りばいばる
2015年
11月号
教団委員の重責
信徒教団委員 内藤潤司
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(詩篇20:7)。
教団委員になって、6か月が過ぎようとしております。この間教団委員会だけでも11回開かれ、1回の会議が、朝から夜まで9時間に及ぶこともありました。それでも会議が終わらず、持ち越す議案のあることもあり、そのことにまず驚きました。会議が終わった後は、疲労と高揚感がどっと襲い、今までに経験したことのない感情に見舞われます。
普通2時間以上の会議は避けるべきだと言われますが、教団委員会は審議しなければないことが多く、それぞれの議案について知恵と深い信仰を必要とします。私は今、公益社団法人を始め3つの業界の理事をしておりますが、教団委員会は全く異なります。新人ですので、会議中はまず聞くことから始まります。以前に教団が決断したことが、実は当時の教団委員会の苦渋の決断だったことも知り、その議決について昼夜を問わず思い出されてならない議案もありました。このような重責の教団委員が、私に務まるだろうかと危惧を持つこともあります。
私は、ホーリネスの信仰の中で育てられたことを感謝しております。「御言葉」が与えられるまで徹夜の祈りをも辞さない青野雪江先生の生きざま。「御言葉」をにれはむことの重要性を解き明かしてくださった車田秋次先生。神癒の信仰に目覚めさせてくださった西村敬一先生。どなたも忘れえぬ先生方です。このような先生方の信仰の流れの中で、大学受験の会場で、詩篇20:7の御言葉が与えられ、この経験を契機としてさまざまな試練を私は祈りの内に乗り越えてきました。
大学紛争の渦中にも、医者をしている長男が、生まれて間もなく脳の後遺症の危険に見舞われたときも、二回の流産の後、前置胎盤で次男が生まれたときも、私はこの「御言葉経験」に支えられ祈って参りました。
「御言葉経験」を土台に、神さまへの真剣な祈りを積み、的確な判断のできることを祈りつつ、教団委員というこの重責を果たさせていただきたいと願っております。
10月号
「育つということ」
教育局長 錦織 寛
「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださる」(ピリピ1:6)
生まれる……それは本当に神秘的なこと、大きな喜びをもたらすことだ。教会でもやはり新しく主を信じて、神の子として生まれる人が与えられるということは、どんな喜びにも変えられない。天ではどんな喜びにもまさる喜びがある。今まで死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった、という大変革がそこにはある。そもそもいないといるでは大きな違いだ。この秋にも、さらに多くの主を知らない人々が主を知ることができるようにと心から願っている。
ただ、それで終わりではない。育つ、ということがその後に続く。そしてこの育つプロセスは、多くの場合ずっと長いし、地味だ。必ずしも劇的な変化が毎日起こっていくのではない。毎朝、主の前に近づき、静まり、御言の中にとどまる、そんな繰り返し、毎週礼拝を守り、兄弟姉妹の交わりの中にときを過ごす、そんな積み重ねが、キリスト者を作っていく。
キリスト者には転機が必要だ。聖書人物たちの実例も、歴史の中に生きた聖徒たちの生涯の証詞も、そのことを物語っている。転機としての恵みを求めるべきときがあるし、主が私たちに悔い改めを、献身を、信仰を迫られるときに、大胆に踏み出すべきここぞというときが確かにある。けれども、転機だけで信仰を育てることができるだろうか。もし転機しかなかったら、やけにバランスの悪いキリスト者しか生まれてこないだろう。今日歩む一歩は、必ずしも昨日と大きな差がないかもしれない。しかし、それが一ヶ月二ヶ月、一年二年と積み重なっていくときに、大きな違いになっていく。キリストの似姿を映すようになり、その品性が備わっていく。
それは主とともに歩み、信仰の先輩たちとともに時間を過ごす中で、映っていくものなのだ。私たちは一生変えられ続けていく。やがて主の御前に立って、そのみ姿を見、その似姿に変えられるその日まで、私たちには終わりはない。信仰良書に触れたり、研修に参加したり、またさまざまな学びを積み重ねていくのもよい。神は求める者に答えてくださる。与えてくださる。
地道に変えられ続けるということは、必ずしも、今の自分を否定することではない。さらに豊かな恵みを与えようと願い、祝福を備えて、私たちの前に立っていてくださる主を喜んで、子どものようにその御腕の中に飛び込んでいくことなのだ。
9月号
「内なる人は新しくされる」
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント4:16)。
現在、日本は国民の4人に一人が65歳以上となり、すでに高齢化社会ではなく、超高齢化社会と呼ばれます。ある地域の敬老会では、以前は70歳以上の方をお祝いしていたそうですが、今ではお祝いされる人とお祝いする人が一緒になったと言われました。教会はどうでしょうか。やはり高齢化は教会の現実です。教会から子どもたちがいなくなり、教勢面では停滞した状況です。個人の信仰生活を見ると、思うような奉仕ができなくなり、年金生活ですから献金も減らさざるを得なくなる……。
聖書は、この教会の高齢化や、個人の身体的な衰えについて、それが当然のことのようにして、「外なる人は滅びる」と言います。けれども大切なことは、「内なる人は日ごとに新しくされていく」ところにあります。たとえ見えるところの成長がなくても、神のいのちがあるなら内に成熟が進んで行くのです。
「外なる人」の成長は、神が与えられつつも努め励み、獲得していく面もあります。できないことができるようになり、活発な活動で生活は飾られ、高みに登っていくようです。ところが「内なる人」の成熟には、自分を飾っていたものを一つずつ外し、努力して得てきたものを手放し、できることができなくなる……そんな降って行く姿があります。成熟は行動ではなく、そのあり方に関わるのです。たとえトラクト配布ができなくても、奉仕が満足にできなくても、そして、教会の礼拝に行く力がなくなっても、それでも自分を卑下したり、役立たずなどとは思わない。自分の力が小さくなればなるほど、内にある宝物の輝きが増してくる。そこに信仰の成熟があります。
超高齢化社会の中にある教会の務め、老いながら進んで行くキリスト者の成熟、これらは大きなチャレンジです。そして、これらの課題について一緒に学ぼうとするのが、毎年行われる「奉仕局セミナー」です。「外なる人が滅ぶ」という時期を人生の夕暮れ時とも呼びます。しかし、夕日に染まる空は美しいものです。このような美しい、輝いた時を過ごすために、ご一緒に学び、備えてまいりましょう。
11月23日の奉仕局セミナーでお待ちしています。
8月号
「『イエスは主』との信仰を貫いて」
教職教団委員 佐藤 信人
「あなたはわたしのほかに、なにものをも 神としてはならない」(出エジプト20:3)。
この月、戦後70 年という大きな節目を迎えるにあたり、私たちの教団の過去の歩みを振り返ります。過去の歴史を振り返るのは、ただ過去の出来事を問題にするのではなく、今日の自分たちの信仰の姿勢を顧みるためです。
私たちの教団は、あの戦時下の厳しい状況の中で、政府による弾圧を経験いたしました。けれども私たちの教団は、国家に対する抵抗姿勢を最後まで貫いたわけではありませんでした。神格化された天皇制を支持し、神社参拝や宮城遙よう拝は いを行い、戦争協力を進めていきました。聖書の教えに反するものでありながらも、それらを国民の当然の義務とする政府の指導を、教会運営の指針としたのです。その結果、イエス・キリストの父なる神を礼拝しながらも、同時に天皇をも神として礼拝するという歪んだ姿勢を生み出しました。
このようなことを教会で話題にしますと、それは信仰とは直接関係のない「社会問題」とみなされたりいたします。しかし、この戦時下の私たちの教団の問題は、極めて信仰の問題です。私たちが何を信じているのか、その信仰の本質が問われているのです。
戦後70年を迎え、かつての戦時体制へと逆戻りするような危険な動きがいくつも見られる中で、問われていることは昔も今も変わりません。この世の国が何を言おうとも、私たちが聖書を信仰と生活の唯一の規範とするか否か、そしてイエス・キリストだけを礼拝する、「イエスは主」との信仰を貫いて生きるか否かということです。かつて、「ローマ皇帝は主」と告白することが強要される中、キリスト者たちは命をかけて、「イエスは主」と告白しました。そのように、「イエスは主」という告白は、イエス・キリスト以外のいかなる存在をも神とはしないという、この世に対する私たちの命をかけた信仰の告白です。
しばしば、「伝道のためには、こういう話題には触れないほうがいい」という声を聞くことがあります。確かに、そのほうが一般の受けはいいかもしれません。しかし、信仰の根幹をなす「イエスは主」という告白の意味を曖昧にしたままで伝えられる福音とは、果たして真正な信仰と言えるかどうかがまず問われるべきでしょう。
戦後70年を迎える今、「イエスは主」と告白する信仰だけが、神ならぬものを神として拝む愚かさから解放してくれるものと信じ、この告白にひとすじに生きる私たちの教団でありたいと願います。
7月号
「その実が残るためです」
財務局長 間室 照雄
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16新共同訳)。
セントポーリアというかわいい花がありますが、これと同じ仲間で、さらに大型の花を咲かせる、ストレプトカーパスという花をご存じでしょうか。名前の由来は『ねじれた実』からきています。ねじれがバネになっていて、熟した種がその鞘に触ると、はじけて種を飛ばします。ホウセンカやかたばみも同じで、その鞘に触ると種がはじけて、多くの実を飛ばします。種を飛ばして、新しい命をつなぐためなのです。
先日、梅の実を収穫しているときのことです。どっさりとたわわに実った枝があるかと思うと、ほとんど実をつけていない枝がありました。なぜだろうと考えているうちに、冒頭の御言葉が浮かんできたのです。太くてまっすぐ天に伸びている枝には実がなく、小さな枝には実がついているのです、おそらく花芽ができるときに、勢いの強すぎない枝には実がつき、強すぎる枝には実がついてないのではないかと思いました。梅の実は鳥や動物によって木から離れたところに蒔かれるのですが、我が家の梅の木も垣根の中で、いつの間にか芽生え大きくなったものです。大きくなり収穫が困難になったために、太い枝を切って、こじんまりと枝を整えました。そして3年経った梅の木です。
自然界では古い木は枯れ、蒔かれた種が育ち、その木がまた実を結んで、新しい命を創り出していきます。何百年の年月にわたって、命が受け継がれています。信仰の世界も、親から子へ、子から孫へ、さらには友人からそのまた友人へと信仰が受け継がれてきました。実が残るとは、そういうことなのではないでしょか。花が咲けばミツバチが交配を助け、多くの葉がその実の成長を促します。実った実はいい香りがし、黄色く色づいて、動物に食べられ、さまざまな方法で蒔かれるのです。
私も実を残すために、強すぎる枝でなく、弱すぎない枝になりたいのです。神さまの恵みをいただくのに必要なのは、砕けた魂なのですから。
小さな者の働きのためにもお祈りください。
6月号
「わたしはよい羊飼」
総務局長 島津 吉成
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。(ヨハネ10:11)
「わたしはよい羊飼である」と言ってくださる主イエスは、私たち一人ひとりを、教会を、そして教団を養い育ててくださいます。では、よい羊飼いでいてくださる主は、どのように養っていてくださるのでしょうか。その主な内容は、癒し・支持(共にいて支えること)・導き・和解の4つだと言われます。
私は、兄たちによってエジプトに奴隷として売られて行ったヨセフに対する主のお取り扱いの中に、主がどのように養い育ててくださるのか、という具体的な姿を見ることができるように思います。
ヨセフは、兄たちによって奴隷として売られたのですから、兄たちを恨み、心に深い傷を負ったとしても不思議ではないでしょう。しかし、ヨセフは売られて行ったポテパルの家でも、濡れ衣を着せられて獄に入れられた時も、さらにエジプトの王から政府の高官に取り立ててもらった時も、謙遜さを失わず、忠実に仕える者であり続けることができました。これは、ヨセフがどこにいても、「主が共にいてくださる」という主の支えの中で、彼が励まされ、慰められ、そして癒されて行った結果だったのではないでしょうか。以前のヨセフは、これを言ったら兄たちはどう思うか、ということに無頓着で、思ったことをそのまま言ってしまう少年でした。しかし主の癒しは、彼の心の傷を癒しただけではなく、自分の至らなさに気づかせ、彼を謙遜な人に造り変えたのです。癒しによる回復は、単に元通りにすることではなく、前よりもさらに豊かなものをその人にもたらすのです。
また、食料を求めてヨセフのもとに来た兄たちが、ヨセフを売ったことを悔やんでいる姿を見たとき、彼は声をあげて泣き、兄たちを赦し、和解することができました。そして、「わたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」と言うことができたのです。彼は、自分の辛かった過去を、神の視点で見直すことができました。そのとき、彼の過去は癒され、「神の民を救う」という神のビジョンに生きる者へと導かれたのです。
主は深い御旨の中で、愛をもってヨセフを養い育て、彼を、癒し、共にいて支え、導き、ついには和解をもたらす器としてくださいました。ヨセフをこのように養い育ててくださった主は、私たちの牧者でもいてくださり、私たちをも養い育ててくださいます。そして主は、この恵みを証しする器として、私たちを遣わし、用いてくださるのです。
5月号
主イエスの弟子であるということ
東京聖書学院長 錦織 寛
自分の十字架を負うてわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない(ルカ14:27)
主を信じる者はすべて主の弟子です。信じている、キリスト者ではあるけれど、弟子ではないというのは言葉の矛盾です。それでは、私たちはどのように主の弟子となるのでしょうか。一生懸命何かをし、宗教的実践を積みましょうか。それも大切なことです。しかし、どんなにすばらしいキリスト教的実践を積んだとしても、もしあなたが主を愛し、十字架を負って主に従う道に生きていなかったら、あなたは主イエスの弟子ではありません。
ここで主イエスは、主の弟子である私たちに何を求めておられるのでしょうか。
1 捨てる
自分の家族も、財産も、命も捨てる、ということが主イエスの弟子であるためにはとても重要なことです。ここで「捨てる」というのは、決して粗末にするということではありません。これは優先順位の問題です。あなたの一番愛するものは何ですか。第一でないものを「捨てる」ことができますか。
2 主イエスについていく
主イエスのもとに行き、主イエスについていくということです。「自分の十字架を負って」とイエスさまはおっしゃいました。主は私たちそれぞれにも負うべき十字架を備えておられます。十字架は本来は負いたくないものです。そこには痛みが伴います。人に理解されないかもしれません。しかし主は、十字架を負って従って行くものを、必ず祝福してくださいます。
今、神の畑は色づいて刈り入れを待っています。収穫は多いのに、働き人は少ない。神の畑は、猫の手も借りたいくらい忙しい。しかし、どんなに猫の手があっても、必要なのは十字架に生きる猫の手です。それ以外の手は、どんなに立派であってもあまり役に立たない。逆に言ったら、あなたが主の語られたように、自分の十字架を負って、十字架の主イエスについていったら、あなたがいろいろな弱さやゆがみを抱えていたとしても、主があなたのことを祝し、用いてくださるのです。
あなたには覚悟がありますか。「私には覚悟があります」という人も、きっと神さまはそのあなたの覚悟をゆすぶられるでしょう。しかし知ってください。実は「自分の覚悟」というのは何ともあてにならないものです。しかし
主は、主に信頼するあなたをその手の中に置いて、十字架を負って主イエスについていく主イエスの弟子へと造り上げてくださいます。主ご自身がまず、十字架を負って歩んでくださったからです。
4月号
…この土の器にも…
教団委員長 中西 雅裕
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Ⅱコリント4:7)
三浦綾子さんの自伝的代表作「道ありき」の第2部は、この御言葉から「この土の器にも」と題がつけられました。肺結核と脊椎カリエスに病み、長い間の療養生活を強いられ、無理の利かない身体。しかし、このような状況の中にも、宝を持っていると、この土の器の中に。私たち一人ひとりも土の器です。脆く弱い存在です。肉体面に限らず、精神的・霊的にも、すぐに重荷につぶれ、気持ちが萎えてしまいがちな私たちです。しかし、こんな私たちであっても素晴らしい宝を持っているとパウロは私たちを励まします。
この宝とは、文脈からはキリストの栄光の輝き(4)、あるいは、新しい契約(3:6)と言えるでしょう。笹尾鉄三郎牧師は内住のキリストだと言い切っています。イエスさまに出会い、この御方を主と受け入れたときから、私たちはこの宝を持っているのです。罪と自我という悪臭を放つ泥水から、神の与えたもう恵みの宝石へと私たちの中味が変わったのです。そしてこの宝から、測り知ることの出来ない力が出て来ると言うのです。
この宝を持っているからこそ、パウロは続けて書きます。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(3:8~9)。何があっても、どんなことが起こっても、立ち上がらせ、課題に立ち向かい、乗り越えさせる力が現れると。これがまさしくイエスさまが約束された平安です。「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」(ヨハネ14:27)。
パウロはここで私たちと書きました。私パウロだけでなく、あなたがたもみなこの測り知れない力のことを知っているではないかと。この力によって立ち上がった、課題を乗り越えた、慰められた経験が私たち一人ひとりにあるではないかと。この力は今も私たちに働くのです。働き続けているのです。あなたに、そして教会に。私たちが生きている時代、直面する現実、そして将来は厳しいものがあります。しかし、こういう時代だからこそ、喜んで自我に死に、イエスのために生きる「この宝を土の器の中に持っている」生き方をしていきたいと願うのです。諸先輩方から手渡されてきたこの宝を、この世の人々に手渡し続ける私たちとして。
3月号
知恵をもって歩む者は救を得る 箴言28:26
総務局長 平野 信二
教団委員としての4年間を振り返り、改めて私たちの教団に与えられている知恵に驚きを感じています。教団の歴史や組織、規則などについて知っているつもりでいましたし、教育局長として、新卒者や正教師志願者の方々に規則の大切さを伝えてきました。しかし、とくにこの2年間は総務局長として申請、要望、交流、交渉、問題処理の窓口など多岐にわたる働きをする中で、いかに自分が規則を知らなかったかを痛感しました。また、個々の規則は理解していたとしても、複数の規則の関連性、それぞれの規則の背後にある精神を知ることは、神さまの恵みに関する新しい発見の連続でした。
現在、各教会に配付されている「諸規則集」は、2008年9月に発行されたものをベースに、規則が改正、新設されるごとに差し替え版を送付することによって改訂してきました(みなさんの教会にある「諸規則集」は最新版になっているでしょうか)。教憲・教規の下に種々の規程や細則が定められ、さらに指針、ガイドラインなどが定められることによって、誰もが同じ理解に至り、公平・公正に運用されるように工夫されています。人の記憶やそれに基づく判断は必ずしも一定ではありませんので、誰にもわかるかたちで基準を表すことは、ひとつのキリストの体なる教会としての教団運営にとって重要なことです。
規則というと、どうしても縛りつけるような息苦しさ・堅苦しさや、律法主義的な響きを感じるかも知れません。しかし、教団の諸規則には、先達の祈りと信仰に基づく知恵が込められています。どうしたら私たちに託されている使命を全うし、神の栄光を現すことができるかを問うてきた営みの結晶と言ったら言い過ぎでしょうか。確かに、規則が生み出された背景には、罪や過ちがあったことも否めません。だからといって、規則を否定したり、不要とすることはできません。そこで気づかされ、悔い改め、神の赦しと回復の恵みに与ったことを記憶するため大切にすべきものなのです。今後も、状況の変化や起こってくる諸問題に対応するため、あるいは、規則の不備を改めるために規則の新設や改正がなされるでしょう。私たちがそのように与えられた規則を神からの知恵として生かし、それに則って教団の歩みを進めていくことがさらなる祝福に繋がると信じます。
2月号
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29
奉仕局長 内藤 達朗
年間予定では、昨年の7月の巻頭言が最後の予定でしたが、図らずも、パウロの手紙のように最後が2回来ました。
私たちの救い主は、「罪からの救い主」です。励ましてくださったり、必要を満たしてくださったり、癒してくださったり、守ってくださる方ではありますが、私たちを罪から救い、罪を取り除いてくださる方です。バプテスマのヨハネも、弟子のヨハネもイエスさまをただ一つ、「罪を取り除く神の小羊」として紹介、否、宣言しました。罪が赦されるということはすばらしいことです。ですから、クリスチャンの私たちはその恵みの体験の故に、平安で希望を持って、喜んで献身して主に仕えることができ
るように、生かさせていただいているのです。
私たちの教団の信仰の姿勢は、神さまに対して罪を悔い改めることを強調してきました。現代の教会では、「あなたは高価で尊い」「ありのままで良い」「愛されるために生まれた」などが強調されてきました。それは一部の真理です。しかし、それが強調されることで、「変わる必要はない」「そのままでいい」「解決は無くてもいい」となる可能性もあります。心理学が発達し、まるでそれによって解決が得られるかのような風潮もあります。人や自分を理解するために、私も心理学を利用させていただいています。しかし、それが人の問題の根本を解決す
るわけではないでしょう。
ヨハネたちは、問題は罪であって、罪を取り除かれる必要があり、その罪を取り除くことができるのは十字架にかかられた神の小羊、イエスさまだけだと宣言しています。そして、罪が赦される経験によって罪が取り除かれるのだ、と言っています。
当教団が戦争責任告白を出したとき、私たちの罪を告白することができました。それ以来、今まで以上に、私は過ち、罪を告白することが容易になりました。「K元牧師性加害事件検証報告」にも積極的に応じることができました。当時の対応が適切であったかどうか、当時の教団委員長とともに、総務局長として対応したことを検証してもらいました。罪は赦されても、その責任を負う必要があります。
「罪を取り除く」は、元訳では「罪を任おう」、文語訳では脚注に「罪を負う」となっています。十字架の上で主が私の罪を引き取り、負ってくださった恵みは私を限りなき命に生きさせます。イザヤ53章を心に留めつつ、この恵みを伝えるものでありたいのです。
1月号
主なる神はわたしの力!
教団委員長 中西 雅裕
「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」(ハバクク3:18~19a)
預言者ハバククは、「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれてくださらないのか」と祈りはじめます。神の民たちの中に暴虐があり、目の前で略奪、論争、闘争が起こり、公義が曲げて行われている有様だからです。神さまは答えてくださいました。しかしそれは、遠くカルデヤ人を起こして民を裁くとのハバククには理解できない答えでした。ハバククはまた訴えかけます。「あなたを知らない凶暴なカルデア人の侵入を許して民を裁くとは、あなたのきよさに矛盾するのではありませんか」。その神さまを待ち望むハバククへの答えは、さまざまな道のりを通ることがあったとしても、最後には神さまは高ぶる者たちを必ず裁き、信仰によって生きる者を救われるということでした。
ハバククは、神さまの遠大な御計画のすべてを理解できたわけではありませんでした。しかし、彼はこの神さまを信じたのです。そして、その御方こそが、「主なる神はわたしの力」であるとの喜ばしい告白にハバククは導かれて行くのです。このお方は、「わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」のです。現実がどうであれ、今しばらくの困難が見えたとしてもこの御方に寄り頼み、この御方を信じて生きて行くときに、「わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ」ことができるようになるのだと。
この時代の中で、教団をみるときにさまざまな課題があります。祈り続けなければなりません。しかし、その中で「主なる神はわたしの力」でいてくださるのです。何と感謝なことでしょう。昨年、わたしたち夫婦も、祈っても祈ってもどうにもならなく見える課題の中におかれました。そのとき、「主も彼らと共に働き」(マルコ16:20)の御言葉が与えられ、支えられました。「主なる神はわたしの力」だと実感させられる経験でした。現状はなかなか進展しません。しかし、その中で毎日ともに「あなたを信じます」と告白していく中で、言いようもない平安に満たされていきました。「主なる神はわたしの力」なのです。
今与えられている問題が、すぐに好転するわけではないかもしれません。何故だろうと思う方向に行くように見えるときがあるかもしれません。しかし、主を信じて「主なる神はわたしの力」と告白しながら、この新しい年を歩みだしたいと願います。人生の力の源泉が神にある生き方に導かれた幸いな者たちとして。
2014年
12月号
「祈りの結実としての幻」
信徒教団委員 伊藤 聖治
「香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。」(ルカ1:10~11)
イエスさまが誕生された当時のイスラエルの祭司にとって、聖所に入って香を焚く当番に当たることは、一生に一度あるかないかの極めて光栄なご奉仕であったと聞きます。年老いた祭司ザカリヤにとって、一世一代の大仕事であったことでしょう。緊張しつつ神さまの御前に香を焚くザカリヤの前に、突然、御使が現れ、やがてイエスさまの御降誕にまでつながる最初の大切な預言を告げられました。
この箇所は、祭司であるザカリヤにスポットが当たりがちですが、その背後には神殿の外で心を合わせて祈る多くの民衆がいたことを聖書は記しています。ローマ帝国の支配下で苦難の生活を強いられていたイスラエルの人々が、メシヤの到来を今か今かと待ち望みつつ祈る切なる祈りに応えて、神さまはザカリヤに御使を送り、御救いのよき訪れを告げ、預言が成就する幻を見せてくださいました。
私事ですが、今年度で信徒教団委員の任期を終えようとしています。教団の組織も運営もよくわからず、交友関係も広くない者が信徒教団委員に選出されたことは畏れ多いことで、まさに聖所の勤めを行うくじに当たったザカリヤのような気持ちでした。教団を代表する者の一員となる重責に、果たして責務を全うすることができるだろうか、サラリーマンですから仕事との兼ね合いをどうしようかと、不安で押しつぶされそうでした。この重大な務めに相応しい者ではないことは、誰よりも自分が一番良く知っています。それでも憐れみ深い神さまは、約4年間の任期を守ってくださり、困難な教団運営の中にもユースジャムやネヘミヤプロジェクトなど、明るい未来につながるいくつもの幻を前進させてくださいました。それは自分が何かを為し得たからではなく、背後で祈ってくださった教団の先生方、信徒のみなさまお一人おひとりの祈りの積み重ねに神さまが応えてくださった結実であり、主の幻を拝させていただく恵みに与ることができた幸いに心から感謝しております。
新しい年を迎えようとする今、どうか引き続き教団のためにお祈りください。教団運営を委ねられている教団委員会のために、教会を牧会なさっている先生方お一人おひとりのために、私たちが一致して祈るとき、その切なる祈りに神さまは必ず応えて、困難な現実の中にも壮大な幻を垣間見させてくださり、希望の明日を開いてくださると信じます。
11月号
「徹底して仕える恵み」
教職教団委員 佐藤 信人
「水をくんだ僕たちは知っていた」(ヨハネ2:9)
今月24 日、祈り待ち望んで参りました第8回全国信徒大会が開催されます。千葉教区を中心とする実行委員の方々は、最後の準備に忙しくしておられることでしょう。
わたしが遣わされている仙台の地でも、4年前、東北教区と奥羽教区の共催で第7回大会が行われ、全国から四百名を超える方々が参加してくださいました。当時、わたしは東北教区の教区長として、顧問という立場で実行委員会に加わっておりました。この信徒大会は、教育局の中の「信徒教育」という部門の働きとされています。すなわち、これを単なるイベントとして行うのではなく、信徒教育の一環として行ってほしいということでしょう。そこでわたしは、最初の実行委員会が行われたとき、委員のみなさんに次のようにお話ししました。「今回の信徒大会を引き受けるにあたり、開催に向けて準備をしていくこと自体が、教会形成や教区活動に大きな
益をもたらすものと信じて、行ってほしい」。
約2年間にわたって準備を進めていく中で、実務を担当した者たちに求められたことは、「仕える」ということでした。さまざまな事柄を話し合いによって決めていきますが、ときには自分の考えとは異なる結論が出ることもあります。また願っているような協力が得られず、自分たちばかりが奉仕を担っている、というときもありました。それでも、主から委ねられた務めとして、徹底して仕えていくことが奉仕者に求められました。
このことは、それぞれの教会においても同じでありましょう。役員をはじめ、すべての奉仕者は、徹底して仕えることが必要となります。そのとき必ず、「己に死ぬ」という信仰の大きな課題に直面することになります。聖化の重要なテーマであるこの「己に死ぬ」ということは、痛みが伴うものです。自分の思いや願いを貫きたいという心と闘い、そこでこそ、「イエスはわが主」と告白することが求められるからです。わたしは最近、「己に死ぬ」ということは、痛みを負いながら本当に死んでいくことなのだなあと思わされています。そして、私たちが己に死に、キリストとその教会に徹底して仕えていくとき、それをとおして神のすばらしいみわざが進められていきます。それは、主のしもべとして仕えている者だけが知ることのできる大きな喜びです。
この秋、キリストと教会に徹底して仕えていくことの恵みと喜びが、全国の教会に広がっていきますように。
10月号
「二つの平安」
信徒教団委員 矢田 澄枝
(ヨハネ一四27)
いつも前向きで、はつらつとしている世の人たちに接すると、「その秘訣は何ですか?」と逆に質問してしまうことがあります。クリスチャンではないのに輝いている彼らが不思議に思えたからです。
あるとき聖書の中に、『世が与える平安』という意味合いの御言葉に出会いました。「そういう平安もあるのだ」と、ふたつの平安の存在に気づいたのです。
イエスさまは十字架にかけられる前に、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ一四27)と約束してくださいました。「この平安は、この世が与える平安とは比べものになりません」(リビングバイブル)と断言なさったのです。
じつは、世の人たちもこの変わらぬ「平安」を求めていることもその先にある答えであることを知りました。
ここ数年、世界的な規模で災害、事件、戦争等が立て続けに発生し、「主よ、助けてください」と祈ることしかできない者です。と同時に、そのような事態に自分が置かれたらどうなるのだろう、という恐れがいつも心の中に
あります。
去る6月に開かれた「第12回関東連合女性大会」で、講師の佐藤彰先生を通し、私どもが一番知りたかったことをお伺いすることができました。「すべてを失った中にも確かに主は生きておられる」ということです。最期のひと息にいたるまで、「わたしの平安を与える」との約束は真実であったのです。
復活の日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸にしっかりと鍵をかけ、肩を寄せ合うようにして集まっていました。そのとき、突然イエスさまが中に入られ、「平安があるように」と挨拶をされたのです。8日たったのちにも、同じようなことがおこりました。(ヨハネ二〇19~26)
火の中、水の中、恐怖に怯えるただ中にも、主は現れてくださるのです。そして、人間の力や理解をはるかに超えた神さまの平安を与えてくださることも主のお約束であります。パウロはそれを、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(ピリピ四7)と表現しています。なんという恵みでしょう。
さて、教団では4年に一度の「全国信徒大会」を千葉県にて開催いたします。「シャローム」という挨拶をもって、「主の平安」をともに喜べたら幸いです。
9月号
「喜びの礼拝への招き」
教職教団委員 佐藤 信人
「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。」(詩篇95:6)
わたしが牧師になってからの最大の衝撃は、自分はこれまで礼拝をしてこなかった、という驚くべき事実に気づいたことでした。「礼拝」という名のつく集会には生まれたときから出席していましたが、本当の意味で神を礼拝していなかったのです。親元にいたときのわたしにとり、礼拝は無理やり出させられるもの、「ほふり場にひかれて行く小羊」のような心境でした。わたしだけではありません。周りの大人たちを見ても、父が説教をしている間、じっと目をつぶり、ひたすら耐えている修行僧のようでした。その頃のわたしは、礼拝とは何かがわかっていなかったのです。
礼拝とは、神の前にひれ伏し、拝むことです。しかし、わたしには「神を拝む」という意識はほとんどなく、「説教を聴く」という受け身の姿勢に終始していました。礼拝が聖書講演会のようなものとなり、そこで神を拝むことをしていなかったのです。説教が礼拝の中心であることに間違いはありません。けれども大切なことは、御言葉の説き明かしをとおして描き出されるキリストに向かって、「あなたこそ、わたしの主」とひれ伏し拝むことです。普段の生活の中で、知らず知らずのうちに自分が神になってしまっているところから向きを変え、「わたしではありません。あなたこそわたしの主、わたしの神です」とひれ伏すこと、それが礼拝です。
礼拝とは何かがわかったとき、すべてが変わりました。礼拝こそ、クリスチャン生活の中心であることがわかったのです。救われるとは、それまでの「わたしが主」という生き方がひっくり返って、「イエスこそわたしの主」という生き方に変わることです。きよめとは、「イエスはわが主」という告白が、わたしたちの生活の隅々にまで、貫かれていくことです。そして、伝道とは、「イエスはわが主」と告白する礼拝共同体を形成することであるとわかりました。
礼拝とは何かがわかったとき、礼拝は喜びとなりました。それは誰かに強いられてするものではありません。神が神であることがわかるとき、そのお方のみ前にひれ伏すことは、わたしたちにとって何よりもの喜びとなります。詩人はそのような喜びの礼拝へと、わたしたちを招いています。
「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。」
毎週の礼拝において、「あなたこそ、わたしの主」と告白する、真実な礼拝をささげようではありませんか。
8月号
「聞く心をしもべに与えて」(列王紀上3:9)
教育局長 錦織 寛
神がソロモン王に「あなたに何を与えようか、求めなさい」と言われたとき、イスラエルの王になったばかりの若いソロモンは「聞きわける心をしもべに与えてください」と求めました(列王紀上三9)。そして、神はソロモンに応えて、神の知恵を与えられたのでした。このところで、「聞きわける心」と口語訳聖書で訳されている言葉は、直訳すると「聞く心」となります。このところで、聖書は、知恵とは聞く心だと言います。
1.神の言を聞く心
私たちにとって何よりの知恵は、神の言を聞くということです。サムエルは「しもべは聞きます」と祈りました(サムエル記上三10)。旧約聖書の人物たちは文字通り、神からの直接的な語りかけを聞きました。そしてイスラエルの民は、預言者や王たちの語る神の言を聞き、また祭司たちの読む聖書の朗読を聞きました。まさに聖書はもともと耳で聞くものでした。聖書を読むというだけでなく、聖書を読んでもらって聞いたり、また自分で音読しながら耳で聞くこともとても大切な習慣だと思います。しかし、主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったように、音としては耳に入っていても、心で聞いていないことがあります。私たちは、私たちを生かす命の言である神の言をしっかり聞いて従うお互いでありたいと思います。
2.人の言葉を聞く
「聞くに早く、語るにおそく」(ヤコブ一19)とありますが、私たちはすぐにしゃべりたくなりますし、たくさん聞いてもらいたくなります。それも大事なことですが、私たちは同時に人の話に耳を傾け、心を傾けて聞き合うことのできるお互いでありたいと思います。私たちはすぐに教えたくなりますし、またアドバイスしたくてうずうずしてくるものです。とことん「聞く」ということは謙虚でないとできません。まさに「聞く」ということは愛することでもあるのです。
ソロモンは「聞く心をしもべに与えてください」と求めました。それは、神が自分に託しておられる務めを全うするためでした。そして、ソロモンは自分の中にそれがないこと、自分がそれを必要としていること、そして、神は自分にその賜物を与えることがおできになることを知っていたのです。私たちも神に聞き、人に聞く心を与えていただこうではありませんか。
7月号
「いのちに命で応える生」
奉仕局長 内藤 達朗
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ3:16)
私が本紙の巻頭言を書かせていただくのはこれで最後だと思います。それで、私の一番大事にしてきたことをお伝えさせていただこうと思います。
私はこの御言葉の恵みで生かされてきました。イエスさまはこのようなどうしようもない者のために、「いのち」を、文字通り捨ててくださいました。このイエスさまの、私のような者への思いを通し、私のような者が愛されているという恵みを感じてきました。ですから、このイエスさまに対して、少しでもお役にたてればと思い、今日まで生きてきました。
決して順調な日々ではありませんでした。努力をしても結果がでるわけではないこと、自分の責任ではないことを負う、自分がしなければならないことではないことを負う、これをして何の意味があるかなど、さまざまな矛盾、不条理と思われることに出会いました。しかし、そのたびごとに、この御言葉は私の力となりました。主がこんな者に与えてくださった恵みだと受けとめさせていただくとき、これによって少しでも主のご愛にお応えさせていただけるなら、うれしいと思いつつ歩んでまいりました。
すると不思議にも、それぞれがどんなに幸いなことであったのか、それが誰かのお役にも立っているということが長い年月の後にわかるとき、言い知れない喜びがあふれてきました。それだけではなく、申し訳ないことですが、それらを通して、自分にも恵みが与えられ、次の奉仕のための大事な備えになっていることを発見すると、なんと感謝してよいかわかりません。
最近、自分のこれまでの生活を振り返ることがときどきあります。確かにいろいろなことがありました。しかし、それが思い出されるとき、その困難なこと、辛いことより、その結果生みだされた恵みを思い、よかったなあと思っている自分を見い出します。
こんな幸いな生涯に入れていただいて、今日まで歩ませていただいていることを、心から主に感謝しています。これからもこの恵みを伝えていきたいと願っています。
6月号
「わたしよりも大きなわざをおこなう」〔ヨハネ14:12〕
財務局長 間室 照雄
「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」 (ヨハネ14:12・新改訳)
イエスさまの行ったみわざ、それは水をぶどう酒に変えたり、病気を癒したり、死んだラザロを生き返らせたり、盲人の目を癒したり、5千人の給食などです。牧師から「皆さんはそれができると信じますか、イエスさまのようにできると信じていますか」と問われ、信じていなかった自分に気がつくのです。さらに牧師は語ります。「イエスさまが私たちの内におられて、みわざをなしてくださるのです。私たちがするのではなく、イエスさまが私たちを通してなさるのです」と。
2月14日に降った大雪によって、私のとこ
ろでは約3百坪のビニールハウスが倒壊し、一時は茫然としました。間もなく私には新たなビジョンが与えられていました。この経営を再構築することを。その後、多くの主にある兄姉の援助もあって、つぶされたところが片づけられ、修復され、古い温室で無駄に使われていたところがリニューアルされて、新たな温室に生まれ変わりました。まさに、主が共におられて導いてくださったのです。
3月7日、私は温室の修理の最中にはしごから落ちて、左足かかとを骨折をしてしまいました。1カ月余り動くことのできない不 自由さを経験し、大雪を通して主は少しずつ
私を整えてくださいました。もう一度挑戦する勇気も与えられたのです。そして、4月から任命された牧師によって、冒頭の御言葉が示され、先日の聖日のメッセージでは「なおざりにしない」(ヘブル二3)生活態度が重要であることを教えられたのです。
今更ながら、真剣さが足りないことや、なおざりにして過ごしてきたいろいろなことに気づかされました。
日々の生活の中で主を思うこと、祈りが足りなかったことなど。そして、イエスさまのなさったみわざを行うものにさせていただきたいと願うようになりました。
ネヘミヤプロジェクトに対する必要な資金のために祈っています。今、聖書学院を再構築する必要があるのです。日本と世界の次の時代を担う牧師を養成するために、時代に合ったものに作り替える必要があるのです。この事業は私たちを通して主がなさる事業です。共に祈っていただければ幸いです。
5月号
「全世界に出で行って」(マルコ16:15)
宣教局長 中道善次
35年間、フィリピン宣教に従事されたエノプレ悦子宣教師が、5月に帰国されます。「悦子宣教師、長い間ご苦労さまでした!」
悦子宣教師(旧姓寺島)は、日本ホーリネス教団(以下JHC)から海外に出かけた最初の宣教師です。JHC80周年記念大会で宣教師として紹介されました。JHCから正式に任命を受け、台湾に派遣されたのは平田金次郎・喜美子宣教師(81年)ですが、悦子宣教師は1979年にフィリピンに渡り、ペドロ師と結婚され、宣教を開始されました。当時の海外宣教委員長は松原次郎師でした。
昨年9月12日に、ミンダナオーグロリアス教会は、フィリピン福音ホーリネス教団に加盟いたしました。宣教局長の中道と国外宣教担当主事の松沢が、調印式に臨みました。ミンダナオーグロリアス教会の現地法人格と土地建物の名義は保持したままの加盟です。宣教師が宣教地で開拓をし、教
会を建て上げる。そして現地の働き人にその教会を委ねてゆく。これは世界宣教の働きの原則です。OMSは日本に対してそれを貫いてきてくれました。JHCも、フィリピンで開拓した教会をフィリピン福音ホーリネス教団に委ねることができました。アルーリペラ牧師が、今年2月末にミンダナオーグロリアス教会に着任いたしました。JHCのフィリピン宣教が一つの目的を達成したと感謝しております。
不思議なめぐり合わせですが、現在の宣教局長の中道と国外宣教担当主事の松沢実喜男は、新谷正明牧師と松沢力男牧師の指導を受けてまいりました。中道は、新谷牧師が牧会しておられた京都紫野教会で救われました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコー六15)というメッセージを何度聞いたかわかりません。松沢実喜男は、大阪栄光教会で育ち、父上から世界宣教のスピリットを受けてこられました。
JHCは、これまで9組の宣教師単身者を含む)を世界に派遣してまいりました。海外宣教委員長を引き継いだ新谷正明師が海外宣教局長となり、松沢力男師が受け継がれました。その後、宣教局長として岡田邦夫師、郷家一二三師、中西雅裕師が国外宣教の働きに携わってこられました。
JHCの宣教師派遣を考えるとき、これまでの働きを引き継ぐだけでなく、新しい宣教師を派遣しなければならない重荷を覚えております。JHCから、新しい宣教師を国外に派遣できるようにお祈りいただければ幸いです。
4月号
「福音の喜びに生きる!」
教団委員長 中西 雅裕
(ローマ七25)
「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」(ローマ七25a)
この25 節以前は「わたし」で書かれていたものが、ここでは「わたしたち」となります。弱さを抱えたお互い。しかし各々がイエス・キリストに出会ってから、「共に」神を賛美する者に変えられた「喜び」がここにはあります。あなたも私も、共に神を感謝する「わたしたち」なのです。ほむべきかな、私を救ってくださるイエス・キリストは「わたしたちの主イエス・キリスト」なのです。
しかし、25節の後半部分「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」を見ると、そこには解釈の難しさが出てきます。神を賛美した後に、なおも自分の罪に苦
しむのか…ということです。それは本当の喜びなのか…という疑問です。ある学者は、この2つのフレーズの「間(ま)」に目を留めます。主の救いを受けた者の感謝は、本物で真実です。その喜びは偽物ではありません。し
かし、置かれている現状(この世での戦いや葛藤)は、御国に行くまで取り去られることはないのです。この矛盾ともみえる中で…。その現実を深く思い、その中でイエスを見上げさせていただける恵みに気が付かされ、目を上げる、その「間(ま)」です。何と感謝なことか。この御方を仰ぎ見つつ生きることのできるすばらしさが、私たちには与えられているのです。それに気づかされるときに、再び私たちはイエス・キリストに目を向けさせていただけるのです。
この恵みを忘れず、おごり高ぶることなく、イエスから目を離さずに生きていきましょう。私たちの現実には色々あるでしょう。弱さばかりが気になりうつむいてしまうときもあるでしょう。しかし、その中で神の恵みを噛みしめつつ、イエスを見上げて前進させていただきましょう。私たちの救い主なる主を「共に喜びをもって」ほめたたえつつ。
新しい年度、私たちは「福音の喜びに共に生きるホーリネス」を心に留めながら、進んできたいと願っています。心の奥底からジワジワと湧き上がってくる喜びを噛みしめて。
3月号
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ十六20)
総務局長 平野 信二
2月4日、OMS(ワン・ミッション・ソサイエテイ)と日本ホーリネス教団との間で調印式が行われた。正確には財団法人東洋宣教会維持財団の「財産清算式」として、OMSから東京聖書学院と教団本部のある東村山の土地・建物が教団に移譲され、OMSに管理を委託していた回転融資金・開拓融資金の管理が教団に移され、東京聖書学院と東宣社の運営責任が教団に移された。併せて、昨年夏に東京都から規則認証された宗教法人OMSクリスチャン・ミッション教会に不動産が移譲されて、財団法人東洋宣教会維持財団が正式に解散したことになる。教団への移転登記の手続きはその日の内に行われ、2月7日に完了した。これらのことは2008年の公益法人制度改革と無縁ではないが、それ以上に私たちの教団の宣教を導いておられる神様のご計画の中にあることと信じている。この記念すべき歴史的な式典に、教団委員の一人として出席することができたことを光栄に感じている。
1901年、中田、カウマン夫妻らにより中央福音伝道館が開設されて日本宣教が開始されたとき、併せて聖書学院が設立された。それは、日本の宣教は日本人の手によってなされるべきとの理念に基づいていた。そして、聖書学院を卒業した者たちの働きは日本国内に留まらず、朝鮮半島、中国大陸、北米、南米へと進められていった。また、OMSの働きも、E・A・キルボルン宣教師が見た「太平洋を越えて大きな橋が日本に掛けられ、更に韓国に、そして更に掛けられていた」幻のように、全世界へと拡げられていった。今回の調印式が、その孫であるE・ジュージ・キルボルン師の短期宣教期間中になされたことに神の配剤を思う。
今も、OMSは全世界に多くの宣教地を持ち、多くの神学校や伝道者養成所を運営している。中には韓国や台湾のように、すでに神学校の管理・運営を現地の教団に移譲している国もあり、今回の出来事はそれに倣ったことになる。しかしそれは、私たちが不動産の管理や東京聖書学院の運営の責任を負うということだけでなく、日本宣教を担ってきた多くの人々の宣教のビジョンと、それを支え続けたOMSの宣教の情熱を受け継ぐことに他ならない。移譲に伴う組織や規則の整備、人材の確保、2年目を迎えるネヘミヤ・プロジェクトの推進など、多くの課題がある中で、私たちはもう一度、神から託された日本宣教の使命を再確認することが求められている。
2月号
メピボセテの人生
信徒教団委員 矢田 澄枝
サムエル下9:1~13
「働かない、働けない若者が現在331万人。不安定な雇用状況にある若者が5人に1人。就労後3割が3年以内に離職。また、かつて受けたいじめが原因でひきこもりになり、就活や社会の関わりに蹟き、社会に出られなくなった若者も増加傾向。その厳しさを理解できない親世代が、将来を案じる余り圧力をかけ、親子間の溝を生じさせてしまう現象などが社会問題に。そんな中、怠け者というイメージの強い『ニード』ではなく『レイブル=遅咲き』との呼び名で前向きな就労を促す取り組みなどを紹介」(NHK総合「あさイチ」放映より)。これらの報道に、厳しい現実の中に生きる彼らの辛さが伝わってきて、たいへん心が痛みました。
「次世代育成」や「信仰の継承」は教団にとっても大きな祈りの課題です。私も教団の将来に不安を覚えるときがあります。そんなとき私の心に現れるのが「メピボセテ」なのです。
彼は5歳のとき、祖父サウル、父ヨナタンを戦いで亡くしました。悲報を聞いた乳母が彼を抱いて逃げるとき、彼を落としてしまい、メピボセテは両足が不自由になってしまいます。その後の人生は定かではありませんが、自分を「死んだ犬のようなわたし」(9:8)と表現していることから、メピボセテはひきこもりの日々を過ごしていたのかも知れません。そんな彼に一大転機が訪れるのです。
ダビデがヨナタンとの契約(サムエル上20:14~17)ゆえにサウルの家系の生き残りの者を探し出させ、ついに彼を見つけ出します。そして、ダビデはサウル家所有の土地を返還し、メピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をすることになるのです。王の宮殿で暮らし、王と食事を共にしながら、彼は失われた日々を取り戻していったと想像できます。
同じことが現代にも当てはまらないでしょうか。イエス・キリストと私の契約ゆえに、暗黒にいる者を探し、見つけ出し、王の食卓につかせ(礼拝)、天国を所有として与えてくださる(救い)。それは一方的な恵み(9:1、3、7)ゆえになされる神の恩寵優先の業です。ここに大きな希望を見出すことができます。
九章の終わりを見ると、彼の不自由な両足はそのままであったようです。若者の置かれている現実はそのままであっても、私たちとイエス・キリストとの友情ゆえに、彼らの失われた日々は取り戻され、神さまの導きにより道が備えられることを信じます。「遅咲き」であっても咲かせてくださる神に期待するとき、若者の人生に光が灯ることでしょう。
1月号
「この喜ばしいわが身!」
教団委員長 中西 雅裕
ハバクク三18~19a
しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。
(ハバクク3章18~19節a)
この新しい年、私たちはどのように歩んでいくべきでしょうか。昨年来、我が家で流行っているフレーズがあります。「牧師とは?この喜ばしい仕事!」というもので、あるシンポジウムのチラシに書かれていたものでした。妻が気に入り、食卓で一日の終わりに、合言葉のように「牧師とは?」と問われ、「この喜ばしい仕事!」と(それも笑顔で)返事をするのがお約束になってきています。不思議なもので「この喜ばしい仕事!」と口にすると、互いに「そうだよねぇ」と励まされるのです。感謝が湧き上がってくるのです。
忙しい毎日、心打ち沈むことも多々ある、「主よ!」と助けを求めて祈らなければならない多くの課題に囲まれる現実です。目の前の出来事に心を奪われ、牧師という、この喜ばしい仕事に就かせて頂けている恵みとありがたさが、いつのまにか後ろの方に押しやられてしまうのです。ハバククは絶望的な状況の中で、「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。」と告白しました。この信仰を私たちも持ちたいと願うのです。喜ぶことを繰り返し勧めたパウロにも見えていたのです。痛みの中で、なおそこにいてくださる御方の存在が、わが身の使命が。「クリスチャンとは?この喜ばしい立場!」と言い換えても良いでしょう。考えてみてください。なんと「喜ばしい」存在にさせていただけている私たちでしょう。「教会学校教師とは?」「牧師の配偶者とは?」「日本ホーリネス教団の一員とは?」と問いあう中で、「この喜び」に目を向けさせていただきたいと願うのです。与えられた奉仕も、働きも「そうは言ったって・・・」の大変さをかかえているかもしれません。しかし、神を仰ぎましょう。その光に照らされるときに、この何と喜ばしい!わが身であるかかが見えてきますから。その務めを与えられた者として、喜びをもってその働きに生きる一年とさせていただきましょう。
2013年
12月号
「闇に輝くいのちの光」
教職教団委員 佐藤 信人
ヨハネ一4~5
2011年3月、東日本大震災の発生直後、仙台に住むわたしの地域でも、3日間停電しました。情報が不十分なため、自分たちがどのような状況に置かれているのかさえわからずにいました。頻発する余震に怯えながら、真っ暗闇の夜を過ごしました。
2日目の夜、こちらの状況を教団の先生に伝えようと、近くの公衆電話に並びました。懐中電灯の小さな灯りを頼りに、暗闇の中、寒さに震えながら順番が来るのを待ちました。
ある教団の先生に電話したところ、ご夫妻とも不在で、何度か会ったことのあるお嬢さんが応対してくれました。用件を伝え終えて電話を切ろうとしたとき、そのお嬢さんがひとこと、「お祈りしています」と声を掛けてくれました。これまで、数え切れないほど聞いてきた言葉でしたが、こちらのことを心から案じるその言葉は、いのちの言葉として、暗闇の中にいたわたしの心を照らす光となりました。それは凍りついていたわたしのからだと心とを溶かしてくれるようでした。
真っ暗な道を再び家に向かって歩きながら、次のみ言葉がわたしの心に喜びの言葉として大きく響いていました。
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネ一4)
そう、いのちのことばは、暗闇の中でも輝いていたのです。大地が大きく揺れ動き、人々が絶望の淵に落とされていたときも、キリストは変わることなくわたしたちの光だったのです。
世界は闇に覆われ、その闇が教会の中にも、わたしたちの心の中にも忍び込んでいる、そのような時代にわたしたちは生きています。その闇の力の大きさに圧倒され、望みを失いそうになります。しかし、たとえどんなに闇が深くても、わたしたちにはこのいのちのことば、光なるキリストが与えられています。この光は、闇よりも強いのです。だからこそ、わたしたちは闇から目をそむけるのではなく、勇気をもってさまざまな闇に立ち向かうことができるのです。
今年のクリスマスも、いのちのことば、光なるキリストがわたしたちのただひとつの慰めとなり、喜びとなりますように。
「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ一5)
11月号
「自由の用い方」
信徒教団委員 伊藤 聖治
中秋の名月の日、仕事帰りに空を見ると、とてもきれいな満月でした。デジタルカメラで写真を撮ってみましたが、月の表情をきれいに撮るために何度も試行錯誤を重ねました。カメラのレンズは、明るい部分か暗い部分か、どちらかにしか感度を合わせられませんが、人間の目には、明るい部分も暗い部分も、周りの風景さえも、すべてがちょうどよく見えるのです。改めて、神さまの創られた人体の神秘を思わされました。
神さまが天地創造を完成されたとき、すべてをご覧になって「はなはだ良かった」と言われました。大自然の奥深さ、生命の神秘を調べれば調べるほど、驚くほど精巧に、すべての組織が相働いて、見事に融和しています。
どれほど科学が進歩し、技術が発展しても、神さまの造られたこの世界といのちを超えるものを作り出すことは到底できないでしょう。
そして何よりも素晴らしいことは、神さまは私たち人間を神に似る者として創造され、自由を与えてくださいました。唯一、私たちを縛り付ける罪さえも、愛と憐れみに富む神さまは、独り子イエスさまを十字架につけて罪から解放し、自由を回復してくださいました。何をしようか、どのように生きようか、すべて私たちの自由です。この自由を、私たちはどのように用いればよいのでしょうか?
私が思う人間の素晴らしい点は、この自由をもってさまざまな課題を解決する能力が与えられたことではないかと思います。ロボットは、人間が設計した通りにしか動きません。いかに優れたコンピューターも、プログラムした通りの結果しか出しません。できることは人間以上にできても、できないことは一切できないのです。不可能だ、無理だと思える難題を、できないと決めつけずに自由な発想で捉え、どのようにしたらできるかを考え出すことは、私たち人間だけができることです。これこそが、神さまが私たちに自由を授けてくださった意義ではないかと思うのです。私たちの信仰生活の現状は、さまざまな困難があるでしょう。絶望の淵に立たされるときもあるでしょう。
私たちの教団や教会も、さまざまな難問・課題が山積しています。しかし、神さまからいただいた自由を神さまの
ために用いて、私たちに今何ができるかを考えるとき、無から有を生み出す神さまは不可能を可能へと導いてくださるでしょう。私たちの自由をもって神さまに仕え、主に信頼する者はどんなことでもできると確信して、今日も力強く、前向きに歩ませていただきたいと願います。
10月号
「神にはできる」
教育局長 錦織 寛
マルコ10:17~27
主イエスは永遠の生命を求めて主イエスのところにきた金持ちの青年に、足りないことが一つある、と言われた。いろいろ大事なこともあるけれど、これも大事だよ、これもがんばってね、という話ではない。他のことが
全部そろっていても、これがないと永遠の生命を得られないという非常に重要な指摘である。「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい……そして、わたしに従って来なさい」。
主イエスは、この要求が彼にとって非常に厳しいことであることを承知しながらも本気で彼に向き合っておられる。私たちは、自分はお金持ちではないから……と人ごとのように見ていることはできない。主は私たちにも、足りないことが一つ、と真剣に迫られる。
主イエスは無理難題をふっかけておられるのではない。主は永遠の生命が、神が与えてくださる救いと祝福が、どんなに大きく豊かなものであるかを知っておられるのだ。また、私たちにどうしても救いと祝福とを与えたいと願っておられるのだ。主は本気だ。
またここでは本当に何に頼って生きるのかが問われている。実は目に見えるものはいざという時には全然頼りにならない。私たちは何に頼っているのだろうか。お金や財産か、自分の能力や才能か、地位や人脈か、それとも、私たちを愛し、ご自身をも献げてくださった主なのか。
主はおっしゃる。私に従って来なさい。上から目線で何かを命令し、ここまで従えるかと迫り、それをクリアしたら、また次の課題が待っている……いいや、主は、私たちのところもまで下ってきて、私たちの一歩先を歩みながら、うしろについてくるようにと招いてくださっているのだ。
せっかく自分の必要に気づいて、主のもとに来ながら、彼は悲しみながら立ち去ってしまう。主ご自身はもっと悲しい顔をしておられたことだろう。主は彼のために、命を捨てようとしておられたのだから。
私たちは本当に主イエスの期待に応えることができるのだろうか。私たちは本当に永遠の生命をいただくことができるのだろうか。私たちを愛し、私たちの前に本気で立っておられるお方の前に、真実に生きることができるのだろうか。私たちは救われるのか。
主は今日も、私たちを見つめておっしゃる。人にはできないが、神にはできる。
9月号
「今の時代を生きるには?」
ローマ12:1~2
今の時代は非常に混沌としています。このような時代にどのように生き、どのようにすればいいのか多くの人たちが迷っています。政治家も各界のリーダーたちも迷っています。私たち教会、キリスト者や牧師はどうでしょ
うか。現代の状況で適切な判断ができているでしょうか。聖書はそのような時代の中で、私たちに語りかけています。
前掲の聖句2節には何が善であって全きことであるか、わきまえるようにと言われています。「正しいこと」は冷たく人を裁きます。しかし、「善なること」はそれに係わる者を温かく包み、活かすものではないでしょうか。
全きことは、冷たさを感じるかもしれませんが、部分の正しさではなく一面的でもなく、統体としての判断です。歴史に耐え、全体の益をもたらす判断です。原発にしても、経済だけを考えれば一つの判断が出ます。しかし、歴史に耐え、広がりのある見方をすると、別の判断となるでしょう。それができなかったことが現代の大きな課題となっています。
そのような判断は単なる方法論ではなく、何が神さまの御旨であるか、何が神さまに喜ばれることかをわきまえることです。それは考えとしてではなく、神さまに語り、神さまに伺い、神さまと向かい合って、神さまの御旨を思いはかり、神さまが喜んでくださっているかを悟ることです。そのとき、人が予想しない、時代に耐えられる判断ができることでしょう。
そのために私たちに勧められていることは、まずこの世と妥協しないことです。不本意な決断、すべきでないのに状況から行ってしまう、また、この世の価値観、数の論理、データーのみに基づくなど、妥協する危険は無数にあります。なんと私たちは、これに陥ることでしょう。私にも苦い経験があります。
パウロは言います。これには、心を新たにし、造り変えられること、と。そんなことが人間にはできるのでしょうか。
どのようにして人は造り変えられるのでしょうか。それは、まさに礼拝です。あなたがたのからだを献げなさい、と。私たちは礼拝を通して、私たちの何かをささげることが起こるべきです。物を、権利を、正義を、考えを、こだわりを、メンツを、自分の判断基準を、一つ一つ献げるのです。そのとき、私たちは神さまの御旨、神さまの喜ばれることを悟ることができるのです。真の判断を邪魔しているものを献げ続けるのです。この時代に互いに適切な判断をして主に仕えましょう。
8月号
『伝道の書』の伝道楽観主義
『伝道の書』は、効果的な伝道方法が書かれている書物ではありません。知恵ある生き方を教える書物です。しかし伝道の書11:1〜6は、伝道に関する示唆を多く与えてくれます。『伝道の書』から、伝道を難しく考えず、楽観的に考えることを学びたいと思います。
「パンを水の上に」(11:1)は、無意識の慈善、あるいはガラテヤ6:7〜10のような善行と理解されます。また別の解釈では、パンを送り出す海上貿易のことという解釈があります。しかし私たちは、この箇所から教会学校における伝道の教訓を得てきました。
教会学校の奉仕は、パンを水の上に投げるように、報いをすぐに得られない働きです。しかし多くの日の後、それを得るのです。私たちの教会で、一人の姉妹が今年のイースターに受洗しました。彼女が教会学校を卒業してから20年後のことです。
風を恐れ、雨が降ることに不安を覚える人は種まきをしません(十一4)。私たちが伝道にともなう危険や不安を気にすると消極的になり、福音の種を撒くことができません。人間は収穫を予測することができません。ただ人間にできることは種を撒くことです(11:6)。2001年、聖書学院のミッション生が、伝道11:1〜6より茅ヶ崎教会の早朝礼拝でメッセージを語りました。彼は一年生でした。人生初の説教を通して、一人の青年が入信を決意しました。6節の御言葉が心に響いたのです。入信した青年は、その後毎年ミヤンマーの孤児支援献金してくれます。私たちが与えられた機会を活用して、できることを精一杯やるとき、主は働いてくださるのです。
「あれかこれか。もしかしたら両方とも上手く行くかもしれない」。これが『伝道の書』が教える「伝道楽観主義」です。2006年、私たちの教会の青年たちが、東海大学湘南キャンパス(平塚市)の近くに学生対象の喫茶店を開きたいというビジョンを持ちました。私を含めた大人たちは、「そんなの上手く行くはずがない」と否定的でした。しかし「彼らにやらせてみましょう。私が後見人になります」と年長の牧師が申し出ました。「上手く行くはずがない」と思った伝道の働きが、期待を超える実を結び、今日に至っております。
朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。(伝道の書11:6)
7月号
「この宝を土の器の中に持っている」
財務局長 間室照雄
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである(Ⅱコリント4:7)
私は45年前に福音に導かれ、そして救いの経験をしましたが、若いときはがむしゃらに働き、健康のことなどほとんど考えもしませんでした。社会的な付き合いが広がり、不規則な生活、とりわけ食事は偏っていきました。気がついたときは、「高脂血症の疑いがあるので、専門医の診察を受けなさい」というところまで行ってしまいました。身長168センチ余、体重82キログラムでした。
25年前、母が62歳で脳内出血で倒れ、以来、半身不随の生活をしています。そうならないようにとダイエットに挑戦して、今は67㌕になりました。そして、健康になり、スタミナも増加しました。
東日本大震災の折、報道された避難の方法として、一番先にしなければならないこととして、「自分の身を守ること」というのがあって、意外な気がしました。被災し、けがや病気になったら、ほかの人を助けることができないというのがその理由でした。
私たちの川越のぞみ教会は3年前に会堂建設をしました。そのきっかけは、一人の兄弟が祈り始め、みんなで祈ることを訴えました。やがて時間を決めて、一斉祈祷会が始まり、その結果として、大きな壁が取り除かれまし
た。そして、ある兄弟が召され、その財産全部がささげられ、7年間も場所の選定や資金的なことで停滞していた計画が、一気に進むことになったのです。そして多額な教会債も教会員によって与えられたのです。
祈ることによって、それぞれの考えが一つにされ、より強固な協力体制が作られました。そして、土地代金を含め、1億4千万円もの事業が完成しました。銀行や教団からの資金を利用することなく完成したのです。
今教団のことを考えるとき、全国の信徒の皆さんの一致が必要です。祈りが必要です。それぞれの信徒が元気になり、教会が活性化され、救いの恵みにあふれる教会となることが求められています。でもその前に、自分の
健康管理ではないでしょうか。せっかくいただいた宝を活用しない手はありません。でも土の器なのです。大事にしなければ壊れてしまうもろいものなのです。
「土の器」(Ⅱコリント4:7)なるそれぞれが献身を新たにし、受けるよりは与えるほうが幸い(使徒20:35)の信仰に立って、進むとき、主からいただいた宝が力を発揮できるのではないでしょうか。
6月号
「あなたはどう読むか」
平野信二
「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」 (ルカ10:26)
1997年に総会決議された「戦責告白」以降、私たちは「福音理解」を問い続けてきた。今まで持ち続けてきたものに対して「これで良いのか」という問いを発しつつ、自らの立ち位置を確認しながら進むべき方向を指し示してきた。「変える勇気」と「受け入れる冷静さ」だけでなく、変えてはいけないものを変えることなく持ち続ける頑固さも大切にしてきた。第一次、第二次構造改革や主体性に基づく任命制度改革においても、新しいものを取り入れることと同時に、失われつつあった大切なものを再確認・再構築してきた。そして、それらの営みは、教団委員会だけでなく、各局・委員会、教団に属する教会・教区、そして、牧師・信徒による共同作業としてなされてきた。
その過程で大切にしてきたことの一つが、相互のコミュニケーションであった。情報や意見の交換をする中で、時には正面からNOを言われなければならないこともあった。そのことについて、私は「NOを言う勇気」に感謝するとともに、「NOを言うことのできる教団であること」を誇りに感じる。冒頭の聖句にあるように、神は私たち一人ひとりに「あなたはどう読むか」と問いかけておられるからだ。言い換えれば、当たり前のことだが、私たち一人ひとりが聖書の真理に照らして「YES」か「NO」かを判断していくのである。しかし、そこでは単に意見や理想を語るだけでなく、語った言葉に従って生きていくことが求められ、語った言葉によって再び自らが問われていくのである。そのことなしに語る言葉がいかに虚しく、意昧のないものであるかは、「良きサマリヤ人」の讐えがよく示している。
私たちは時折、あの律法学者のように「自分の立場を弁護」する誘惑に駆られる。しかし、私たちはそこで踏み止まって、自らの弱さ、足りなさ、罪深さと対峙し、そこに光を与え、赦しときよめとを与えてくださる神と向かい合わなければならない。先月亡くなった中坊公平氏が「医者は人の生命を、宗教者は人の死を扱う職業である」と言われたが、死の先に用意されている永遠の生命に至る道を知っており、それを伝える使命を与えられている私たちの責務は重い。「あなたはどう読むか」と問われる神に対して、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして」応えていかなければならない。
5月号
「共に『アーメン』と言って、主に従う。」
中西雅裕
「会衆はみな『アァメン』と言って、主をさんびした。そして民はこの約束のとおりに行った。」(ネヘミヤ記5章13節b)
新しい年度が始まりました。この初めの時にネヘミヤ記5章から、主に従う者達が危機に陥った時に、どの様に「神の民」としての自分達を立て直し、行動したかを見ていきたいと思います。そして、主が私達の教団に何を望まれ、私たちが何を行動基準にしていくのかを考えてみたいと思います。
この時、ネヘミヤ達の神殿の壁の工事は、外部からの妨害に続いて内部の問題が表面化してきました。順調に進む工事の一方で、貧富の差が大きくなるという内側の問題が起こってきていたのです。田畑、家や息子娘たちを売らなければならなくなった者たちが訴え出ます。共に労してきた神の民同士が、相対立するかも知れないという危機に陥ったのです。このままでは城壁の再建どころではなくなります。ネヘミヤは慎重に対応し、それぞれの立場の者達が共に『アァメン』と言って主を賛美して、再び工事に向かうことが出来るようになっていきました。
まず私達が知っておくべきことは、この時のように神の業が進む時に、サタンの妨害が起こるということです。彼らは内部分裂をも狙ってきます。私達の教会の於いても、教団においてもあり得る話です。しかし、私達は主にある民として、その問題に対処出来るのです。
第一に、主の御前でよく考えることです。ネヘミヤは貧しい者たちの訴えを聞いて怒りましたが、「自ら考えたすえ」とあります。感情に流されませんでした。事実確認を怠たらず、自分を律し、神の御前で考える時を過ごすのです。私達も、問題を主の御前に祈ること無しに判断してはなりません。
第二に、自ら率先して犠牲を払うことです。ネヘミヤは富んだ者たちを集めて、利息を自分は取らない、奴隷になった人々を買い戻すと宣言しました。先ず自分が犠牲を払うと。互いに犠牲を払い合う中で「会衆はみな『アァメン』と言って」心を一つにしていくのです。
第三に、神を畏れて歩むことです。ネヘミヤは神を恐れたと繰り返します。これは神の裁きを恐れたのではなく、畏敬の念をもって神の前に出たということです。また「民はこの約束のとおりに行った」のです。主に従って歩む、神の臨在を常に意識して歩む。これこそホーリネスの生き方と言えます。
最後の19節の「わが神よ、わたしがこの民のためにしたすべての事を覚えて、わたしをお恵みください」の祈りは真実の訴え、心からの祈りです。「私」を「私たちの教会」、「日本ホーリネス教団」と置き換えて祈りたいと思います。わが神よと。この年度、私達の教会が、教団が歩んだ全てのことを覚えていただけるような歩みをしたいと願うのです。ホーリネスの民として、この日本の地で。
4月号
主と同じ姿に
錦織 寛
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(Ⅱコリント3:18)
新しい年度が始まる。
子どもたちや学生たちは新学期を迎える。
新しく社会人として歩みを始める人たちもいるだろう。
新しい牧師を迎えて、喜びと期待と緊張感の中にこの時を過ごしている教会もあるに違いない。そして、東京聖書学院でも、全国から新しい献身者たちが集まって新しい生活を始めようとしている。
不安がある。正直、恐れもある。私たちはある意味、まだ歩んだことのない新しい一日を踏み出していくのだ。また失敗したらどうしよう。だめだったらどうしよう。いろいろ批判されたら立っていけるだろうか・・・。
でも、私たちは知りたい。私たちはひとりではない。一緒にこの未知の一日に一歩を踏み出していく同士なのだ。私たちは共にこの新しい年度を歩み出す。知ってほしい。あなたのために祈っていてくれる仲間がいる。そして、あなたの祈りを必要としている仲間がいる。
そして、知ってほしい。私たちには神さまの約束がある。私たちは栄光から栄光へと変えられていく。この一歩は神の栄光へと続く一歩だ。また主と同じ姿に変えられていくための一歩だ。人々は知りたい。イエスさまとはどういうお方なのか。それを人々に示していく責任が私たちにはある。もちろん、足りないところだらけだろう。まだまだイエスさまにはほど遠い・・・その通りだ。でも、私たちは一日一日、主に似せられていく。
大事なことがある。主を見つめ続けていることだ。自分の弱さや、この世に吹き荒れる嵐を冷静に見ながら、でも主を見つめていくことだ。
私たちの覚悟や、修養努力や、新しい決断も確かに尊い。でもそれが私たちを変えるのではない。私たちのうちに働いて、そのことをしてくださるのは霊なる、命なる主だ。
一度に百歩も二百歩でなくていい。主イエスを見つめ、主に期待して、一歩一歩歩んでいこう。主がそのことをしてくださるのだから。
3月号
「神のみわざはどこに…」ヨハネ福音書第9章
教団委員 上中 栄
「神のみわざはどこに…」 生まれつきの盲人の目が開かれた。しかし、それを喜ぶ人は描かれていない。彼が哀れに見えるうちは、親切にした人もいただろうが、モーセの弟子を自認する人々は、自分たちが正しいと思う信仰の理屈によって、彼を追放してしまった。この「信仰者たち」は、どのような感性を持っていたのだろうか。
私たちの信仰的な考えや判断・感情が、表面的なことに流されることは往々にしてある。震災後、建物に被害が少なかったある教会の牧師は、支援に来る人の中には建物を見て、「何だこの程度か」という顔をする人がいて、「被害が少なくてすみません」という思いになったという。支援の思いに偽りはなかったであろう。哀れに見える方が情は動きやすいことも分かる。だが被災者にこのような思いを抱かせ、それに気づかなくとも、そのことを問わない風潮が、今の日本のキリスト教界にはある。「隣人愛は善」という、これもある種の信仰の理屈であり、それ自体は間違いではないが、この感性は看過されてよいのだろうか。
「この人が生まれつき盲人」なのはなぜか。因果応報の否定だけに躍起になると、「神のみわざ」が何であるかが霞む。信仰の感性の分岐点はここではないか。主によって目が開かれた人は、信仰者社会の現実を目の当たりにする。それでも彼は「主よ、信じます」という信仰に導かれた。「神のみわざ」である。
さて、私たちの教団は、教勢や財政に課題を抱えつつ歩んでいる。世俗化、安易な悔い改めといった、福音理解の危機に瀕している。公権力は、巧みに私たちの信仰を骨抜きにしようと動いている。しかし多くの人は、自分とこうした事柄とはあまり関係がないと思い、それでも信仰生活は成り立つと考えている。そんなことはない。教団が哀れな状態に陥れば、関心は高まるのか。それでは遅い。すでに私たちは待ったなしの状況にある。そして、私たちの信仰が篩(ふる)われる時が近づいている。表面的なことに流されると本質を見失う。
私たちは、共に信仰の感性を磨きたいと思う。そのためには、目を開いていただくしかない。その時目の当たりにする自分自身の姿や、教会や教団の状況は決してバラ色ではないだろう。主に目が開かれた人が信仰を言い表した時もそうだった。しかし彼は、主を見出し、神のみわざに与った。私たちも同じ信仰に生きている。同じ教団に連なっていることを喜ぶ感性を大切にしながら、私たちにも現わされる神のみわざを期待しつつ歩みたい。
2月号
新田を耕せ
総務局長 島津吉成
「あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。」(ホセア10:12)
この御言葉は、2013年、新しい年を始めるに当たって、主が私に語りかけてくださった聖句です。主は「新田を耕せ」と命じておられます。荒地に鍬を入れ、そこを耕し、そして種を蒔きなさい。現状維持に留まるのではなく、新たな挑戦をしなさい、と。
荒地を開墾するということは、とても大変な仕事です。ですから、尻込みしたくなる心理も働きます。また、「古いのが良い」(ルカ5:39)と思うのは、人間の自然な感情です。過去に、それでうまくいったという体験があればなおさら、それを切り替えるのには勇気が要ります。さらに、もう歳だから、いまさら新しいことを始めるのは、という思いがわいてきたり、若い人でも、挫折感や閉塞感に捕らわれて、前に進めないということもあります。ですから、まず鍬を入れるべきところは私たちの心です。いつの間にか固くなってしまっている心に鍬を入れなければなりません。新田を耕す業は、ここから始まります。
新田を耕す働きには労苦もありますが、それ以上に望みがあります。今、目の前に見える地は荒地であったとしても、ここが耕され、やがて豊かな収穫の時が来るのです。黄金色に輝く穂が広がっている光景が心の目にはっきりと見えるとき、労をいとわず、望みをもって荒地に鍬を入れて行くことができるのではないでしょうか。
主が私に見せてくださっている光景は、ゼカリヤ書8:4~5に記されている回復したエルサレムの光景です。
「万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』」。
「次世代育成」ということが教団のテーマとして掲げられていますが、ここに、小さな子どもたちからお年を召した方まで、全世代の人々が共に集い、喜びに溢れて主を礼拝する教会の姿が描かれています(ゼカリヤ8:18~19)。
「今は主を求むべき時である」。主がしてくださると約束してくださっているのです。ですから、主に祈りつつ、主が見せてくださるビジョンに向かって、新田を耕しましょう。
1月号
素晴らしき 人生!
教団委員長 郷家一二三
あるキリスト教の雑誌の付録に、映画「素晴らしき哉(かな) 人生!」のDVDが付いていた。映画史上に残る失敗作が奇跡的な復活劇を遂げた、それが「素晴らしき哉 人生!」である。一九四六年製作のアメリカ映画だが、当初は興行面では惨敗し、製作費も回収できなかった。映画会社が著作権の更新手続を忘れ、著作権フリーとなり、テレビでクリスマスに放映が繰り返され、八十年代には全米で愛される有名な映画となって行く。映画のストーリーも奇跡的な復活劇で、人生のどん底の状態で、「自分は生まれてこなければ良かった」ともらす主人公が、生きる喜びを回復する物語だ。彼の前に天使が現れ、もし彼が生まれなかったらこの街がどんなにわびしく惨めなものになっているかを見せてやり、自分と出会わなかった妻も寂しい人生を送っている姿を見て、主人公は自殺することをやめて人生の意義を取り戻す。(この映画の監督も長生きをして、奇跡的な復活劇を目の当たりにすることになる。)
わたしたちはいろいろな問題に行き詰まると、やはり自分は適任ではなかったとか、こんな人生なら生まれなかったほうが良かったとか、ヨブに似た言葉を漏らしやすい。もしもこの街に教会がなかったら、おそらく自分は主イエス・キリストの救いに出会わなかっただろう。でも教会があったので福音を聞いて信じることができている。高校時代に校門までトラクト配布していた二人の友人は、おそらくそれがわたしを教会に導いたと知らないだろうが、わたしは最大の贈り物をくれた友人だと感謝している。福音にまさる贈り物はない。福音を伝える伝道的な教会の存在に勝るものはこの世にはない。キリストの体である教会形成に仕える以上の喜びはない。
イザヤはどん底の民に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と預言する(イザヤ43:4・新改訳)。洗礼を受ける必要のない主イエスの洗礼にあって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マルコ1:11)との声が天から響く。これは主にあって洗礼を受けた者への声として受けとめられる。御言葉ははっきり宣言している。あなたは神に愛されている。主イエス・キリストの命を犠牲にするほどにあなたは高価で尊い。そしてあなたは神の心にかなう人、神を喜ばせている者なのである。
主によって救われている人生こそ「素晴らしきかな人生」であり、今年も新たにその一歩を踏み出そうとしている。