春は卒業・入学・進級の季節であると共に、3月の末から4月の始めにかけて、日にちは毎年変わりますが、受難週そしてイースターがあります。確かにとても忙しい季節なのですが、主イエスの十字架を思うとても大切な季節です。2017年は3月1日から4月15日がレントと言って、主イエスの受難を思う時、そしてイースターは4月16日です。教会では、毎年受難週の日曜日には主イエスの十字架を語り、イースターには復活を語るはずです。十字架も復活もある意味、クリスマスと共に毎年語ることですので、子どもたちも聞き慣れているでしょうし、語る方もどのように聞き慣れた物語を新しく語るかということに苦心するのだと思います。ただ奇をてらう必要はありません。物語は同じかもしれません。しかし、たとい同じ話であっても、繰り返し聞かなければならないことがあります。繰り返し聞きたくなる話があるのです。ただ同時に、同じ話だと言っても手抜きをしてはいけません。同じ話だからこそ、毎年しっかりと新しい気持ちで聖書を読み直し、聖書に向き合い直して、新しい感動をもって御言を語ることです。
子どもたちと一緒に主イエスの十字架を味わうために、主イエスの十字架上の七言をたどってみたいと思います。主イエスは、十字架の上でいくつかの言葉を語り、言葉を残されました。そして、その主イエスの十字架上の言葉は聞く人たちの心に残り、主イエスがその苦しみ・十字架上の贖いの御業の中で語られた大切な言葉として残されてきました。ただ、新約聖書に残された七つの言葉の中で、マタイとマルコは同じ言葉を一つだけ、そしてルカは三つ、ヨハネも三つ、それぞれ他の福音書にはない言葉を書き記しています。それはそれぞれの福音書の記者たちならではのメッセージでもあったと思います。子どもたちと一緒に一つ一つ七つの言葉をたどってみてはいかがでしょう。一回の日曜日で7つをたどるのもよいのですが、7週にわたって十字架の上の言葉を味わったり、7日に分けて連続で学んでみるのもよいかと思います。主イエスの七言をめぐる大人向けのプログラムを持つ教会は時々耳にしますが、子ども向けのプログラムや独自教材を作ってみるのもすばらしいことだと思います。(この特集は、聖書の光のホームページに公開いたします。ご自由に加工してお用い下さい)。
1 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ23:34)。
主イエスは両手両足を釘付けにされて大きな痛みの中にありました。しかし、主イエスの口から出て来たのは「父よ」という祈りでした。主イエスはここでも神に「父よ」と呼びかけておられます。ここにあるのは神に対する信頼と平安です。しかし、この祈りは大きな痛みの中で祈られました。それは単に肉体的な痛みだけではありません。人々はさんざん主イエスのことをののしりました。そして、主イエスの弟子たちもみな、イエスさまから離れていました。主イエスは王の王、主の主なるお方、世界を創造された神です。けれども、罪深い人間にやりたい放題にされている。けれども、主イエスはそんな自分を十字架につけた人々、主イエスをののしる人々、主イエスを十字架につけろと叫んだ群衆・・・みんなのためにゆるしを祈られたのでした。そして、主イエスの祈りは、私のためでもありました。私の罪のために主イエスは死んでくださったからです。
2 「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)。
主イエスさまの十字架の両側には強盗が十字架につけられていました。十字架はおそろしい刑罰です。この二人は相当悪いことをしたのでしょう。主イエスは、この二人の強盗と一緒に、まるで、この二人の強盗と同じように罪深い者であるかのように苦しんでおられました。人々は主イエスの悪口を言い、「彼は他人を救った。もし、彼が神のキリスト、選ばれた者なら、自分自身を救うがよい」と言いました。そして主イエスの横にいた強盗までもが主イエスを悪口を言います。「あなたはキリストなら、自分を救い、われわれも救って見よ」。ずいぶん勝手な話です。主イエスは自分を救えなかったでしょうか。いいえ、イエスさまは自分を救おうと思えばできたはずです。しかし、それをなさらなかったのは、主イエスが自分を救って、十字架を投げ出してしまったら、主イエスがしようとしておられた、私たちの身代わりになって、私たちの罪を負って死ぬことによって、罪の赦しと救いの道が開かれるということがなくなってしまうからです。
一人の強盗が主イエスをあざけり続けていたとき、もう一人の強盗は自分の仲間をいさめます。「お前は神を恐れないのか。自分たちはこうなってもしかたがない。それだけの悪いことをしたのだから。でもこのお方は何も悪いことをしていない」。そしてこのもう一人の強盗は、苦しみの中でイエスさまに語りかけます。「イエスさま、あなたが御国の権威をもって王としておいでになるときに、私のことを思い出してください」。けれども主イエスはこの強盗におっしゃいます。「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」。主イエスはこの強盗に天国を約束してくださったのです。この強盗は何かよいことをしたから天国にいけたのではありません。何もできませんでした。でも主イエスを信じてすがったので、天国に行けたのです。主イエスはあなたのことも、一緒に天国に連れて行ってくださいます。
3 「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19:26~27)。
イエスさまのお母さんのマリヤは、イエスさまの十字架のそばにたたずんでいました。自分の産んだ子でもある主イエスが十字架につけられ、あざけられて、苦しんでいるのをマリヤはどのような気持ちで見ていたことでしょうか。主イエスはマリヤを見、その側にいた弟子のおそらくヨハネをごらんになりました。そして母マリヤにヨハネを紹介し、ヨハネに自分の母マリヤを託したのでした。ヨハネはこの日から、主イエスの母マリヤのお世話をします。主イエスは大きな苦しみの中で、悲しみの中にある自分の母マリヤのことを気遣い、心配されたのです。主イエスはあなたにもそばにいる誰かのことをたくそうとしておられるかもしれません。わたしの大事な家族だから、この人をまさに家族のように愛してほしいと、あなたにまかせようとしておられるかもしれません。
4 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)。
主イエスは十字架の上で、私たちの罪を負い、罪深い者、神に呪われ、裁かれ、見捨てられた者となってくださいました。主イエスは、父なる神に呪われ、見捨てられるという経験をしてくださいました。これは本当に悲しく恐ろしいことです。それは私たちの罪のためでした。私たちは自分の罪の重さを実はあまり分かっていません。それほど重いもの、恐ろしいものとは思っていないかもしれません。しかし、主イエスの苦しみを見つめていると、私の罪がどんなに恐ろしいものであるかが分かってきます。主イエスのこの十字架上の苦しみをまるで映し出しているかのような詩篇があります。主イエスがお生まれになるずっと前に書かれていた詩篇です。詩篇二二篇を開いて読んでみてください。何に気がついたでしょうか。この主イエスの十字架の上の叫びや苦しみがまるで生々しく書かれているかのようです。詩篇の作者も確かに大きな苦しみの中にあったのでしょう。しかし、その苦しみはまるでイエスさまに重なっているかのように、主イエスにおいてまた実現していったのでした。
5 「わたしはかわく」(ヨハネ19:28)。
十字架はとてものどがかわくと言います。けれども、ここで主イエスが叫ばれたのは、単に体ののどがかわいたということだけでなく、主イエスの魂の深い渇きを叫ばれたのでしょう。主イエスは、「だれでもかわく者はわたしのもとに来て飲むがよい」とおっしゃいました(ヨハネ七37)。ヨハネ六35、四14も味わってみましょう。主イエスがかわいてくださったことによって、主イエスは私たちにかわくことのない生涯を与えてくださったのです。
6 「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)。
これは「もうおしまいだ」というあきらめと敗北の叫びではありません。「完了しました」という意味であり、私たちの救いのために必要なことは全部なし終えました、という勝利の宣言です。主イエスが全部してくださったので、私たちは、自分の罪を認め、自分に主イエスの救いが必要であることを認めて、イエスさまを自分の救い主として信じるだけで救われます。私たちが何か善行を積み、努力した結果救われるのではありません。主はすべてを成し遂げてくださったのです。
7 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。
主イエスはこの最後の言葉を語って息を引き取られます。最後の言葉が「父よ」で始まっているのは、まさに主イエスの父なる神に対する愛と信頼をもう一度思わせます。私たちはいろいろなことが自分の思い通りにいくと神さまに感謝し、神さまをたたえますが、いろいろなことが自分の思い通りにいかないときに、なお神を信じ、神に信頼して生きるのは決してやさしいことではありません。しかし、主はまさに、十字架の上で苦しんで、息を引き取るというときに、「父よ」と語り、自分の生も死もすべてを神さまの手の中にゆだねます。死というのは孤独です。死ぬときは一人だからです。また死というのは私たちを不安にさせます。死の向こうに何があるのかを私たちは知らないからです。しかし、私たちもまた、神に信頼して生き、神に信頼して死にます。私たちが元気なときも、弱るときも、そしてやがて息を引き取るときも、神は私たちと共にいてくださいます。主イエスはまさに父なる神に信頼して、自分を全部、神のみ手にゆだねます。
主イエスの十字架、それは主イエスが何度も何度も弟子たちに語っておられたことでした。そして主イエスが語っておられたとおりのことが起きました。主は自ら命を捨てて、私たちのために救いの道を成就してくださいました。しかし、主イエスが十字架と一緒にいつも語っておられたことがありました。しかし弟子たちは十字架の話だけで、頭がいっぱいになってしまって、ちゃんと主イエスの話を聞いていなかったのです。話しておられたのに、そこを聞いていない。それは三日目によみがえるという復活のメッセージでした。そして、本当に主はよみがえられたのです。