和解委員会パンフレット6

 

はじめに
Ⅰ 聖書の「らい病」について知る
 1 翻訳の問題

   聖書の「らい病」はハンセン病ではない

  ⅰ 旧約聖書
  ⅱ 新約聖書
  ⅲ 諸訳において
 2 釈義の問題

   聖書の「 らい病」は罪の象徴ではない

  ⅰ 実例
  ⅱ 罪と罰
 3 適応の問題

   「配慮」が差別を助長する場合がある

  ⅰ 読み替えの問題
  ⅱ 内容について
Ⅱ ハンセン病について知る
 1 ハンセン病とは 治る病気である
 2 ハンセン病の歴史

   不当な差別の歴史である

  ⅰ 江戸時代以前
  ⅱ 戦前
  ⅲ 戦後
 3 ハンセン病と私たち

  問われる私たちの信仰

  ⅰ 関係者の功罪
  ⅱ 差別の構図
まとめ
あとがき

〈はじめに〉 はじめに2001年5月11日、熊本地裁で争われていた「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟において、ハンセン病患者の隔離は違憲であるという判決が下されました。90年余の隔離政策に携わった、厚生大臣、国会議員の過失責任が明確になりました。 他方、2003年11月に、熊本のホテルで元患者宿泊拒否事件が起きたように、ハンセン病に対する偏見は、日本社会の中になお根強くあることも明らかになっています。しかし、行政の責任や社会一般の偏見ばかりでなく、教会とこの問題とのかかわりは、明確にしなければならない大きな課題です。教会の歴史を振り返ると、私たちキリスト者の「らい病」についての理解や適応が、この病気に対する偏見を助長してきたと言わざるを得ないからです。なかでも、聖書の「らい病」をハンセン病と同一視する、この病についての無知と、「らい病」を罪の象徴とする、誤った聖書理解には、私たちは特に留意しなければなりません。それは、私たちの聖書理解ばかりでなく、福音理解、人間理解が問われる問題だからです。 また、この病気についての充分な知識がないままになされた対応、例えば聖書の「らい病」を「ハンセン病」と読み替えてきたことなどは、配慮のつもりでも、偏見を助長してきました。最近、聖書翻訳に関して、「らい病」についての訳語・表 記の変更が相次いだことも、この問題とキリスト教界の関係の深さを表しています。このような諸課題に対応するために、当委員会では、先の熊本地裁の判決以来、遅まきながら検討を重ねてきました。医学的、歴史的、神学的に広範囲な検証が必要な課題ですので、不充分ではありますが、聖書が正しく語られ、またハンセン病についての教会の理解が深められることを願いつつ、その対応の指針を紹介いたします。なお、このパンフレットにおいては、病名については原則として「ハンセン病」と表記しますが、聖書に訳出され、教会で語られてきた言葉として、「らい病」という言葉を用いることをご了承ください。


Ⅰ聖書の「らい病」について知る

 

1 翻訳の問題

 
 聖書の「らい病」はハンセン病ではない長く「らい病 」と訳されてきた言葉は、旧約聖書では「ツァーラト」というヘブル語と、新約聖書では「レプラ」というギリシャ語です。これらが、皮膚の病を含んでいることから、ハンセン病と理解され、「らい病」と訳されてきたのですが、今日、「ツァーラト」と「レプラ」は、何の病であるか特定できていません。 

ⅰ.旧約聖書

 
 ハンセン病の発症例が、歴史的に確認されているのは、紀元前七世紀頃のインドと中国です。それがヨーロッパに広がったのは、アレキサンダー大王の遠征後のことで、紀元前三世紀頃と考えられています。
 
 ということは、旧約聖書に記されている「ツァーラト」は、ハンセン 病とは関係がないことになります。実際、レビ記に描かれている「ツァ ーラト」は、皮膚の病ばかりではなく、ある種のカビと考えられるよう なものも含まれており、明らかにハンセン病の症状とは異なります。 歴史的にも医学的にも、何の病であるか分からないものを、特定の病 気と結びつけることは誤りです。

ⅱ.新約聖書

 
 一方、新約聖書の「レプラ」は、旧約聖書の「ツァーラト」に対応す る言葉です。旧約聖書のギリシャ語訳である「七十人訳聖書」では、「ツ ァーラト」の訳語に「レプラ」を用いたからです。しかし実際には、「レプラ」は乾癬や腫瘍など、種々の皮膚病の総称のような言葉であって、「ツァーラト」の内容を正確に反映しているとは言えません。 例えば、ルカによる福音書第4章27節には、旧約聖書のナアマンな ど、エリシャの時代に「レプラ」があったと記されています。しかし、 旧約聖書の時代の「ツァーラト」が何の病か特定できない以上、この「レプラ」をハンセン病と言うことはできません。 また、新約聖書には、「レプラ」の症状は全く記されていません。つ まり、この病に関する情報としては、旧約聖書以上の事柄を知ることができないのです。このことも、新約聖書の「レプラ」を、ハンセン病と特定できない理由の一つです。 新約聖書の時代、今日のハンセン病は、「エレファンティアシス(象皮病)」と呼ばれていたことが明らかになっています。それが「レプラ」と言われるようになったのは、中世と言われています。ハンセン病は、「レプラ菌」による感染症であることは後述しますが、この「レプラ菌」という呼称は学術的に確定しているものの、新約聖書の「レプラ」という呼称とは歴史的に隔たっています。

ⅲ.諸訳において

 
 こうしたことから、聖書で「らい病」と訳されてきた「ツァーラト」、「レプラ」は、何の病であるか特定されておらず、したがって今日のハ ンセン病だと言うことはできません。最近の聖書翻訳をめぐる動きは、このような「ツァーラト」、「レプラ」理解が背景になっています。 まず、私たちの教団の公用聖書とされた、日本聖書協会「改訳口語体 (通称「口語訳」)聖書」では、「レプラ」は長く「らい病」と訳出されていましたが、2002年の版から「重い皮膚病」に改訂されています。 口語訳聖書においても改訂がなされたのは、「らい病」をめぐる問題が、 今なお深刻な問題であることを表しています。 日本聖書協会「新共同訳聖書」では当初、旧約聖書の「ツァーラト」 を「重い皮膚病」「かび」、新約聖書の「レプラ」を「らい病」と訳出していましたが、最近の版は「重い皮膚病」に改訂されています。いずれにしても暫定的な措置であると発表されました。 また、新改訳聖書刊行会「新改訳聖書」改訂第三版は、「らい病」と訳されてきた言葉を、「ツァラアト」、「ツァラアトの者・人」、「ツァラ アトに冒された(者・人)」と訳出しました。これも、特定の病気と結びつけることができないという判断によるものであり、暫定的なものとされています。そして、同聖書の「あとがき」にもあるように、「適切な解釈」が求められることになります。 このように、「口語訳聖書」、「新共同訳聖書」、「新改訳聖書」ともに、 古い版の聖書を使用する場合、適切な対応が必要です。

2釈義の問題

 
 聖書の「らい病」は罪の象徴ではない 釈義に関する一番の問題は、「らい病」の「症状」が罪の象徴と理解されてきたことです。特に「きよめ派」と呼ばれる教会では、きよめの教理と相まって、そのように語られることが多かったと言えます。
 

ⅰ.実例

 
 例えば、1992年10月に、ハンセン病療養所内の教会、キリスト者が、クリスチャン新聞に意見広告を出しました。そこに「らい病」についての聖書理解の実例が挙げられています。 一つは、ある教団の夏期学校教案で、その目標は「ナアマンのらい病を通して罪の恐ろしさを知る」となっています。「らい病というのは最初、体のあちらこちらに腫物ができて、やがてそれがひろがり、最後には体が腐っていく恐ろしい病気」、「らい病という病気は、人から人へう つるように、罪も人から人へうつっていきます」、「聖書は、罪人がどの ようなものであるかを表すために、らい病人として記しています」と記されています。これは、「らい病」についての誤った知識と、誤った聖書理解によるものと言わざるを得ません。 また、B・F・バックストンの「レビ記講義」には、「私どもはらい 病を忌まわしきものと思うように罪を忌まわしきものと思わねばなりません。またらい病という病気は本当にその性質から起こる病気です」などと書かれています。この1904年の初版がそのまま1991年に 再刊行されたことが問題視されていますが、聖書理解等の問題に加え、「らい病」についての認識が問題になっていると言えるでしょう。 これらは、意見広告に実例として挙げられているものです。いずれも 福音派、きよめ派と呼ばれる団体のものであり、私たちの教団の出版物にも見受けられます。 しかし前述のように、何の病気であるか分からない「ツァーラト」と 「レプラ」をハンセン病と特定することが誤りであるばかりでなく、ある病気の「症状」を罪の性質に置き換えるような聖書の読み方は慎まなければなりません。福音理解、そして人権感覚が問われています。 このように、罪と病の関係については、慎重に考える必要があります。 病気は、仏教で言う因果応報ではないと言ったり、病める者に対する神のあわれみを強調したりしても、問題の本質は見えて来ないでしょう。

ⅱ.罪と罰

 
 「ツァーラト」の釈義について特に問題になるのは、モーセの姉ミリ アム(民数記12:10~15)、エリシャの弟子ゲハジ(列王紀下5:27、15:2)、ユダの王ウジヤ(歴代誌下26:20~21)の三人が得た病についてです。
 
 まずミリアムは、モーセの地位に嫉妬し、モーセの妻が外国人である ことを口実としてモーセを非難した結果、「ツァーラト」になりました。 また、エリシャの弟子ゲハジは、ナアマンの贈り物を騙し取ったことを エリシャに指摘され、「ツァーラト」になりました。ユダの王ウジヤは、 高ぶって自ら香をたこうとして「ツァーラト」になりました。
 
 いずれもこの病が、罪に対する神の罰と理解されます。しかし、その 「症状」が罪の本質を表しているわけではありません。ウジヤ以外のユダの王についても、病が王の罪によると理解される箇所がありますが(歴代下16:12 、21:18 、26:20 )、そこに描かれ ているのは、足の病、内臓の病もあり、重い皮膚病だけではありません。
 
 ですから、とりわけ「らい病」の「症状」だけを取り上げて、罪の恐ろしさを説くことは、ハンセン病についての知識のなさだけではなく、罪の理解、ひいては救いの理解までもが不充分ということになります。
 
 罪と病の関係については、新約聖書に記されている、盲人であることはだれの罪のためかという、主の弟子たちの問いにも表れています。それに対して主イエスは、《本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼のうえにあらわれるためである》と言われました(ヨハネによる福音書第9章)。
 
 病に限らず、人間が経験するあらゆる苦難は、神との関係においてその本質的な意味があるのであって、大切なのは神の主権であり、《主よ、信じます》と告白して救われなければならない人間の姿でありましょう。
 
 ですから、どんな病を得ようと、あるいは健康であったとしても、人間はイエス・キリストによって救われなければならない罪人であることを、忘れてはなりません。そうでなければ、「らい病」は罪の象徴ではないと言ったところで、そこから福音を読み取ることはできませんし、ハンセン病患者の方々に対する配慮も 、浅薄なものにとどまるでしょう。

3適応の問題

 
 「配慮」が差別を助長する場合がある教会の働きにおいて、特に注意が必要なのは、礼拝説教と、教会学校の礼拝説教と分級でしょう。
 
 「重い皮膚病」に関係する聖書箇所が取り上げられる場合、その聖書テキストのメッセージを説き明かすのが説教ですから、「重い皮膚病」についての説明だけに時間を費やすことは、説教の本来の目的ではありません。しかし、そうであればなおさら「重い皮膚病」やハンセン病についての理解を確認しておく必要があります。持ち前の配慮や人権感覚によって、不注意にこの病について言及することは、思いも寄らない誤解を生じさせ、差別の助長につながります。

ⅰ.読み替えの問題

 
 まず注意すべきは、説教などを語る場合の「読み替え」の問題です。古い聖書を使用している場合、「らい病」と記されている部分を、「これは今日のハンセン病」と読み替えるのは誤りです。「らい」という言葉が差別的に用いられてきたため、今日この病を「ハンセン病」と呼ぶのが一般的です。教会でも、差別的な言葉であれば用いない方がよいと判断し、聖書の「らい病」を「ハンセン病」と読み替えてきました。しかし、何の病か分からないものを「ハンセン病」と読み替えることは、何の配慮にもなっていませんし、むしろ不適当です。これは古い版の口語訳聖書と、初期の新共同訳の新約聖書、古い版の新改訳聖書に当てはまります。教会に備え付けの聖書が古い版の場合も、適切に対応しなければなりません。改訂された口語訳と新共同訳では、これらの言葉は「重い皮膚病」、新改訳改訂第三版では「ツァラアト」になっていますが、これらの聖書を使用する場合も、「重い皮膚病」や「ツァラアト」を「ハンセン病」と読み替えることは誤りですし、そのように説明してもいけません。

ⅱ.内容について

 
 聖書の時代の「重い皮膚病」に冒された人の社会的立場を説明する場合、それを今日のハンセン病と関係付けるのは正しくありません。例えば、レビ記第一三章に記されているように、この病は《汚れ》とされたことや、自らを《汚れた者、汚れた者》と呼ばわらなければならなかったことなど、「重い皮膚病」に冒された人が、社会的に過酷な立場に置 かれたことは確かです。しかし、それを今日のハンセン病と結び付ける根拠はなく、ただハンセン病に対する偏見を助長することになります。
 
 さらに、この前提に立って、聖書の「らい病」は今日では既に怖い病 気ではないと説明することも、適切ではありません。これはハンセン病 に対する「配慮」に基づく説明なのですが、繰り返しますが聖書の「ら い病」はハンセン病ではないのですから、この「配慮」は逆にハンセン 病に対する誤解を生じさせます。ハンセン病に対する配慮は、正しくな されるべきです。
 
 また、「らい病」に関する聖書の物語には差別の意図はないので、「らい病」という言葉を使用しても構わないという考えもありますが、不適切です。特に新約聖書の場合、主イエスは「重い皮膚病」に冒された人々 を、分け隔てることなくお癒しになりましたから、主イエスにこの病に対する差別の意図がないことは明らかです。しかし私たちがそのメッセ ージを語る場合、今日の日本社会に対して語るのですから、「らい病」という言葉を使用することは、宣教の言葉として不適当です。
 
 そもそも、聖書のメッセージそのものに差別の意図がなくても、聖書を語る者には、差別意識は宿ります。自分には差別意識がないと思うこと、また自分の差別意識を問おうとしないことは、自己義認にもつながりますし、それに気づかないことが、「らい病」と信仰をめぐる教会の不幸な歴史の原因とも言えます。自分には差別意識がないと思う者にも 差別意識は宿ることを、私たちは歴史から学び、自らの言葉を吟味する必要があります。


Ⅱハンセン病について知る

 
 教会では、古くからハンセン病に対して「配慮」してきました。しかし、ハンセン病についての知識が不充分なままでなされる配慮は、本当 の隣人愛にはなり得ません。「らい病」を「ハンセン病」と言い換える などの配慮も、適切ではないことを見てきましたが、今日、それを「重い皮膚病」と読み替えたところで、教会の差別意識が払拭されると考えるのは大きな間違いです。 まずハンセン病について知り、教会がどのようにかかわってきたのか、学ばなければなりません。

1ハンセン病とは 治る病気である

 
 ハンセン病は、レプラ菌(らい菌)によって起きる感染症です。1873年に、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンによってこの菌が発見されたために、ハンセン病と呼ばれています。レプラ菌は、性質は結核菌に似ていますが、純粋培養法は見つかっていません。なお、「レプラ菌」という名称と、新約聖書の「重い皮膚病」の原語「レプラ」に は、歴史的に隔たりがあることは既に触れました。
 
 ハンセン病は伝染病ではありますが、実際にはレプラ菌の伝染性は非常に弱いものです。皮膚の接触などが感染の経路と言われ、皮膚が弱い 乳幼児期であれば感染の可能性はありますが、大人に対する感染力は極 めて弱く、療養所内で、入所者から職員に感染した例はないと言われているほどです。
 
 レプラ菌に感染してから発病するまでの期間は長く、3年から20年 あります。そのため古くから遺伝性の病気と考えられてきました。それはまた、優生思想に基づく、強制的な隔離や断種の原因ともなりました。
 
 ハンセン病に特徴的な症状は、末梢神経に表れるものであり、知覚麻 痺や運動神経麻痺などがあります。それらに起因する二次的症状があり、 それは手指、足趾の屈曲、切断、短縮、更に顔面に見られる変容(眉毛脱落、鼻柱の陥凹、顔面神経麻痺、顔面腫脹)などです。これらの症状がない限り、それをハンセン病と断定することは難しいとされています。
 
 また、感染の状況は、先の熊本地裁の判決文によると次の通りです。
 ①感染し発病するおそれが極めて低い病気である。
 ②患者数は激減している。
 ③それ自体、致死的な病気でないばかりか、自然治癒するものもある。
 ④プロミン等の医薬により治癒する。
 ⑤戦前から、隔離する必要のないことが国際会議で提唱されていた。
 
 このようにハンセン病は、隔離しなければならないような、特別の病気ではありません。

2 日本でのハンセン病の歴史

 不当な差別の歴史である
 

ⅰ.江戸時代以前

 
 日本におけるハンセン病の歴史は古く、既に「日本書紀」(720年) に「らい」という言葉があります。中世期には、仏教の因果応報の考え に基づき、前世に仏に背いた罰としてふりかかるものと思われていたよ うです。 江戸時代には、患者は神社の参道などで物乞いをしていましたが、遺伝病という迷信が定着していたため、隔離されることはありませんでした。それが、「うつる病気」と認識され、隔離が始まったのは開国以降のことです。

ⅱ.戦前

 
 1890年代
 
 患者の救済は、主に外国人宣教師によって行われました。御殿場に神山復生園を開設(1890年)したフランス人神父のテスト・ウィード、 熊本に回春病院を設立(1895年)したイギリス人ハンナ・リデルな どがその代表です。
 
 1907年「癩(らい)予防ニ関スル件」制定
 
 患者が、全く治療されずに放浪したり、物乞いをしたりしているのを、 欧米人から非難された明治政府は、近代国家としての体面を取繕うため、 患者を収容して隔離することにしました。そのために制定された法律が これです。
 
 実は、これより十年も前に開かれた「第一回らい学会」で、患者の隔 離は特別の場合以外は必要ないとされていました。しかし、その意見は取り入れられずに法律は制定され、それに基づいて、放浪している患者 の収容は強制的に行なわれました。およそ人間として扱っているとは思 えないような方法がとられました。
 
 1909年公立療養所の設立
 
 患者の隔離施設がこの療養所です。青森、東京、大阪、香川、熊本の 五ヶ所に作られました。医学的には、伝染力は弱いことは知られていた にもかかわらず、「らい病」は伝染する恐ろしい病気だと宣伝され、患 者の収容が行われました。患者がいた家や触った物などは、徹底的に消 毒されました。療養所内の患者の生活は、何の自由も認められず、殆ど 囚人と同じ扱いでした。逃亡を防ぐため、療養所内でしか通用しない通 貨を持たされたり、縞模様の服が支給されたりしました。 このように、従来の遺伝病という迷信に加え、強い伝染病という誤っ た情報によって、ハンセン病に対する偏見と差別意識は日本社会に定着 していきました。
 
 1915年男性患者への断種手術
 
 患者を「絶滅」させるための措置として、断種手術が行なわれました。 結婚は、断種を条件に許されました。後の「国民優生法」(1940年) では、断種は遺伝性の病気に対して行なわれることとなり、その趣旨は 戦後の「優生保護法」(1948年)にも引き継がれました。
 
 しかし、ハンセン病は感染症であって、遺伝性の病気ではありません。 それでも、ハンセン病は「優生保護法」でも断種の対象とされ、ハンセン病患者の断種は、1999年まで合法的な措置でした。
 
 1916年懲戒検束権
 
 充分な治療が行なわれず、逆に囚人扱いされた療養所の入所者たちと、 職員との間では、しばしば衝突がおきました。それを押さえ込むために、 療養所の所長の一存で刑罰を科せられるようにしました。それが、懲戒検束権です。各療養所には、監禁室が設けられました。
 
 1931年には、「国立癩療養所患者懲戒検束規定」が認可され、司法手続きがないまま、所長の一存で監禁室に監禁されるなどしました。
 
 1931年「癩予防法」成立と「無らい県運動」
 
 先の「癩予防ニ関スル件」が強化改定されたのが、この法律です。放浪する患者だけでなく、全ての患者を隔離の対象としました。
 
 そのために実施されたのが、「無らい県運動」です。密告、強制検診、 山狩りなども行われ、患者の「一掃」がはかられました。この運動の主 体となったのは、政財界人による「癩予防協会」のほか、都道府県など の役所、キリスト教を含む宗教団体、財閥などです。つまり官民一体となって、患者の強制収容と隔離が実施されたことになります。
 
 これほどの運動ですから、患者ばかりでなく、その家族も厳しい差別を受けることになりました。
 
 1943年医療薬「プロミン」の開発
 
 長く不治の病とされていたハンセン病ですが、アメリカで特効薬が開発されます。新薬「プロミン」です。ハンセン病に絶大な効果があると 報告され、日本には戦後入ってきます

ⅲ.戦後

 
1946年 国内での「プロミン」合成の成功
 
 敗戦後、新憲法が制定され、患者も選挙を行使できるようになりました。そして、国内でも石館守三教授がプロミンの合成に成功しました。当初は高価な薬でしたが、四八年には国家予算にも計上されるようになり、ハンセン病の治療は飛躍的に進みました。こうして、患者の人間性の回復が社会的に認められるかに見えたのですが、48年の「優生保護法」では断種・妊娠中絶が引き続き合法とされ、さらに療養所入所者の隔離継続を規定するため、「癩予防法」が改正されることになります。
 
1953年 「らい予防法」改正
 
 闘争民主化に伴い、療養所入所者たちは、基本的な人権を求めて立ち上がります。全国国立癩療養所患者協議会(現在の全療協)が発足し、隔離政策の見直しを求めました。それに対して厚生省は、旧法の強制収容や懲戒規定などを引継ぎ、強化する法案を国会に提出します。反対闘争によって、法案は一時廃案になるものの、再提出された法案は可決され、改正「らい予防法」が成立しました。不当な隔離政策が継続されることになったのです。国会審議に大きな影響を及ぼしたのが、専門家の証言でした。中でも、光田健輔ら三名の療養所園長の証言は、改正「らい予防法」成立の根拠となったと言われています。隔離は継続する必要があり、もっと強制的に行えるよう法改正すべきだと主張したからです。感染力の弱さや、プロミンによる治癒を知っている、専門家の意見でした。しかし、光田健輔はその働きが評価され、文化勲章を受けます。
 
1956 年 ローマ会議
 
 国際的には、ハンセン病は治る病気であることが認知されていましたが、ハンセン病患者の社会復帰に関する国際会議(ローマ会議)において、そのことが確認されました。そして、差別的な法律の撤廃や、正しい知識の啓蒙などが呼びかけられ、日本の強制隔離や断種・中絶などが非難されました。それでも日本は、「らい予防法」の見直しをせず、隔 離政策をとり続けました。
 
1954年 黒髪事件
 
 熊本市の黒髪小学校のPTA役員らが、療養所付属の保育施設に住む児童の通学に反対する運動を始めました。この保育施設では、両親が療養所にいる子どもが生活をしていましたが、子どもたちはハンセン病ではありませんでした。しかし通学反対派の人々は、ビ ラを貼り、多くの児童を休校させ、自習させる騒ぎとなりました。通学賛成のPTA役員は脅迫されたり、石を投げつけられたりしました。これは、ハンセン病に対する偏見を象徴するような事件ですが、その後も日本社会の差別意識は改善されていないことは、2003年に起きた宿泊拒否事件にも明らかです。
 
1960年代  軽快退所
 
 プロミンによって病が治り、「らい予防法」改正闘争によって社会復帰の意欲をもった 人々が療養所内でも増え、退所する人も出てきました。それに対して厚生省は、「軽快退所基準」を設けます。それは厳格な基準であって、退所を促すものではありませんでした。それでも60年代には多くの人が退所します。しかし、ハンセン病の治療は療養所内でしか行われていないため、退所すると治療の継続は困難になり、加えて偏見と差別に満ちた社会での生活は厳しいものでした。次第に再入所を余儀なくされる人が増え、それは退所者の数を上回るようになりました。彼らの社会復帰を支えるものが、日本社会にはなかったということです。
 
1996年 「らい予防法」廃止
 
 ようやく国は、「らい予防法」を廃止しました。そして、法廃止が遅れたことを謝罪し、一定の援助を始めます。しかし元患者らは、長年の強制隔離政策と人権侵害を問い、人権の尊重と差別・偏見の解消を目指して、98年、熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を起こします。翌年には同様の提訴が東京地裁、岡山地裁に対してもなされました。そして2001年5月 、熊本地裁は、らい予防法による隔離政策は違憲とし、国家賠償 を認める判決を下しました。それに対して、国は控訴せず、責任を認めました。これらの出来事は、ハンセン病と行政の関係において、大きな節目でありますが、日本社会の中で の偏見や差別とどう向き合うかという課題は、まだ残されています。

3 ハンセン病と私たち

 問われる私たちの信仰
 
 教会は、ハンセン病に対する「配慮」をしてきましたし、進んで差別をしようとするキリスト者はいないでしょう。しかし、私たちが意識をしていなくても、ハンセン病に対する偏見の助長に加担してきたことは、否定できない事実です。最後に、なぜそのようなことが起きたのか、私たちはどうあるべきかを考えてみたいと思います。

ⅰ.関係者の功罪

 
 まず、ハンセン病の問題に取り組んだ人物に焦点を当てます。日本のハンセン病の歴史を語る上で、避けることができない重要な人物は光田健輔(1876~1964)です。日本のハンセン病治療において、光田は多くの功績を残したとされ、先に紹介した文化勲章のほか、正一位勲一等瑞宝章など多くの賞を受けました。ハンセン病専用の病院を設立し、療養所の園長を務めました。岡山の長島愛生園は、光田の構想によるものです。
 
 光田は、晩年にカトリックの洗礼を受けていますが、壮年期には賀川豊彦や斎藤惣一らと日本MTL(Mission to Lepers)の発起人になっています。日本MTLは、日本人キリスト者による「救癩」活動を進めた団体で、先の「無らい県運動」で大きな役割を果たしました。
 
 生涯をかけたハンセン病の研究と治療、キリスト教精神に基づく「救癩」活動、「らい予防法」改正など患者の絶対隔離や断種の推進が、光田の中では一つになっていました。光田についての評価は分かれるところですが、安易に評価できない複雑さがあります。
 
 次に取り上げるのは、ホーリネスの関係者です。
 
 明治維新以降、ハンセン病患者に対する救済活動は、主にカトリックの神父や修道女、聖公会の宣教師らによって行なわれてきましたが、中田重治も早い時期から関心を持っていたようです。東洋宣教会ホーリネス教会においては、ハンセン病を患っていた伝道者、 安倍千太郎を中心にした「明星団」が草津など全国数ヶ所に設けられ、活動していました。これは医療活動ではなく、「特殊伝道」と呼ばれ、ハンセン病患者専用のトラクトな どが作られ、伝道活動が行われたようです。
 
 そして、この時代のホーリネス関係者で特筆すべき人物は、三上千代(1891~1978)で す。三上は、1910年頃に東洋宣教会聖書学院を卒業し、南伊豆や上諏訪の伝道館に遣わされていた女性伝道者でした。後にハンセン病患者のために奉仕することを決意し、三井慈善病院看護婦養成所、全生病院勤務を経て、聖公会のコンウォール・リー女史と共に、草 津でハンセン病患者のために看護婦として働きます。それは、先の明星団とは別の医療活動でした が 、草津を巡回した中田重治を迎えるなど、ホーリネスとの交わりは続いていたようです。そして、この頃いわゆる「大正のリバイバル」が起きました。機関紙「きよめ の友」には、既に看護婦として働いていた、三上の証しが載っています。リバイバル特有の激しい悔い改めの証しです。その後、独立して服部けさ医師と共に鈴蘭病院開設、すぐに服部医師が亡くなったため、光田健輔の援助によって、25年に鈴蘭村を開設します。その後、戦争末期の沖縄の療養所で看護婦長として働き、それらの働きが評価され、1957年 にナイチンゲール賞を受賞しました。三上や服部の社会貢献への主体的な意識は、当時の女性の中では相当に進んだものであったことは、この経歴からもうかがい知ることができます。そして三上は、「ライはキリストなり」と言っていたと伝えられていますが、キリストに仕えるようにハンセン病患者のために働いたその働きは、彼女の信仰に支えられていたと言えるでしょう。
 
 その一方で三上は、日本は天皇を頂く世界に比類なき国であるが、その中にあってハンセン病は、盛装した婦人の顔面の夥しい汚物、文明国の面汚しと言っています。これはハンセン病患者ではなく、病そのものを指している言葉とも読めるのですが、光田と同様、 この病をめぐって相反するものが、三上の中で一つになっていることは否めません。
 
 このような高い志と差別的な感覚という、一見矛盾するような要素が同居しているのは、実は、光田や三上に限ったことではありません。ハンセン病治療のために献身的に働いた人々の中に、多く見受けられます。

ⅱ.差別の構図

 
 このことを解明する手がかりとなるのは、「ナショナリズム」です。1907年の「癩予防 に関する件」が、らい学会の隔離の必要なしという意見を無視してまで成立したのは、それまで救済活動が外国人宣教師に負っていることを、日本の恥とする考えが働いたとも言われています。服部と三上が、リーから独立したのも、日本人による「救癩」活動という意識によるものでした。
 
 「癩予防法」が制定され、「無らい県運動」が盛んになった1930 年代は、満州事変からアジア・太平洋戦争へと突き進んだこの時代です。「日本民族」の優位性を説いて、アジア諸国への侵略を続けてきた日本にとって、この時期はナショナリズムのピークとも言える時期です。つまり日本のナショナリズムは、アジア諸国に対しては自らの優位性を誇示しましたが、国内の異質なものや弱者は差別し排除したのです。この時期に「癩予防法」が成立し、ハンセン病患者の強制隔離が徹底されたのは、「民族を浄化」するために、ハンセン病患者を「 絶滅 」させることがその本来の目的でした。
 
 日本MTLも、「救癩運動は愛国運動」と言って、祖国浄化を訴えま した。旧約聖書のレビ記などに記されている「らい病」の隔離を引き合 いに出し、ハンセン病の隔離政策を聖書によって根拠づけたり、患者に 対する理解、同情を愛と結びつけたりしました。つまり、ナショナリズ ムによって裏打ちされていた「無らい県運動」は、キリスト者にとって は信仰によって動機付けられた運動であったのです。
 
 このことを可能にしたのは、天皇制です。皇族がいくつもの慈善事業 に関係していることは知られていますが、「救癩活動」はその関係が深 かったと言えます。東京東村山市にある療養所「多磨全生園」内にある 資料館名も、「高松宮記念ハンセン病資料館」です。
 
 特に、「つれづれの友となりてもなぐさめよゆくことかたきわれに かわりて」と歌った大正天皇妃・貞明皇后は、救癩事業のために何度も 「下賜金」を与えています。その「皇恩、御仁慈」に応えることが、救済活動の大きな動機でありました。その要素は、今日も残っています。
 
 ここで問題なのは、貞明皇后の真意や皇族との関係云々ではなく、「皇恩」を掲げてアジアへの侵略戦争が美化されたのとよく似て、「皇恩」 を掲げることで、ハンセン病患者の強制隔離など人権侵害が正当化され てきたことです。ハンセン病「絶滅」は、「民族浄化」のために必要な 手段とされてきましたし、キリスト者の間では、皇后の愛の精神を具現 するのがキリスト者の隣人愛であるかのように語られました。
 
 戦前と戦後では、天皇制もナショナリズムも大きく異なっています。 それでも、ハンセン病に対する差別・偏見が、日本社会ばかりでなく、 教会の中で解決されてこなかったのはなぜでしょうか。天皇制社会に生 きる、日本の教会の自覚に問題があったのではないでしょうか。
 
 天皇制とは、単なるイデオロギーのことではなく、無意識の内にも差 別感覚を内包し、教会の福音理解にも影響を及ぼしている、日本社会の 構造的な精神作用です。これが、「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」で問題としている、教会の課題です。

まとめ

 
 教会が、偏見と差別を助長してきたという事実は、聖書の読み替え程 度では済まない根深いものであることを、私たちはまず知る必要があり ます。そして、福音を正しく宣べ伝え、神と隣人を愛するものでありた いと願わされます。

あとがき

 
 久しぶりのパンフレット発行となりました。これだけまとめるためにも、ずい ぶんと時間を費やしてしまったためですが、それでもこの問題についての理解は 到底充分とは言えません。このパンフレットを一つの参考として、学びがさらに 深められることを願っています。また、教団本部から車で一五分ほどの場所に、 療養所「多磨全生園」と「高松宮記念ハンセン病資料館」があります。教団本部 へお越しの際は、ぜひお寄りになると良いと思います。 パンフレット作成にあたり、聖書の釈義について、教理研究委員会にご協力い ただきました。感謝申し上げます。また参考にした主な図書等を記しておきます。
 
・犀川一夫「聖書のらい」新教出版社
・荒井英子「ハンセン病とキリスト教」岩波書店
・佐川修他編「ハンセン病資料館」高松宮記念ハンセン病資料館運営委員会
 
 
・長島愛生園入所者自治会 

http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/


・ハンセン病回復者とふるさとをむすぶ 

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/8952/


・聖書の中の「らい」の言葉の改訂ホームぺージ 

http://ww1.tiki.ne.jp/~uruooosima/


 

和解委員会パンフレット6
2004年3月12日
編集:日本ホーリネス教団 福音による和解委員会
発行者:内藤達朗
発行所:日本ホーリネス教団
 
東京都東村山市廻田町 1-30-1

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