」と言われました。イエスさまはこれからやってくる苦しみに向かうために祈られました。そして一緒に祈ってくれる人がいることもイエスさまには支えでした。祈らないではいられない中をイエスさまは通られました。

3月31日(月)マタイ二六39

 イエスさまは「できることならこの杯を過ぎ去らせてください」と祈られました。でも「御心のままに」と」自分の思いより神さまの思いをしてくださいと祈られました。イエスさまも戦っていたのです。イエスさまも苦しみの十字架に向かうために、自分の思いを通さないために祈られました。

4月1日(火)マタイ二六40〜41

 どんな時もイエスさまに従うと覚悟を決めていた弟子たちでしたが、覚悟の通りにするならば祈らなければできないことです。悪魔の誘惑はいつも弟子たちをイエスさまから引き離そうとするからです。けれども覚悟とは反対に彼らは少しもイエスさまと共に祈ることができませんでした。

4月2日(水)マタイ二六42

 イエスさまの2度目の祈りは「この杯を過ぎ去らせてください」ではなく、「私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心のままに」と祈られました。神さまの思いがわかっていても、それを受け入れられない時、イエスさまは何度も祈られました。

4月3日(木)マタイ二六

 残念ながら弟子たちは眠っていました。イエスさまの苦しみ悩む姿を見ても、イエスさまを思いやることはできませんでした。神さま、私たちは、本当に人のこともイエスさまのことを思うことができず、自分のことばかりです。人のことを本当に思いやる心を与えてください。

4月4日(金)マタイ二六43〜44

 イエスさまは寂しさの中で、もう一度神さまにお祈りしました。祈りを通して、十字架の苦しみの杯を飲む覚悟をして立ち上がられました。お祈りが私たちの確かな力であるのは、悩み苦しみがなくなるからではありません。神さまを信頼して任せることができるからです。

4月5日(土)マタイ二六45〜46

 イエスさまは弟子たちを起こして言われました。「目を覚ましなさい。私が十字架にかけられる時が来た。」そしてご自分をとらえようとする人々の方へ向かわれました。イエスさまは、人々の悪巧みによって十字架にかけられるのですが、神さまの計画に従って、ご自分から十字架につけられました。

 新しい学年になりました。ワクワクしていますか?新年度の歩みの上に神さまの祝福が豊かにありますように。

4月6日(日)マタイ二六47〜49

 弟子たちにはユダの裏切りがとてもショックでした。ユダが連れてきた人々は剣や棒を持っていました。イエスさまが逃げ出したり、暴れたりしないように武器を持ってきたのです。弟子たちの心臓はドキドキし、どうなってしまうのかと恐れと不安でいっぱいになりました。

4月7日(月)マタイ二六47〜49 

あいさつのキスは親しい気持ちを込めたものです。でもユダのキスは、イエスさまを捕まえる合図でした。裏切られることはとても悲しいことです。でも裏切ってしまうことはもっと悲しいことです。取り返しのつかないことをしたと思い、きっと後悔するからです。それでもイエスさまは、ユダが悔い改めるのを待っておられました。

4月8日(火)マタイ二六50

イエスさまはユダを「友よ」と呼びました。イエスさまは心からそう思っていました。自分を裏切ったユダを、イエスさまは愛することもゆるすこともやめなかったのです。ユダの心がズキッとなりました。でももう後戻りはできません。イエスさまは逮捕されてしまいました。

4月9日(水)マタイ二六51〜52

弟子の一人がイエスさまを捕まえにきた人の耳を切り落としてしまいました。イエスさまが逮捕されて、弟子たちはどうしていいかわかりませんでした。ただ怖くてたまりませんでした。だからなんとかしてイエスさまを助けようとしたのです。でも剣では恐れをなくしたり、イエスさまの逮捕を止めたりはできませんでした。

4月10日(木)マタイ二六53〜54

本当は、イエスさまにはとても強い天使の軍団が味方についているのです。それを呼べば、人々はあっという間に抑えられてしまいます。でもイエスさまはそれをしないで、自分から逮捕されるために進みでられました。これは聖書に書かれた神さまの計画でした。だからそれに従われたのです。

4月11日(金)マタイ二六55〜56

イエスさまを捕まえにきた人たちは武器を持っていました。イエスさまが恐ろしかったのです。でもイエスさまは恐ろしい人ですか?そんなことはありません。なぜなら、イエスさまは私たちが救われるために、自分の命を進んで差し出してくださるお方だからです。

4月12日(土)マタイ二六55〜56

 弟子たちはみんな逃げて行きました。自分たちも逮捕されるのが怖かったのです。イエスさまが「あなた方は今夜つまずく」と言われた通りでした。でもその言葉には続きがあります。イエスさまは復活し、ガリラヤで彼らを待っておられるのです。

 今週の金曜日はちょうどイエスさまが十字架にかけられた日です。そして今週はイエスさまが苦しみ受けられた週として受難週といいます。

4月13日(日)マタイ二七32〜36

 兵士たちは、イエスさまが真の王だとも、神の子だとも知りません。だから馬鹿にしました。悪いことをした人だから、その罰を受けてもしょうがないと思いました。イエスさまを十字架につけて服をくじ引きで分け合っても、自分には関係ない人でした。でもイエスさまは兵士たちのためにも死なれたのです。

4月14日(月)マタイ二七37〜38

イエスさまの十字架にかけられる理由は「ユダヤ人の王」でした。イエスさまを十字架につけた人たちは、「自分のことをユダヤ人の王と言ってウソをついた人」にしたかったのです。でもイエスさまは本当にユダヤ人の王として、救い主として死んでくださいました。私たちの罪を全て引き受けて罪人となってくださいました。

4月15日(火)マタイ二七39〜44

「神の子なら十字架かから降りてみろ。そうしたら信じてやろう。」多くの人がこの言葉でイエスさまをののしりました。「神の子ならその力を見せてみろ」と悪魔が人々を通してイエスさまを誘惑していました。悪魔はイエスさまの十字架を失敗させたかったのです。私たちを救われないようにするためです。

4月16日(水)マタイ二七45〜49

イエスさまが叫ぶ言葉を聞いた兵士たちは、暗くなった天からイエスさまを救うためのすごいこと起こるかもしれないと、面白半分に構えていました。でもイエスさまは神の子なのに、本当に神さまに見捨てられました。罪ある私たちが見捨てられないようにしてくださったのです。

4月17日(木)マタイ二七50〜54

イエスさまはついに死んでしまわれました。イエスさまを救う奇跡は起こりませんでしたが、死んだ後に次々と不思議なことが起こりました。イエスさまを散々バカにしていた百人隊長と兵士たちは、そこでイエスさまが本当に神の子だったと知りました。

4月18日(金)マタイ二七55〜56

イエスさまを最後まで見届けていたのは女弟子たちでした。イエスさまの死んでいかれる姿に、どんなに心がつらく悲しかったことでしょう。死んだことが大きくて、イエスさまが復活されるといわれた言葉を思い出すことはできませんでした。

4月19日(土)マタイ二七57〜61

 アリマタヤのヨセフが、イエスさまの体を自分のお墓におさめました。二人のマリアがしばらくそこに残りました。イエスさまがしてくださったことを思い出しては悲しみがあふれました。ここに新しい希望が始まっていることはだれも想像できませんでした。

 イースターおめでとうございます。イエスさまが死から復活されました。復活は私たちの希望です。イエスさまを信じるなら、私たちも死んでも終わりではありません。

4月20日(日)マタイ二七62〜66

 イエスさまを十字架につけた人たちはイエスさまが言っていた復活の言葉を覚えていました。でも復活すると思ったのではなく、弟子たちが死体を盗み出して、そう言いふらすかもしれないと思いました。神さま、あなたの言葉を正しく聞いて、信じることができますように、助けてください。

4月21日(月)マタイ二八1〜4

天使がお墓の入り口を塞ぐ石を転がしてその上に座ったので、地震が起こりました。思いがけない出来事に、ちょうどやってきた二人のマリアは驚きました。お墓を見張っていた番兵は恐ろしさのあまり死人のようになりました。でも天使は、信じる人にとっては恐れが喜びに変わるすばらしい知らせを伝えにきたのです。

4月22日(火)マタイ二八5〜6

天使は、イエスさまが前から言われていた通り復活された、と言いました。だからもうお墓にはおられないのです。お墓は空っぽなのです。もう悲しむ必要はありません。

4月23日(水)マタイ二八7〜8

天使は二人のマリアに「イエスさまは復活された。ガリラヤで待っておられる。」と急いで弟子たちに知らせなさいと言いました。イエスさまは生きておられるのです。そしてまたお会いできるのです。女たちはうれしくてたまりません。早くみんなに伝えたいと走り出しました。

4月24日(木)マタイ二八9〜10

イエスさまが二人のマリアの走っている先に立っておられました。イエスさまは「私はガリラヤで持っている。」と言われました。ガリラヤはイエスさまと弟子たちが出会い、一緒に活動した場所です。イエスさまは、逃げてしまった弟子たちを待っておられました。もう一度そこから始まるのです。

4月25日(金)マタイ二八11〜15

番兵たちはイエスさまを十字架につけた人たちにこのことを報告しました。でも番兵たちの話を聞いても、彼らはイエスさまの復活を信じませんでした。そして弟子たちが死体を運び出したとウソの噂を流したのです。イエスさまを受け入れられない心は何を見ても、何を聞いても、受け取ることができないのです。

4月26日(土)マタイ二八16〜20

イエスさまは、「すべての人を私の弟子にしなさい。」と言われました。イエスさまを信じて救われたら、イエスさまの弟子です。神の国の仲間です。イエスさまは、信じる私たちにイエスさまを伝える力を与えてくださいます。そして世の終わりまでいつも一緒にいてくださるのです。

 神さまを信じていても苦しいことや、悲しいこと、辛いことは起こります。お祈りしたのにどうして、と思うこともあるのです。

4月27日(日)ヨブ一1〜5

 ヨブはたくさんの家畜や財産を持っていましたが、それに頼ることはしませんでした。彼は礼拝を大切にし、自分のことだけでなく家族が神さまに悪いことを考えたかもしれないと、子どもたちのための悔い改めをお祈りしていました。ヨブはまっすぐに神さまを信じていました。

4月28日(月)ヨブ一6〜11

サタンは、ヨブが神さまをまっすぐ信じているのは、神さまからたくさんのものをいただいているからだと言いました。もし持っているものがみんな無くなったら、きっと神さまのことを恨んで信じなくなると言いました。確かにサタンは私たちの心の弱さをうまく言い当てています。どうぞ私たちに辛いことがたくさんやってきても、神さまをのろうのではなく、もっと信じて頼れますように。

4月29日(火)ヨブ一12〜19

サタンはヨブを試そうとして次々と悲しいことを起こしました。外国人が襲ってきて、牛や畑、めろば、羊、ラクダが奪われ、面倒を見ていた若者たちは殺されてしまいました。何よりもひどいのは、息子七人、娘三人が全員事故で死んでしまったことです。私たちは持っているものがなくなるのが怖いです。それに一度に家族を失ったら、とても受け入れられません。だからサタンはそういう心を狙って罪を犯させようとしたのです。

4月30日(水)ヨブ一20〜22

ヨブは神さまに文句を言いませんでした。それどころか「私は何にも持たないで生まれた。すべてのものは神さまからいただいた。神さまがそれを取られてもそれは神さまのもの。神さまがほめたたえられますように。」と言いました。悲しくなかったのでも辛くなかったのでもありません。神さまは良いお方だと信じることをやめなかったのです。

5月1日(木)ヨブ二1〜6

サタンは神さまに挑戦することをあきらめませんでした。今度は直接ヨブの体に苦しみを与えるというのです。病気は私たちの心を弱らせるからです。でも神さまも、ヨブを信じておられました。

5月2日(金)ヨブ二7〜9

 ヨブの体は病気でひどく苦しめられました。体がかゆくてかきむしって座り込む姿はとてもみじめでした。妻にとっても辛くてたまらなかったのです。神さま、これを耐えるのは難しいです。どうぞヨブのように私たちを支えてください。

5月3日(土)ヨブ二10

ヨブは神さまが自分に与えることをゆるしたことは、うれしいことも、辛いことも受け入れました。サタンが神さまに勝つことはできませんでした。

 本当に苦しんでいる人を慰めることは難しいことです。私たちが黙ってその人のそばに一緒にいられますように。

5月4日(日)ヨブ二11〜13

 三人の友だちが見たヨブの姿は想像を超えていました。あまりにも辛く苦しく痛々しかったので、声をあげて泣きました。なんと言って慰めたらいいかわかりませんでした。ただ七日間、ヨブと一緒に座っているしかありませんでした。でもそれがヨブを支えました。

5月5日(月)ヨブ三1〜26

それまで自分が受けた苦しみを受け入れていたヨブでしたが、あまりの苦しさに、自分は生まれてこない方が良かったと言いました。希望が見えなくなってしまいました。神さま、なぜですか。どうしてですか。という気持ちがあふれ出しました。私たちもそういう時は神さまに聞いていいのです。神さま、なぜですかと。

5月6日(火)ヨブ四7〜11

ヨブの友人たちは、ヨブがこのような辛い目にあっているのは、神さまに罪を犯したからだと言い出しました。慰めるはずが、ヨブに「自分が悪かった」とわからせようとするようになりました。でもヨブが悪かったから苦しんでいるのではありません。むしろ神さまがサタンに、ヨブを苦しめることをゆるしたから起こっているのです。

5月7日(水)ヨブ十九1〜27

ヨブには思い当たる罪がありませんでした。「あなたが悪いはずだ」と言う友だちの言葉はさらにヨブを苦しめました。神さまは正しいお方なので、苦しいことが起こったのは、その人が何か悪かったからではないかと考える人が多くいます。でもだれかの罪や悪のせいではない苦しみもあるのです。

5月8日(木)ヨブ三八1〜15

神さまの前に正しく生きていると思っていたのに、どうしてですかとヨブは言い続けました。神さまはそれにはお答えになりませんでした。ただこの世界を造り、何もかもご存じの神さまのなさることを、だれもわかりきることはできないと言われました。人が、自分は悪くないとしたら悪いのは神さまだと思う心は間違っていると言われました。

5月9日(金)ヨブ四二1〜6

 ヨブは神さまの言葉を聞いた時、神さまの偉大さに圧倒されてしまいまいました。そして神さまがなさることを何もかもわかるわけではないことを知りました。神さまの前に小さな自分を知り悔い改めました。

5月10日(土)ヨブ四二7〜16

神さまはヨブの友人たちにも悔い改めるように語られました。彼らも正しくなかったからです。神さまはすべてをなくしたヨブに、今まで持っていたより、もっと多くの財産と子どもたちを与えられました。どん底で終わらない神さまの回復の恵みがありました。

 ナオミはヨブのように愛する家族が次々と死んでしまう悲しみを経験した人です。でも神さまは、ナオミをひとりぼっちにしませんでした。

5月11日(日)ルツ一1〜5

 ナオミは夫が死んでしまって寂しかったでしょう。それでも息子たちが大きくなって結婚して、これから家族も増えていくことを楽しみにしていました。ところが二人の息子たちも死んでしまいました。悲しくてたまりませんでした。でもナオミは一人でありませんでした。二人のお嫁さんがともにいました。

5月12日(月)ルツ一6〜7

ナオミは二人のお嫁さんを連れて、ベツレヘムに帰ることにしました。神さまが飢饉を終わらせてくださったのです。イスラエルは、食べ物がたくさん実り、希望にあふれていました。だから二人のお嫁さんとともに神さまの祝福を喜びたいと思いました。

5月13日(火)ルツ一8〜10

けれども、まだ若い二人はまた別の人と結婚できるかもしれません。そこでナオミは二人と別れて一人で帰ることにしました。ナオミは二人のためにお祈りしました。「神さま、二人がまた結婚できるように良い相手を与えてください。」ナオミは二人が夫を亡くして悲しんでいる気持ちが慰められてほしいと願いました。夫を亡くした悲しみをナオミはよく知っていたからです。

5月14日(水)ルツ一11〜14

嫁のオルパもルツも、ナオミから離れたいとは思いませんでした。いつまでも一緒にいたいと思いました。でもナオミの言葉に、オルパは自分の家に帰っていきました。ルツは残りました。抱きついて離れませんでした。ナオミが考える幸せではなく、ナオミと一緒の幸せをルツは選びました。

5月15日(木)ルツ一15〜18

二人の嫁はモアブ人で、ナオミはイスラエル人です。そしてモアブ人にはモアブ人が信じる神さまがいました。でもルツはナオミと一緒に生きることを決心していました。だからイスラエル人と一緒に生きること、イスラエルの神さまを信じることを決心しました。

5月16日(金)ルツ一19〜21

 ベツレヘムに帰ると、町の人たちはナオミが帰ったことを喜びました。でもナオミはもう「楽しみ」という意味の名前で呼ばれることがうれしくありませんでした。「神さまが私の家族をとりあげられた。私は神さまに痛めつけられ、苦しめられた。」と深く悲しんでいたからです。神さま、あなたに苦しめられたと思って悲しんでいる人にどうぞ本当の慰めを与えてください。

5月17日(土)ルツ一21〜22

何も持たないで帰ったと思うナオミでしたが、ルツがいました。そして刈り入れの始まった頃に帰ったことも、神さまの恵みのタイミングでした。

 神さまは、ナオミとともに神さまを信じて生きると言ったルツに、祝福と新しい出会いを与えてくださいました。

5月18日(日)ルツニ1〜3

 ルツは麦の刈り入れをしている畑に行きました。集めた麦の束から落ちた麦の穂は拾ってそれをもらうことができました。そこでルツは刈る人たちの後について、落ちた穂を拾い集めました。たくさんある畑の中で、ルツにとってはたまたま入った畑でしたが、神さまはナオミの親戚ボアズの畑に導いてくださいました。

5月19日(月)ルツニ4〜7

畑の主人ボアズは知らない女の人が畑にいるのに気づきました。ボアズは、畑の収穫のリーダーに、ルツがどんな人かを聞きました。するとルツは外国人で、ナオミの息子のお嫁さんで、ナオミのために朝からよく働いている人だと聞きました。ナオミのために一生懸命働く姿は、周りの人からも喜ばれました。

5月20日(火)ルツニ8〜10

 ボアズはルツにとても親切な言葉を語りました。他の畑に行かないで、ボアズの畑でずっと落穂を拾っていいし、いじめられたり邪魔されたりすることなく働けるのです。水もボアズの僕たちと同じように自由に飲んでいいと言われました。ルツはこんなに親切にしてもらえることが不思議でした。神さまがルツのことを、ボアズを通して祝福し、守ってくださっていることがまだ分かりませんでした。

5月21日(水)ルツニ11〜13

ボアズはルツを心から祝福しました。彼女は、自分がボアズと会ったばかりの見知らぬ外国人なのに、とてもよくしてもらって驚くばかりでした。神さまの恵みも同じです。私たちがこんなによくしてもらえるのはなぜですか?と思うほどに、神さまは私たちを祝福したい、よくしてあげたいと思ってくださっています。

5月22日(木)ルツニ14〜16

ボアズの親切は言葉だけではありませんでした。一緒にお昼ご飯を食べようと誘い、お腹いっぱい食べられるように食べ物を分けてあげました。また午後の落穂拾いも、たくさん拾えるように、僕たちにわざと落とさせました。彼女のすることをだれも文句を言わないようにしました。貧しいルツのためにボアズはできることを惜しみませんでした。

5月23日(金)ルツニ17〜20

 ナオミはルツの話を聞いて、親切にしてくれたボアズの祝福を祈りました。私たちも自分によくしてくれた人への感謝を忘れないでいられますように。

5月24日(土)ルツニ20〜23

ナオミはルツが、これからも親戚のボアズの言う通り、彼の畑で落穂を拾うのが良いとルツを励ましました。ルツはボアズとナオミの言う通りにしました。二人は食べ物に困らず生活できました。

 神さまは、信じますと神さまのところにきた人の人生を、どこまでも共にいて面倒見てくださいます。

5月25日(日)ルツ三1〜6

 ナオミは、ワクワクしていました。ルツはボアズと結婚するのがいいに違いないと思ったからです。そこでルツにボアズのところに行って、結婚してくださいと言うようにと伝えました。ルツはどんな気持ちだったでしょうか。いつも優しく親切で惜しみなく支えてくれるボアズに感謝していたでしょう。何よりも大好きなナオミが勧めることです。彼女の言うことを信頼して、言う通りにしました。

5月26日(月)ルツ三7〜13

目を覚ましたボアズに、ルツは「あなたの衣の裾で私を覆ってください。私たちの家を継ぐ子を残せるように、私と結婚して私たちを助けてください」と言いました。ボアズはルツの言葉をうれしく思いました。そして「私よりももっとあなた方に近い親戚の人がいます。その人が親戚としての役割を私に任せると言ったら、私は喜んであなたと結婚し、親戚としての役割を果たしましょう。」と答えました。二人の出会いには神さまの計画があったのです。

5月27日(火)ルツ三14〜18

 ボアズはルツにたくさんのお土産を背負わせて、人に会わないうちに家に返しました。ナオミはルツがたくさんのお土産をもらったことや、ルツの言葉を喜んだことを聞いて、うまく行ったことを喜びました。ナオミはボアズが早く決着を付けたがっている様子を想像してまたうれしく思いました。ベツレヘムに帰ってきた時には考えられない恵みでした。

5月28日(水)ルツ四1〜10

一番近い親戚の人が、ボアズに親戚の役割を任せますと言いました。そこで、町のリーダーたちの前で、ボアズは、ナオミの失った畑を買い戻し、ルツと結婚して二人の面倒を見ることを約束しました。神さまの助けの中で、三人の願いが導かれました。

5月29日(木)ルツ四11〜12

町のリーダーは、ボアズがナオミとルツの面倒を見る人になったことを認めました。そしてボアズとルツの結婚を祝福しました。ルツ記は祝福の言葉がよく出てきます。私たちもいつもだれかの祝福をお祈りしていけますように。

5月30日(金)ルツ四13〜17

ボアズとルツを通して、ナオミは家を継ぐ子どもが与えられました。ナオミの女友だちは神さまをほめたたえました。嘆いていたナオミが生き返る喜びが与えられたと。私たちも神さまに感謝と賛美をささげることを忘れませんように。

5月31日(土)ルツ四18〜22

ボアズのお母さんもルツも外国人でした。でも二人とも神さまを信じました。二人の子孫としてダビデとイエスさまが生まれました。

 私たちは、いつも楽しい気持ちばかりでなく、時には何をやってもつまらないなあと思うことがあるかもしれません。こんなことをやって、なんになるんだろうと思うこともあるかもしれません。そういう空しいと思う気持ちを私たちは感じることがあるのです。

6月1日(日)コヘレト三1

 すべてのことにはちょうど良い「時」があります。まだ赤ちゃんなのに、いきなり学校に行って勉強はしないでしょう。またある本を、前に読んだ時はとくにおもしろく感じなかったのに、今回読んだらすごく興味深く読めた、なんてこともあります。自分にとってはその時がその本を読む時だったのでしょう。神さまは、私たちにふさわしい時を導いてくださっているのです。

6月2日(月)コヘレト三2〜8

時があるというのは、私たちが決める時ではありません。時を決めるのは神さまです。私たちにとってはたまたまとか、偶然に思えても、神さまが知らないで起こることはないのです。私たちが、今こうなったらいいのにと思う時と、神さまが思う時が違うことがあります。でも後で神さまが決めた時で良かったと思うこともよくあるものです。

6月3日(火)コヘレト三9〜11

 神さまはどうして私をこんな目にあわせるのかな?ということがあるかもしれません。それに何もかも理由がわかって納得できるとは限らないのです。天国に行くまでわからないまま、ということもあるでしょう。でも大事なのは、神さまを信頼することをやめないことなのです。

6月4日(水)コヘレト三12〜13

神さまは、私たちが苦しんだり悲しんだりすることがあっても、喜んで満足して幸せを感じて生きられるようにしてくださっています。食べるもの、共に生きる仲間、苦労を乗り越える力など、私たちの必要をいつも与えてくださっています。

6月5日(木)コヘレト三14〜15

神さまは私たち人間のように、コロコロと心を変えていいかげんなことをすることはないお方です。そして神さまの計画や考えに対して、私たちが何か足したり、引いたりもできません。私たちを超えた力あるお方で、それなのに私たちを見捨てないお方です。だから私たちは神さまをおそれ敬って生きるのです。

6月6日(金)コヘレト三16〜17

人が人をいいとか悪いとか判断することが裁くことです。でも私たちには人を正しく裁くのはとても難しいことです。本当に何が正しいか、そうでないかを裁くことのできるのは神さまだからです。

6月7日(土)コヘレト三18〜22

神さま、いつか自分も死ぬ時がくることを忘れないで、神さまからいただいたものを生かして生きることができますように。

 今日は教会の誕生日です。たくさんの人がイエスさまを救い主として信じて、イエスさまを信じる群れになった日です。

6月8日(日)使徒二1〜4

 120人の弟子たちの上に聖霊が降りました。この時聖霊は大きな音と共に目に見える炎のような舌の姿で一人一人に上にとどまりました。すると弟子たちは習ったこともないのに、外国語で伝え始めました。祈っていた弟子たちみんなが聖霊の力を受けたからです。祈り待ち望んでいた人で受けられなかった人はいませんでした。信じる人はみんな聖霊をいただけるのです。

6月9日(月)使徒二5〜13

あまりの大きな音に何があったのかと大勢の人が弟子たちのところに集まりました。みんなが驚いたのは、弟子たちがいろいろな国の言葉でイエスさまの救いについて話していたことです。でも認めたくない人たちは、酔っ払っているだけだと意地悪なことを言いました。もちろん酔っ払っているのではありません。聖霊の力はイエスさまを伝えるために、人々の心に一番届くふるさとの言葉で語らせていたのです。

6月10日(火)使徒二14〜21

 ペトロたちは言いました。「みんなが不思議に思っているこの出来事は、聖書に書いてある預言者ヨエルの言葉の実現です。」神さまがヨエルを通して語られた約束は、すべての人に神さまの霊が注がれる日がくることでした。そして本当に、祈っていた弟子たちが、若いとか、歳をとっているとか、男とか、女とか関係なく聖霊をいただいたのです。

6月11日(水)使徒二22〜24

イエスさまはユダヤ人によって十字架で殺されました。でもそれは神さまの計画でした。そして神さまはイエスさまを死から復活させられました。神の子が死んだままでいることがありえないことだからです。死に勝つ救い主だからです。

6月12日(木)使徒二25〜31

イスラエルの偉大な王ダビデも死にました。そして彼は今も死んだままです。でも彼は、自分の子孫に生まれてくる救い主は、死んだままではなく復活すると信じて、そう預言しました。ダビデの預言の通りになりました。

6月13日(金)使徒二32〜36

ペトロたちはイエスさまが復活したことを見た証人です。ヨエルの預言が実現したように、イエスさまの復活も実現し、イエスさまは救い主として神さまの隣におられます。

6月14日(土)使徒二18〜22

多くの人が、自分たちは取り返しのつかないことをしてしまったとショックを受けました。でもイエスさまはそういう取り返しのつかない罪から救うために死んで復活されたのです。だから罪を悔い改めてイエスさまを信じ洗礼を受けるなら、だれでも罪がゆるされるのです。

 箴言は、私たちが生きていくための神さまが教えてくださった知恵がたくさん書かれた書物です。

6月15日(日)箴言三1〜4

 神さまは、御言葉をいつも思い出して、その言葉を行なって生きるようにと言われます。なぜなら、神さまの言葉は、私たちがどうしたら人と一緒に生きていきていけるのかを教えてくれるからです。そして人と平和に生きる力を与え、神さまの言葉に従って本当に良かったという結果を与えてくださいます。

6月16日(月)箴言三5〜6

 私たちは特に困ったこともなく、問題のない毎日だと、神さまにあまりお祈りしなくなったり、頼ることを忘れたりすることがあります。でもどんな時も聖書の言葉を聞くことや、お祈りすることを大切にして神さまに頼ることを忘れないでいたいものです。それが私たちを必ず救うからです。神さまにいつも頼りながら歩めますように。

6月17日(火)箴言三7〜8

 どんなに頭が良い人でも、神さまのすばらしい知恵にはかないません。でも私たちはそれを忘れてしまい、神さまに対してどこか偉そうになっていることがあります。だから私たちが、偉大な神さまの前にへりくだって生きることができますように。

6月18日(水)箴言三9〜10

神さまが私たちに命を与えてくださいました。そして毎日生きるための必要をくださっています。だから私たちも神さまに感謝のささげものをするなら、神さまはとても喜んでくださいます。礼拝もお祈りも、歌の賛美も献金も、感謝のささげものです。私のできるささげもので神さまへ感謝できますように。

6月19日(木)箴言三11〜12

神さまは私たちを成長させるために、時には私たちにつらいことや苦しいことを経験させます。そんなの嫌だなあと思います。それにつらい時間は早く終わってほしいのに長く続くと、「神さまどうしてですか」と思うこともあります。でも乗り越えた時、神さまの愛がもっとわかるようにされるのです。

6月20日(金)箴言三13〜18

私たちにとって知恵があるのは、頭のいいことだと思います。でも聖書がいう知恵は、神さまのことです。神さまが何よりも優れた考えや知識を持っておられるからです。神さまを信じて頼るなら、神さまは私たちが生きるために必要なことをすべて十分に与えてくださいます。だから何を持つよりも、神さまを信じることは一番の力です。

6月21日(土)箴言三19〜20

神さまが造られたこの世界はとてもよくできています。いらないものはないし、それぞれがあることで生かし合っています。この世界を見るときに、神さまの知恵がどんなにすばらしいかを私たちは知ることができます。

 幸せってなんでしょう。私たちが考える幸せと聖書が言う幸せは同じかな?違うかな?

6月22日(日)詩編一1〜3

 聖書は悪魔と手を組まない人は幸せだと言います。でも私たちが御言葉を聞いていないと、気づかないうちに悪魔と手を組んで神さまに逆らってしまいます。自分勝手で自分の得することばかりほしがってしまいます。自分よりできないと思う人に対して威張ったり見下したりするのを普通に感じているかもしれません。そういう自分のことばかりで、人を思いやることができない生き方は幸せではありません。

6月23日(月)詩編一1〜3

 主の教えは、神さまの言葉、聖書の言葉です。あなたはどんな言葉を覚えていますか。「神はあなたを愛している」「あなたの罪は赦された」「赦し合いなさい」「愛し合いなさい」「あなたがたは神の子です」「光の子です」神さま、あなたの言葉を思い出し、それを行なっていけるよう助けてください。

6月24日(火)詩編一1〜3

 礼拝で聖書のお話を聞いて、自分でも御言葉を覚えたりてしていると、神さまのことをもっと知るようになります。ある時は神さまの愛に感動し感謝でいっぱいになることがあります。そうすると人のことを大切にしたくなります。そんなふうにして御言葉で心が豊かにされ実を結ぶように導いていただけます。

6月25日(水)詩編一1〜3

 「実を結ぶ」「葉が枯れない」「行いがすべて栄える(別の訳『うまくいく』)」どの言葉も、すばらしい神さまの約束です。でもそれは失敗を全然しなくなるとか、悪いことが何も起こらないということではないのです。悲しいこと、苦しいこともあり、失敗もあるけど希望があるのです。やり直していけるのです。神さまが乗り越えさせてくださるのです。

6月26日(木)詩編一1〜3

忘れてはいけないのは「時がくれば」という言葉です。神さまの言葉を信じてきたけれど変わらないと思うことがあります。苦しい時はいつまで続くのかとも思います。お祈りはいつ聞かれるのだろうと待たされることもあります。でも神さまの考えた時がくれば、実を結ばせてくださいます。

6月27日(金)詩編一4〜6

私たちは神さまから離れたままでは、罪が裁かれて滅びるしかありません。でもイエスさまが私たちのために十字架で裁かれてくださいました。神さま、本当なら籾殻のように吹き飛ばされて終わる私を救ってくださりありがとうございます。

6月28日(土)詩編一4〜6

神さまが「知っている」とは、いつも心にかけてくださっているということです。神さまに頼る者たちを大切に世話して、正しい道へ導いてくださいます。

 小学校5年生の時、夏のキャンプで詩編第二三編をグループのみんなと覚えました。私にとってこの御言葉が、イエスさまを信じて洗礼を決心する御言葉になりました。

6月29日(日)詩編二三1

 この詩はダビデの詩です。ダビデは羊飼いでした。だから良い羊飼いがどんなに羊を思って、世話をしているかを知っていました。そしてダビデにとって神さまは、良い羊飼いでした。神さまがいつもダビデと共にいて、必要なものを与えてくださいました。王さまとしてどうしたらいいかを教えてくださいました。ダビデの心はいつも神さまの愛と神さまへの信頼でいっぱいでした。

6月30日(月)詩編二三2

 王さまは国のみんなが平和で、食べ物に困らずに暮らせるようにしなければなりません。他の国が攻めてくれば戦って国を守ります。だからいつも強い心でいるのです。そのため心を休める時がとても必要でした。だからダビデは神さまがいつも自分に心と体の安心と休みをくださることを感じていました。神さま、私たちも神さまが共にいてくださる安心と休みを感じることができますように。

6月30日(火)詩編二三3

 ダビデが罪を犯した時、神さまは預言者を通してそれを示され、悔い改めるように導かれました。私たちは神さまに背いたら、神さまの前に向き直すのにも神さまの助けが必要です。だから神さまの方から語りかけてくださり、正しい道に導いてくださいます。神さま、あなたの御言葉を素直に聞いて悔い改めることができますように。

7月1日(水)詩編二三4

 羊飼いは羊が違う道を行こうとしたら、むちをたたく音でそっちじゃないよと教えます。崖から落ちてしまったら、先が曲がった杖に体を引っ掛けて助けてくれます。私たちがとても大変なところを通る時、共におられる神さまは、そこを通り抜けられるように確かに共にいて助け出してくださいます。

7月2日(木)詩編二三5

敵が近くにいて逃げてきたものを神さまは守ってくださいます。それもすばらしいごちそうでもてなしてくださるのです。守られているから安心して食事ができるのです。そんなふうに神さまは、大変な時も私たちの守りとなってくださり、思いがけない恵みのご馳走で私たちを救ってくださいます。

7月3日(金)詩編二三6

私たちはいつも宿題や勉強、他にも何かに追いかけられがちです。でもそれを支える神さまの愛が私たちを追いかけてくださいます。

7月4日(土)ヨハネ十11

 イエスさまは私たちの良い羊飼いとして、私たちのために十字架で命を捨ててくださいました。罪の中に迷っていた私たちを見つけ出し救ってくださいました。