胎児から成人までの一貫した教案誌 個人的な学び・家庭集会にも最適

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 このコーナーは聖書の光の子どもデボーション (子どもだけでなくてもいいのですけれど…)のページをそのまま載せてあります。自由にコピーしてフリガナをつけたり、文字の大きさを変えたり、言い方を変えたり、 みなさんのクラスの子どもたちに合わせてアレンジして使ってください。

 いよいよクリスマスですね。心からイエスさまのお誕生をお祝いしたいですね。

12月21日(日)ルカ二8〜12

 羊飼いたちは驚いたでしょう。突然天からのまぶしい光に照らされて、何事かと思っていたら、天使が現れたのですから。天使は「すべての人に与えられる大きな喜び」を伝えに来たのです。大きな喜びとは「あなたがたのために救い主が生まれました」という知らせでした。「あなたがたのために」の中には今の私たちも入っています。

12月22日(月)ルカニ8〜12

 羊飼いは羊に合わせて生活するのでちゃんとは礼拝に参加できず、貧しい人が多いので、献金もあまりできなかったかもしれません。だから神さまの目に留まらないと自分たちのことを思っていたかもしれません。でも救い主が自分たちのために生まれたという天使の言葉に、彼らは大きな喜びをいただきました。神さまが自分たちのことも見ていてくださることを知ったのです。

12月23日(火)ルカニ13〜14

 最初のクリスマス、天の軍勢の大合唱が空に響き渡りました。天使は救い主をこの世に送られた神さまを賛美しました。そしてこの地上の世界が平和であるようにと歌いました。神さまに背いて生きてしまう私たちでは、平和にできないこの世界に、本当の平和をもたらす救い主を神さまは送ってくださいました。

12月24日(水)ルカニ15

 天使の言葉を聞いて、羊飼いたちは「ベツレヘムに救い主に会いに行こう」とすぐに立ち上がりました。良い知らせを聞いてもめんどくさいと思ったり、自分には関係ないと思ったりしたら出かけなかったでしょう。でも彼らは天使の言葉を信じました。そして出かけたのです。

12月25日(木)ルカニ16

 クリスマスおめでとうございます。天使が教えてくれた救い主のしるしは、「飼い葉桶に寝かされた赤ちゃん」です。そんな赤ちゃんは普通いません。だから羊飼いたちには探しやすかったでしょう。そしてそこは、貧しく羊の匂いがついてそれほど清潔でもない彼らには一番近づきやすい場所だったのです。

12月26日(金)ルカニ17〜19

 羊飼いたちが「天使に教えてもらって救い主に会いに来た」というのを聞いて、マリアも自分に語られた天使の言葉を思い出していました。そして神さまは小さな自分たちを忘れていないのだと思い巡らしました。

12月27日(土)ルカニ20〜21

 羊飼いの帰りの道は、神さまへの賛美であふれていました。神さまの言葉は本当なんだとわかると、賛美が出てくるのです。そして赤ちゃんはイエスと名づけられました。クリスマスは、神さまが言葉通りにしてくださったことと、信じた人が従った出来事なのです。

 今年もあとわずかとなりました。どんな一年でしたか。神さまがしてくださった良かったことを忘れないでいたいですね。

12月28日(日)ローマ八18〜22

 私たちには苦しいことがあります。病気や不幸な目に遭うこと、まただれかとうまくいかないことも辛いです。自分のした悪いことに苦しむこともあります。罪を犯して自分だけでなく周りの人も苦しめることになったら、生きるのも辛くなります。でもいつかこの世界が新しくなると、すべての苦しみはいやされます。それまで今を生きられるように神さまが助けて導いてくださいます。

12月29日(月)ローマ八18〜22

 苦しんでいるのは私たちだけではありません。神さまに造られたすべてのものたちが苦しんでいます。神さまが造られたこの世界が、罪と死のために壊れて失われているからです。何かがなくなったら、それがないと生きていけないものもなくなっていきます。だからこの世界の造られたものたちは、もう一度イエスさまが来られて、この世界が新しくされるのを待っているのです。

12月30日(火)ローマ八23〜25

 今の世界では、私たちがイエスさまを信じて神の子とされても、また罪を犯すかもしれないし、間違いや失敗はあります。病気や心が元気をなくしてしまうこともあります。この世界で生きている間は、できないことがあって、不自由なのです。でもこの世界が新しくされる時には、私たちの体も完全に神の子になります。罪や痛みも苦しみもない体をいただいて、自由にされるのです。

12月31日(水)ローマ八23〜25

 世界中の神さまに造られたものたちは、うめきながら、イエスさまがもう一度来てくださるのを待っています。そうしたら救いが完成するからです。神さま、いつイエスさまが来られてもイエスさまを喜んでお迎えできますように。

1月1日(木)ローマ八26

 あけましておめでとうございます。新しい時も神さまの祝福がありますように。私たちはどうお祈りしたらいいかわからない時があります。心がうめくだけしかできない時です。でも聖霊もうめいてくださって、私たちの思いを神さまに伝えてくださいます。

1月2日(金)ローマ八27

 神さまは私たちのことをなんでも知っておられます。それは聖霊を通しても、私たちのことを聞いてくださっているからです。聖霊は神さまと私たちの間をいつもつないでくれているのです。

1月3日(土)ローマ八28

 楽しいことも苦しいことも、今は理解できないことも、すべてが私たちをイエスさまに似た神の子へと造り変える働きをしています。そして神さまがすべてのことを良いものにしてくださるのです。

 新年になりました。今年はどんな年になるでしょう。どんな時も神さまに信頼していきたいですね。

1月4日(日)ヨハネ一29〜31

 洗礼者ヨハネのところに大勢の人が集まりました。ヨハネの話を聞いて、多くの人が変わりたいと思いました。だから罪を悔い改めて洗礼を受けました。みんなからヨハネはすごい人と言われていました。でもヨハネはイエスさまを見てみんなに言いました。「あの人は、私たちを罪から救う救い主です。本当に頼れるのは、私ではなくあの人です。私はそれを知らせに来ました」。

1月5日(月)ヨハネ一29〜31

 ヨハネはイエスさまを「見てごらん、あの人は私たちの罪を取り除いてくださる神の小羊だよ。」と言いました。イスラエルでは、神さまにごめんなさいと悔い改める時、小羊を神さまに焼いておささげしました。イエスさまはささげられる小羊のように十字架で神さまにささげられて、私たちの全ての罪がゆるされるようにしてくださいました。

1月6日(火)ヨハネ一32〜34

 ヨハネの仕事は、救い主をお迎えできるようにみんなの心を準備することです。そして救い主に出会ったらみんなに知らせるのです。だからヨハネは、悔い改めた人たちに洗礼を受けさせながら、救い主がやってくるのを待っていました。

1月7日(水)マタイ三13〜17

 イエスさまが救い主だと、どうやってわかったのでしょう。そのしるしは、天から聖霊が鳩のように降りてきて、人の上にとどまることでした。ヨハネはイエスさまに洗礼を授け時、イエスさまに聖霊がとどまるのを見たのです。だからみんなにイエスさまを神の子救い主だと伝えました。

1月8日(木)ヨハネ一35〜39

 ヨハネは自分の二人の弟子に、イエスさまのことを「ほら、あの人が救い主だよ。」と教えました。すると二人はイエスさまについて行きました。自分の弟子がイエスさまについていくことは、普通なら寂しいことです。でもヨハネはそれでいいと思っていました。神さま、だれかの人気をねたむ時、ヨハネのように私たちの心を守ってください。

1月9日(金)ヨハネ一40〜42

 アンデレは兄のペトロに、「救い主にあったよ。兄さんも会いに行こうよ」と行ってイエスさまのところへ連れて行きました。ペトロはアンデレのおかげでイエスさまを知りました。私たちもだれかをイエスさまのもとへ連れて行けますように。

1月10日(土)ヨハネ一40〜42

 イエスさまはペトロと初めて会った時から、将来ペトロがどんな人になるかを知っていました。それでペトロというあだ名をつけました。イエスさまは私たちの将来を知っていて、導いてくださいます。

結婚式ってすてきですね。かっこいい花婿さんと、すてきなウェディングドレスの花嫁さんに憧れますね。お祝いする人みんなにうれしい時です。

1月11日(日)ヨハネ二1〜2

 イエスさまがお弟子さんたちと結婚式に参加した時のことです。困ったことにぶどう酒が足りなくなりました。イスラエルではお祝いのパーティーにはぶどう酒はなくてはなりません。それなのにぶどう酒がなかったら花婿さんにとっては、とても恥ずかしいことでした。でもイエスさまのお母さんは、どこよりも頼れる場所を知っていました。それはイエスさまでした。

1月12日(月)ヨハネ二4〜5

 「ぶどう酒が足りないから助けてほしい」というお母さんの言葉に、イエスさまの答えはなんだか冷たい感じがします。でもイエスさまが言おうとされたのは、「時が来たら解決しましょう」ということでした。だからお母さんは安心して「この方が言うことはなんでもしてくださいね。」と召使たちに言うことがでました。私たちもイエスさまにどんなことでも助けてくださいと祈れるのです。

1月13日(火)ヨハネ二6〜8

 イエスさまは召使たちに6つの大きな水がめに水をいっぱい入れさせました。ところがその水がめの水を汲んで、お祝いの世話役に味見してもらうように言われたのです。水を味見してもらっても、と普通なら思います。でも彼らは、イエスさまの言われたと通りにしました。イエスさまのお母さんから、言われた通りにしてね、と言われていたからです。

1月14日(水)ヨハネ二9〜10

 世話役が飲んだのは水のはずでした。でもぶどう酒に変わっていたのです。それもこのパーティーで出された中で一番おいしいぶどう酒になっていました。「なんておいしいぶどう酒なんだ。」と世話役は花婿さんをほめました。何も知らない花婿さんはきっと驚いたことでしょう。でも水を汲んだ召使たちは知っていたのです。

1月15日(木)ヨハネ二9〜10

 水を汲んだ召使たちはどんな気持ちだったでしょう。水を持っていくように言われた時は驚いたけど、言う通りにして良かったと思ったでしょう。そしてイエスさまのことをすごいお方だと知りました。

1月16日(金)ヨハネ二9〜10

 言われた通りにするのが難しい時があります。でもイエスさまの言葉は、私たちが考えるよりずっとすばらしいことをしてくださる確かな言葉です。どうぞ私たちもイエスさまの言葉に従うことができますように。

1月17日(土)ヨハネ二11〜12

 イエスさまはこの結婚式で救い主としての力を初めて現されました。それを見た弟子たちは、イエスさまはやっぱり救い主だと信じました。

 神の国は天国とも言います。ぜひ天国に行きたいですね。

1月18日(日)ヨハネ三1〜2

 ニコデモはユダヤ人の先生で、偉い人でした。そしてイエスさまよりもずっと年上でした。でもイエスさまから教えてもらいたいと思いました。イエスさまはまるで神さまのように何でも知っていました。そして神さまにしかできない不思議な力を持っていました。だから神の国のことをもっと教えてほしいと思いました。

1月19日(月)ヨハネ三3〜4

 ニコデモにはイエスさまの言うことがよくわかりませんでした。「新しく生まれなければ」と言われて困ってしまいました。だれだってもう一度お母さんのお腹から生まれ直すことはできません。ではどうやって私たちは新しく生まれることができるのでしょうか。わからなくても、イエスさまの言葉を聞き続けることができますように。

1月20日(火)ヨハネ三5〜8

 「新しく生まれる」というのは、神さまによって心が新しくされることです。イエスさまを信じて洗礼を受けると、神さまが私たちの心を清くして、新しくしてくださるのです。すると目に見えない神さまが、私たちにしてくださっているすばらしいことがもっとわかってくるのです。それが神の国が見えるようになることです。神の国に入る神の子にされたからです。

1月21日(水)ヨハネ三9〜11

 ニコデモにはなかなかわかりませんでした。聖書のことをよく勉強していて知っていました。でも新しく生まれるために自分で努力することばかり考えていました。だからイエスさまが言われた、人がするのではなく、神さまがしてくださるということがわかりませんでした。

1月22日(木)ヨハネ三12

 イエスさまが話すことは神さまの考えておられることです。そしてイエスさまが病気を治したり、悪霊を追い出したり、助けの必要な人を救ってくださるのは、神さまが私たちのことを愛していることがわかるためです。だからイエスさまが話すこと、なさることを信じないなら、神の国を見ることも、神の国に入ることもできないのです。

1月23日(金)ヨハネ三13〜15

 神の子イエスさまは、天から降りてきて人間になられました。それは十字架にかけられて死なれるためです。そして死から生き返って、また天に帰られるのです。私たちがイエスさまを信じて救われ、イエスさまを見上げて生きるためです。

1月24日(土)ヨハネ三13〜15

 昔、荒野で蛇に噛まれて死にそうになったイスラエル人たちは、竿にかけられた青銅の蛇を見上げるなら、救われると神さまに言われ、そうした人は助かりました。今は、イエスさまを信じるなら救われるのです。

 イエスさまは私たちに会いにきてくださいます。だれのところにも。

1月25日(日)ヨハネ四1〜5

 イエスさまはユダヤからガリラヤの町へ行くことにしました。途中にサマリアの町がありました。ユダヤ人はサマリア人と仲が悪いので、サマリアを通らないで遠まわりをしました。でもイエスさまは「サマリアを通らねば」なりませんでした。イエスさまには、サマリアに会う必要のある人がいたのです。

1月26日(月)ヨハネ四6〜9

 女の人はだれにも会いたくありませんでした。だから人が来ない暑い昼間に水を汲みにきたのです。ところが井戸のそばに男の人が座っていました。「ユダヤ人の男の人だから、声をかけてくることはないだろう。」と思っていました。だからイエスさまに「水を飲ませてほしい」と言われてとてもびっくりしました。

1月27日(火)ヨハネ四9〜12

 女の人はイエスさまから「私は神さまがくださる生ける水を知っているよ。」と聞いてもっとびっくりしました。イエスさまは、飲み水のことではなく、心が喜ぶ水の話をしたのです。でも女の人にはわかりません。だから「この井戸はずっと昔からみんなが使っていて、この水で生きてきたのに、他に井戸があるのですか。」と不思議に思いました。

1月28日(水)ヨハネ四13〜15

 イエスさまは「私が与える生ける水を飲んだらもう渇かなくなる。自分の中に泉を持つからだよ。そしてそれが永遠の命となって、あなたを生かすようになる。」と言われました。女の人はこの話に飛びつきました。「もう水を汲みに来なくていいならその水がほしいです。ぜひ私にください。」

1月29日(木)ヨハネ四16〜19

 イエスさまは、女の人が言わないのに彼女が5回結婚したこと、今一緒に住んでいる人とは結婚していないことを言い当てました。女の人は不思議とイエスさまに知られていてホッとしました。「この人は預言者のように、不思議な知恵と力のある人かもしれない。」と思いました。

1月30日(金)ヨハネ四20〜24

 女の人は、何をしても心にぽっかり穴が空いているようでした。いつも心が寂しいような、つまらないような、悲しいような感じでした。だから神さまを正しい場所で礼拝したら、心の穴がふさがるかもしれないと思っていました。イエスさまは言われました。「礼拝するのに大事なのは場所ではない。心から神さまを信じ敬うことだ。」

1月31日(土)ヨハネ四25〜26

 イエスさまは「私がメシア、キリストだよ。」と言われました。女の人は、心の穴を喜びで埋めてくださる救い主に出会っていたのです。そして生ける水を、永遠の命をいただきました。

 イエスさまは、離れていても、直接会っていなくても、どんな人をも救うことのできる神の子です。2月

1日(日)ヨハネ四46〜47

 王の役人には、死にそうな病気の息子がいました。お父さんは、イエスさまが息子のところに来てくれたら、息子は必ず生きられると信じていました。だからきてほしいとお願いしたのです。私たちも助けが必要なとき、いつもイエスさまにお祈りできますように。

2月2日(月)ヨハネ四46〜48

 イエスさまはすぐに出かけようとしませんでした。それどころかまるでお父さんを突き放すように「あなたがたは見なければ信じない」と言われたのです。お父さんは「カファルナウムの家まで来てください。」と言いました。それはイエスさまが家まで来くれば治せると思っていたからです。でもイエスさまは家に行かなくても治すことができるのです。

2月3日(火)ヨハネ四49

 もう時間がありませんでした。早くイエスさまが家に来てくださらなかったら、間に合わないかもしれません。お父さんはとても焦りました。「イエスさま、お願いです。早く、息子が死なないうちに家まで来てください。」死んでしまったらもう取り返しがつかないと私たちは思います。でもイエスさまに取り返しのつかないことはないのです。

2月4日(水)ヨハネ四50

 イエスさまは「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」と言われました。この言葉にお父さんは不思議な力を感じました。「そうだ、息子は生きるに違いない。イエスさまの言葉を信じよう」お父さんは、もうイエスさまに一緒に来てほしいとは頼まないで一人で帰りました。

2月5日(木)ヨハネ四51〜53

 お父さんは帰りの道で、息子が生きていることを聞きました。目の前でイエスさまが息子を癒すのを見ませんでした。でもイエスさまの言葉の通りに癒されました。イエスさまは一緒に行かれませんでしたが、息子はイエスさまの言葉だけで癒されて、命が助かりました。イエスさまの言葉には確かな力があるのです。

2月6日(金)ヨハネ四51〜53

 息子が良くなったのは、イエスさまが「あなたの息子は生きている」と言われたその時でした。離れた地で苦しんでいた息子は、距離を超えた場所で語られたイエスさまの言葉で癒されたました。離れていても、直接手で触らなくても、主の言葉が私たちを救い、生かしてくださいます。

2月7日(土)ヨハネ四53〜54

 家族は、お父さんからイエスさまがどうやって死にそうだった息子を助け出してくださったのかを聞きました。「こんなことができるイエスさまは本当に神の子救い主だ」と家族みんなが信じました。

 イエスさまは、イエスさまを知らない人のところにイエスさまの方から会いにきてくださいます。

2月8日(日)ヨハネ五1〜6

 ベトザタの池の周りには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体が動かない人が大勢集まっていました。池に天使がやってきて水を掻き回した時に、真っ先に池に入ると癒されると信じられていたからです。みんなその時を待ってそこにずっといたのです。イエスさまはそこにいる一人の人に目を止められました。

2月9日(月)ヨハネ五6〜7

 この池は病気や不自由を治したい人たちにとって希望の場所でした。けれども、自分で動くことができない人は、だれかに助けてもらわないと池には入れません。イエスさまが声をかけたこの人には、自分を池に入れてくれる家族も友だちもいませんでした。38年間も病気のままであることと、ひとりぼっちが、この人を苦しめていました。

2月10日(火)ヨハネ五6〜7

 もしこの人がイエスさまのことを知っていたら、「良くなりたいか」という言葉に「主よ、よろしくお願いします。」と言ったことでしょう。でも池に入ることだけが希望だった彼は、自分を助けてくれる人がいないからどうしようもないと思っていました。手の届かない希望に絶望していたのです。

2月11日(水)ヨハネ五8〜9

 彼はイエスさまの「起きて歩きなさい」の言葉によってすっかり良くなり、自分の寝ていた布団を担いで歩き出しました。誰かに助けてもらって池に入らなくても、彼はすっかり良くなりました。病気とひとりぼっちで希望をなくしていたのに、イエスさまから生きる希望をいただいたのです。

2月12日(木)ヨハネ五9〜12

 安息日は仕事をしてはいけない日で、荷物も運んでもいけないとされていました。だから男の人は布団を運ぶのは許されていないと、とがめられてしまいました。ユダヤ人リーダーたちは、長い間病気で苦しんでいた人が治るすばらしさに気づけませんでした。それに本当の安息日らしい守り方は、病気から自由になって良かったと神さまに感謝する日だともわかりませんでした。

2月13日(金)ヨハネ五13〜14

 イエスさまの「もう罪を犯してはいけない」とは、神さまから離れないでいなさいということです。神さまこそが生きる希望だからです。

2月14日(土)ヨハネ五15〜18

 安息日だからといって、神さまが私たちを愛することを休んだりやめたりしません。だからイエスさまも安息日であっても神さまの愛と憐れみをあらわすことをやめないのです。でもイエスさまを信じない人々には、イエスさまの言うこともすることも気に入らないことでした。

 イエスさまのなさるすばらしい働きは、神さまの愛と恵みを示すものでした。

2月15日(日)ヨハネ六1〜4

 大勢の人々がイエスさまの行くところ行くところついて行きました。イエスさまがなさる奇跡を見て、イエスさまが普通の人とは違う力を持っていると思ったからです。彼らは病気を治してもらいたい人たちや奇跡を見たい人たち、そして神さまの話を聞きたい人たちでした。

2月16日(月)ヨハネ六5〜7

 イエスさまは、どこまで追ってくる人々を見て、困ったなとか、面倒だなと思うことはありませんでした。それどころか、とうてい面倒見きれないほどいる人々の食事のことを考えておられました。イエスさまは、私たちの心と体の必要を満たすことができるお方なのです。

2月17日(火)ヨハネ六5〜7

 イエスさまの質問にフィリポはびっくりしました。どう考えても、とんでもなくたくさんいる人々にご飯を準備することなどできないからです。お金もないし、町から離れていてお店もありませんでした。でもイエスさまはフィリポにわざと聞いたのです。人にはどうしようもないことを解決できるイエスさまがそばにいることを知らせるためでした。

2月18日(水)ヨハネ六8〜10

 アンデレがつれてきた少年の持っていたものは、だれが見ても、どんなに小さく分けても、そこにいる人たちには足りません。男の人だけで5000人もいたのです。だからみんな思います。これじゃ足りないと。でもイエスさまは足りないとは言われませんでした。イエスさまにはそれで十分でした。

2月19日(木)ヨハネ六11

 イエスさまは5つのパンと2匹の魚をとりました。そして神さまに感謝のお祈りをささげられました。それから割いては弟子たちに渡しました。弟子たちはそれを人々に渡して行きました。だれも遠慮したり、我慢したりしませんでした。不思議なことに欲しいだけ食べることができたのです。

2月20日(金)ヨハネ六12〜13

 イエスさまによってわずかしかなかったパンと魚が分けられると、みんなが満腹になりました。それ以上にあまって12の籠にいっぱいになるほどでした。イエスさまは、わずかなものを大きく用いることができるお方です。私たちの持っているものが足りないと思えても、イエスさまが用いてくださるとき、足りないことはありません。

2月21日(土)ヨハネ六14〜15

 お腹いっぱいになった人たちは、イエスさまを王さまにして、いつでも自分たちの願いを叶えてもらうと考えました。イエスさまのすばらしい力を自分たちの都合の良いように使いたかったのです。でもイエスさまは私たちの便利屋さんではないのです。

 私たちは目が見えていても、見えないことがたくさんありますね。

2月22日(日)ヨハネ九1〜3

 ユダヤ人は、病気になることや体に不自由があるのは、自分か家族、先祖が悪いことをしたせいだと考えました。だから生まれつき目の見えなかった人にとって、イエスさまの「だれの罪のせいでもない。神さまのすばらしさが表されるためだ。」という言葉は、どんなにありがたかったことでしょう。

2月23日(月)ヨハネ九4〜7

 イエスさまは、見えない人の目に唾でこねた泥を塗りました。その人がイエスさまに言われた通りシロアムの池で洗うと見えるようになりました。イエスさまは私たちの光です。光は見えるようにします。だからこの人もイエスさまの光で見えるようになりました。

2月24日(火)ヨハネ九8〜12

 生まれつき見えなかった人が見えるようになっていたら、だれでも驚きます。どうやって見えるようになったのか聞きたくなります。普通には起こらないことが起きたのです。だから信じようとしない人もいました。でも人にはできないことだから、これは神さまがしてくださったすばらしい出来事なのです。

2月25日(水)ヨハネ九13〜17

 すばらしいことが起こったのに、良かったことで終わりませんでした。その日が安息日だったからです。安息日は働いてはいけません。土をこねて目に塗ることも、目を見えるようにすることも許されていないのです。だからユダヤ人リーダーたちから見たら、癒した人は安息日を守らなかった人です。でもだれにもできないことをする力のある人です。彼らには、このことを正しく判断できませんでした。自分たちが考える正しさの物差しが歪んでいたので、すばらしい神さまの働きがわかりませんでした。

2月26日(木)ヨハネ九18〜23

 ユダヤ人リーダーたちは、イエスさまがしたことだと気づいていたでしょう。でも見えない人が見えるようになったことを信じませんでした。信じたくなかったのです。イエスさまのことが受け入れられなかったからです。どんなにすばらしいことが起こっていても、心の目が曇っていると、正しく見ることができないのです。

2月27日(金)ヨハネ九24〜34

 男の人は、自分を癒した人が神さまからきた人だとはっきりわかりました。でもユダヤ人リーダーたちは、その人が見えなかったのは、罪のせいだと考えていたので、彼のことを下に見ていました。そして彼の言うことも受け入れませんでした。

2月28日(土)ヨハネ九35〜39

 目の見えなかった人はイエスさまにを救い主だと信じました。体の目だけでなく、心の目もはっきり見えるようにされていました。

 イエスさまのなさることは、私たちの思いを超えてもっとすばらしいことです。

3月1日(日)ヨハネ十一1〜6

 マルタとマリアはイエスさまが来てくれればラザロが助かると信じていました。でもイエスさまは、すぐには行かなかったのです。それはラザロが死で終わらないこと、神さまのすばらしさがわかるため、またイエスさまが救い主であることを示すために必要でした。神さま、私たちが「今がいいのに」と思う時と、あなたが「いい」思う時が違う時、あなたを信じていけますように。

3月2日(月)ヨハネ十一17〜22

 イエスさまが来られた時は、ラザロが死んで四日も経っていました。どうしてすぐに来てくださらなかったのだろう。そうしたらラザロは死なないで済んだのに。そう思うとマルタは残念でたまりませんでした。イエスさまがお祈りすれば、ラザロは助かったと心から信じていたからです。

3月3日(火)ヨハネ十一23〜27

 イエスさまは、ラザロを死なせないこともできましたが、死んでもまた命を与えることができるのです。イエスさまは復活であり、命だからです。イエスさまは今ラザロが復活する話をされました。でもマルタは、イエスさまを救い主と信じていましたが、ラザロの復活は世の終わりだと思っていました。

3月4日(水)ヨハネ十一28〜32

 妹のマリアも、イエスさまを見た途端、足元にひれ伏して言いました。「イエスさまがここにおられたら、ラザロは死ななかったでしょう。」どうしてすぐに来てくださらなかったのですか。私たちはあなたを待っていたのに。マリアはそう思うと涙が止まりませんでした。死んだら終わり、それが私たちの知っていることです。だから死なないことが大切でした。でもイエスさまは、死んだ後のことにも力のあるお方なのです。

3月5日(木)ヨハネ十一33〜37 

 イエスさまは死に対して何もできない人間の苦しみと、家族が死んでしまった深い悲しみ思って、一緒に涙を流されました。だったら死ぬ前に助ければいいのにと私たちは思います。でもイエスさまには、神さまが死よりも強いお方であることを示すことがもっと大切でした。

3月6日(金)ヨハネ十一38〜42

 死んで4日経っていたら、体は腐り、もう生き返る望みはありません。でもイエスさまは祈られました。イエスさまの願いは、ラザロが死なないことではなく、死から生き返るのを見て、救い主がきたことを人々が信じることでした。

3月7日(土)ヨハネ十一43〜44

 死んだラザロは、イエスさまの呼びかけに応えて、生きてお墓の中から出てきました。確かにイエスさまは死人に命を与える神の子なのです。

 過越の祭りが近づいていました。そしてイエスさまの十字架の死も近づいていました。

3月8日(日)ヨハネ十二1〜2

 マルタとマリア、ラザロの兄弟は、エルサレムに近いベタニアに住んでいました。彼らの家は、イエスさまの休み場として使われる、とても良い場所でした。十字架にかけられる前に、イエスさまと弟子たちはこの家で食事をして過ごされました。生き返ったラザロがイエスさまと一緒に座っているのを見て、マルタとマリアは心から慰められました。

3月9日(月)ヨハネ十二1〜2

 3人はそれぞれの役割でイエスさまにおもてなしをしました。マルタはいつものように夕食をたくさん作っていました。イエスさまと12人のお弟子さんの分です。ラザロは、イエスさまと一緒に座ってイエスさまの話を聞いていたのでしょう。ラザロはきっと感謝の気持ちでいっぱいだったでしょう。二人とも喜びと感謝でイエスさまをもてなしていました。

3月10日(火)ヨハネ十二3

 マリアのおもてなしは、みんなをびっくりさせました。マリアがイエスさまの足に塗った香油はとても高くて、簡単に買えるものではなかったからです。それを惜しげもなくイエスさまの足に塗って自分の髪の毛で拭きました。香油のいい匂いが部屋中いっぱいになりました。マリアが思い切って香油をたっぷりと使ったからでした。マリアの姿は、イエスさまに自分の全てをささげて、従いますという思いがあふれていました。

3月11日(水)ヨハネ十二4〜5

 「なんてもったいないことをするんだ。こんなことに使うより、香油を売って、その代金を貧しい人に募金した方がずっと良かったのに。」とユダが言いました。ユダがいうことも、もっともなことに聞こえます。でももっと大切なことは、マリアがどんな気持ちで香油をイエスさまに塗ったかなのです。

3月12日(木)ヨハネ十二6

 残念ながら、ユダが優しかったから貧しい人々のことを思って言ったのではありません。ユダはみんなで一緒に使うお金を預かっていたのに、自分のために使ってごまかしていたのです。そういう自分を気づかれないために、良いことを言っただけでした。

3月13日(金)ヨハネ十二7〜8

 イエスさまは、マリアのしたことを喜ばれました。これから十字架で死なれるイエスさまに、油を塗ることはとてもふさわしいことだと言われました。香油は死んだ人の体に塗られたからです。

3月14日(土)ヨハネ十二7〜8

 マリアはとても高価な香油をイエスさまにささげました。そしてイエスさまはそれ以上のもの、命を十字架で私たちが生きるためにささげてくださったのです。

 もしもうすぐ自分は死ぬことになることを知ったら、何をしようと思いますか。

3月15日(日)ヨハネ十三1〜4

 イエスさまの十字架で死なれる時が迫っていました。イエスさまが最後までなさったことは、私はあなたたちを愛しているよということを伝えることでした。でもその中には、イエスさまを裏切るユダもいたのです。それでもイエスさまのユダに対する愛は変わりませんでした。

3月16日(月)ヨハネ十三4〜5

 愛していることを伝えるのに、どんなことができるでしょうか。イエスさまは、奴隷の姿になりました。奴隷はだれよりも一番低い人です。主人のためになんでもする人です。タオルを腰に巻いて、くんだ水で弟子たちの足を洗い、腰に巻いたタオルでふくことは奴隷の仕事でした。イエスさまは愛を伝えるためにどうして奴隷のすることをされたのでしょうか。

3月17日(火)ヨハネ十三6〜7

 イエスさまの時代の人たちは、素足にサンダルを履いていました。そこで家に入るときに奴隷が汚れた足を洗っていたのです。でも弟子たちにとってイエスさまは先生であって、奴隷ではありません。ペトロはびっくりしました。イエスさまがどうして足を洗うのかわかりません。イエスさまは「私のしていることは後でわかるようになるよ」と言われました。今わからないことも後でわかるようになることを信じられますように。

3月18日(水)ヨハネ十三8

 ペトロはイエスさまに足を洗っていただくなど、とんでもないと思いました。きっと私たちも思うかもしれません。でもイエスさまに洗ってもらわなければならないのです。それがイエスさまにしかできないことで、私たちとイエスさまとの大切な関係だからです。イエスさまに洗ってもらわないとしたら、イエスさまのことを必要ありませんと言ってしまうことになるのです。

3月19日(木)ヨハネ十三9〜11

 イエスさまが足を洗ってくださることには意味がありました。それは汚い足をきれいにすることによって、イエスさまが、私たちの罪をきよめてくださることを教えようとされたのです。だから全身を洗う必要はないのです。

3月20日(金)ヨハネ十三12〜15

 イエスさまが弟子たちの足を洗ったのは、十字架でイエスさまが死なれることをあらわしていました。だれよりも一番低い罪人になって神さまに裁かれ、私たちの罪をきよめてくださるためなのです。

3月21日(土)ヨハネ十三12〜15

 イエスさまは、私に倣って互いに足を洗い合いなさいと言いわれました。イエスさまのように、自分を低くできますように。人を愛し、ゆるし、助け合っていけるように、助けてください。

 イエスさまは何も悪くないのに逮捕されてしまいます。それは私たちを救うためでした。

3月22日(日)ヨハネ十八1〜3

 イエスさまはいつものように、ゲツセマネの園に弟子たちと行かれました。いつもそこでお祈りをしたり、弟子たちと集まりをしたりしていたのです。でもこの日何が起こるかを知っていたのに、イエスさまは逃げも隠れもしませんでした。これから起こる十字架への苦しみを自分から進んで引き受けておられたからです。

3月23日(月)ヨハネ十八1〜3

 弟子の一人であるユダがイエスさまを捕らえようとする人々を案内しました。三年間イエスさまと一緒に過ごしてきたユダでしたが、イエスさまを裏切って、イエスさまのことを邪魔者と思う人々に売ってしまったのです。イエスさまを捕らえに来た人たちの中には大勢の兵隊もいて、手には武器がありました。まるで恐ろしい犯罪人を捕らえに来たかのようでした。

3月24日(火)ヨハネ十八4〜6

 イエスさまは自分が逮捕され、裁判を受け、十字架にかけられることを知っておられました。そこに自分から進み出られました。「あなたがたが探しているナザレのイエスはこの私だ」という言葉は、武器を持っている大勢で捕らえに来た兵隊や人々よりもずっと強く力がありました。彼らの方が恐れを感じ圧倒されました。後退りして倒れるほどでした。

3月25日(水)ヨハネ十八7〜9

 イエスさまはもう一度「あなたがたが探しているナザレのイエスは私だ。」と言われ、さらに弟子たちを「去らせなさい」と言って彼らを守られました。私は何も悪くないと言って自分を守ろうとしても不思議はありません。でもイエスさまは自分を守ることはしませんでした。

3月26日(木)ヨハネ十八7〜9

 9節は六39でイエスさまが言われた言葉のことです。イエスさまを信じてついて行く人を神さまは見捨てないのです。だから後になって、彼らもイエスさまを信じているために苦しめられるようになりますが、その時にも彼らはイエスさまを信じて歩むことをやめないで、イエスさまを伝え続けることができたのでした。

3月27日(金)ヨハネ十八10〜11

 ペトロは剣で人の耳を切り落とし、イエスさまの逮捕を混乱させようとしました。でも剣という武器で逮捕を止めることはできませんでした。人を傷つけてイエスさまを守ることをイエスさまが喜ばれることはないのです。

3月28日(土)ヨハネ十八10〜11

 イエスさまの飲むべき杯は、十字架で死なれることです。イエスさまの逮捕と死は、ペトロたちにとっても辛く悲しいことです。でもそれを彼らも通った後に、救いがあるのです。

 いよいよ新年度ですね。新しい学年も神さまが共にいて、祝福してくださいますように。

3月29日(日)ヨハネ十九17〜18

 イエスさまはご自分で十字架を背負って、ゴルゴタまで行かれました。ムチで何度も打たれた背中では、十字架を背負うことも、背負って歩くことも、どんなに辛く大変だったことでしょう。でもそうやってイエスさまは私たちの罪を背負って罪人になり、激しい痛みと苦しみの十字架にかけられたのです。

3月30日(月)ヨハネ十九19〜22

 イエスさまの十字架に貼られたた死刑の理由は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」です。これを読むと、イエスさまを十字架にかけた人たちは、とても嫌な気持ちになりました。でもそれを読んだ人はみんな気づかなければならなかったのです。自分たちは、自分たちの本当の王、神の子救い主を殺そうとしていることを。

3月31日(火)ヨハネ十九23〜24

 イエスさまの衣服がくじで分けられることになると、昔の人が預言していました。それがイエスさまを十字架につけたローマの兵隊たちによって、本当に実現しました。イエスさまの十字架は、ユダヤ人がイエスさまを妬んでしたことですが、神さまの長い間の計画でもありました。こうして私たちを救うための道が実現していきました。

4月1日(水)ヨハネ十九25〜27

 イエスさまは自分のお母さんを弟子のヨハネに任せました。これからはあなたのお母さんとして面倒を見てほしいと言われたのです。イエスさまを信じる者たちは、神の家族だからです。お互いのことを祈り合い、助け合って生きるのです。

4月2日(木)ヨハネ十九28〜30

 イエスさまはついに息を引き取られました。十字架で苦しんで死ぬことによって、神さまの計画されたことをすべてその通りに行い、私たちのための救いを完成してくださいました。そこまでして、私たちを神さまが、愛しておられることをあらわしてくださったのです。

4月3日(金)ヨハネ十九31〜37

 十字架形は死ぬまでにとても時間がかかります。だから時間が来ても死んでいないと、早く死ぬことができるように足を折りました。でもイエスさまは折る必要がありませんでした。足が折られなかったことも、脇腹を槍で突き刺されたことも、聖書で預言されていた通りのことでした。全てはイエスさまが本当に死んだからでした。

4月4日(土)ヨハネ十九38〜42

 イエスさまをお墓に納めたのは、12人の弟子たちではなく、隠れた弟子、アリマタヤのヨセフでした。でも隠れたままはやめました。弟子としてイエスさまの遺体を引き取り、ニコデモと一緒にイエスさまを布で包んでお墓に納めました。