2015年
11月号
「『神の福音』が私たちを支える」
「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えてぷ言われた」(マルコ1:14)
皆さんのご記憶にも新しい事と思います。二ヶ月ほど前、鬼怒川の堤防が決壊しました。大量の泥水が、茨城県常総市の町々に被害をもたらしました。私も、下流にある水海道の町々が、一面、湖のような状態になったのを目の当りにして驚きました。その水海道には、私たち夫婦が交わりをもたせていただいている牧師家族が住んでいます。教会堂の被害は床下浸水とのことでしたが、道路が通れるようになり、先生方を訪ねることができたのは、堤防決壊から一週間後でした。
その時、被災した水海道の町中を通りましたが、改めて被害の大きさに心が痛みました。被災された方々が、水に濡れて使用できなくなった家具や畳などを外に積み上げていました。その動作は、一つ運んではしばらくたたずむというものでした。体に力が入らないといった様子です。泥を被って白黒になった町の風景が、被災された方々の落胆した心中を表しているようにも思いました。
そうした中で、私は、次の日曜日の礼拝で開く聖書の御言葉を思い巡らしていました。イエス・キリストが、福音を「神の福音」と語られたことについてです。
福音は、私に復活の命の喜びを与え生活に色彩を与えるものです。このたびの、色が失われてしまうような出来事は、人ごとではありません。私にも、力が本当に出なくなり、落胆する事が起こり得るのです。祈っても起き上がる勇気と力が与えられないまま、失意のうちに亡くなる事もあり得るのです。それは、私には、福音を作ることも、祈りで福音を操作することもできないということでしょう。
イエス・キリストが語られました。福音は、十字架の死と復活によってもたらす「神の」福音ですと。私は、ここに福音の確かさがあると思いました。
「私」ではなく、「神」によるゆえの確かさです。私たちが失意のうちにうなだれても、大きな喜びにあふれても、神は、私たちを神の福音でいつも支えぬいておられる。だから私たちは、なお望みある者として、喜び、悲しみ、励み、落胆することができるのだと。そう私は心を巡らしました。
このたびの豪雨で被災された方々や町々の早期の回復を祈ります。
10月号
「バトンをつなぐ」
「私の助けは天地を造られた主からくる」(詩篇112:1~2)
柿が色づく季節となりました。秋は芸術の秋、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋などさまざまな「○○の秋」がありますが、秋というと、私はスポーツの秋が最初に浮かんできます。
小学生時代、夏休みが終わると運動会の準備に取りかかったものです。あの当時は裸足で競技をしましたから、校庭の石拾いから始めました。秋風が心地よく、空にはうろこ雲が出ていて何とも言えない清々しさを感じたものです。
運動会当日、早朝に、「パン、パン、パン」という花火の音を合図に気合が入り、朝飯をそこそこに、運動会に参加しました。今のようにテレビゲームのない時代でしたので、身体を動かす事が唯一の楽しみでした。綱引き、棒倒しでは真剣に汗を流し親子競技ではそれぞれの家族が大声を出して応援している姿が懐かしく思い出されます。競技中につまずいたり、転んだりする生徒が出ると、「がんばれ!」と声援がとび、運動会が盛り上がります。しかし、人生の歩みで予期せぬ出来事に遭遇した時には、多くの人は、盛り上がるどころか逆にヘコミます。
私は二十二歳の時、ある国家試験に落ちるという経験をしました。その時は就職も決まっており、大学生の弟の面倒をみながら、働きながらの勉強となりました。十数冊ある教科書を、もう一度最初から勉強をするのは大変骨の折れる作業でした。上司に「今年落ちたら辞めてもらう」と言われ、がんばったつもりがダメでした。その時は、何と報告したら良いかわからず、トイレで祈りました。心に詩篇112篇1、2節「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこからくるのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」の御言葉が響いてきました。私は祈りつつ上司に報告しました。「もう一度だけチャンスをあげるから」と言われ首が繋がりました。翌年、合格することができました。
聖書の神さまはあなたがどんな状況の時も見捨てず、必要な助けを必ず与えてくださいます。たとえ、つまずき、転んだとしても、大丈夫!神さまは御言葉を通して、起き上がる勇気と力を与え、最善へと導いてくださいます。この神の恵みのバトンをあなたにも手渡したいのです。是非、教会の門を叩いてみてください。
9月号
「前向きに」
「信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」(Iヘテロ1: 8~9)
私はサッカーが大好きです。Jリーガーの三浦知良さんと同い歳で、その尊敬するカズが引退するまでは私も頑張り続けるつもりです。とは言っても年々体の衰えは進み、近年、通算12回目の骨折を始め怪我との戦いが絶えません。さらに、足を引きづっているところを家内に見られると「もうやめなさ!」の一撃が飛ぶので、痛みに耐えて振る舞う、今日この頃です。
他にもいろいろな事にチャレンジし、何事も前向きに受け止めて歩んでいますが、以前の私はそうではありませんでした。両親も兄弟も友達も、そして自分自身も好きになれず、下ばかり向いて、空しい毎日を過し、「自分は生きていなくてもいいんじゃないか」「自分という存在がなくなってしまえばいいのに」、そう思っていました。
18歳の春、親元を離れて、東京で一人で生活するようになりました。色々な行き詰まりの中、「死にたい」「死にたい」と思うようになっていたそんな時、高校の時のお世話になっていた先生の言葉が頭をよぎりました。
「困った時や苦しい時は、教会へ行ってごらんよ」。その言葉になぜか素直になれて、近くの教会を搜して、集会に集うようになりました。毎週の礼拝の中で、疑問に思っていたこと、わからなかった事の答えが語られてとても驚きました。神さまは生きて働き私に語りかけておられることを感じました。そしてある日、イェスーキリストは、人を憎み、神を神としない自分勝手なこの私の醜い罪のために私に代って十字架にかかってくださったことがわかりました。
イエスさまを心に迎えると、私には大きな変化が起こりました。目に見えるすべてものが輝いて見えるようになったのです。そして、神さまに愛されている自分を大切にし、周りの人々のために祈る者とされました。
今私は、子どもがサッカーボールを夢中で追いかけるように、前向きに喜びを持って歩んでいます。
「あなたがたは、イェスーキリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(Iペテロ1章8~9節)
8月号
ひと休みしませんか
「わたしのもとにきなさい。あなたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
学校の夏休みや企業の休みが集中する8月は、たくさんの方が旅行に出かけます。皆さんの中にも、実家に遊びに行く計画を立てている方、あるいは、海や山に休養を兼ねて旅行を予定している方もいらっしやることと思います。
私の住む所から車で20分程のところに、伊勢湾岸高速道のパーキングエリア(PA)、刈谷ハィウェィオアシスがあります。なんでも、日本のテーマパークの中で、昨年の来場者数が第三位だったそうです。もちろん、第一位は東京ディズニーリゾート、第二位は大阪のユニバーサルースタジオージャパンです。 刈谷PAは、一般道路からも乗り入れがでます。単なる休憩場所ではなくて、温泉施設あり、併設の児童遊園地あり、スーパーありと、魅力あふれる場所になっています。買い物客の多くは近隣の住民で、何回もやって来るそうです。
古くから、多くの先人たちは、「人生とは旅だ」と表現してきました。サッカーの元日本代表選手、中田英寿さんも、引退メッセージのタイトルにその言葉を使いました。
皆さんも、いろいろな意味において、「人生は旅だ」とお思いになりませんか。子どもから大人に成長するまでの日々を思い起こしてください。中年から老人と呼ばれるまではどうだったでしょう。勉強や子育てに悩んだ日々もあれば、失業やリストラの恐怖におびえた時、自分の健康や家族の介護のことで忙しかったりと、ホッとする暇もない、忙しい毎日が続いたり…。本当に、苦労が多く、大変ですよね。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と、イエスさまは私たちに呼びかけます。しかも、あなたと一緒に、あなたの肩の重荷を担ぎ、あなたを決して孤独にさせないと言うのです。呼べば、必ず来てくださる神さまです。
聖書に登場する人物や信仰者の多くも旅人として描かれています。彼らでさえ、苦しみや悲しみに直面すると、失望し途方に暮れます。しかし、イエスさまは彼らと一緒に旅を続けて、支え続けます。皆さんもホッとひと休みしてみませんか。イエスさまを呼んでみませんか。
7月号
忙しいですね
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」(ルカ10:42)
最近、あなたは忙しいですか。そうですよね。本当に毎日、追いまくられて生活しているような気がします。
さて、聖書の中にも、忙しさが話題になっている箇所があります。ルカによる福音書第10章38~42節にある、マルタとマリヤという姉妹が登場する記事です。
その日、姉のマルタは、イエスさまと弟子たちの一行を自宅に迎えて、接待に忙しく動き回っていました。一方、妹のマリヤは座って、教えを語り始めたイエスさまの話をじっと聞いていました。それを見たマルタは、たまりかねて、「わたしの手伝いをするように妹におっしやってください」とイエスさまに訴えました。ところが、イエスさまの反応は意外なものでした。一生懸命世話をしていたマルタよりも、じっとしていたマリヤの方をほめたのです。イエスさまの話を聞くことこそが、最も重要であるとの理由からでした。
私たちの人生に当てはめてみましょう。
学生の頃から部活や受験勉強、そしてアルバイトや就活。社会人になれば様々な責任が課せられ、家庭を持てば自分だけではすまなくなります。その折々に成し遂げたい目標があり、それが忙しさに拍車をかけているわけです。
しかし、この、一見充実しているかのような時期を過ぎた時、あなたには何か残っているでしょうか。また最晩年に当たって、どんな目標を持っていると思われますか。
やがて人は誰でも老いを迎え、最後にはこの世での人生を終えねばならない時が訪れます。その時、自分の人生は忙しいだけで何もなかったのかと肩を落とすことのないように、聖書は「忘れてはならないこと」を教えています。
それは何でしょうか。マリヤのように神さまの言葉をじっと聞くことです。そのことで、私たちは永遠のいのち、すなわち、神とつながって生きるという、人間の究極の目標を知ることができるからです。
もしこの目標をつかんでいるなら、忙しさの中にも、自分を見失うことなく、最後まで、人として豊かな生き方ができるのです。ぜひ、聖書に触れ、また教会の集会にご出席ください。
6月号
自分の日を正しく数える
「おのが口を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:12)
今年二月に運転免許証を更新しました。ただ、その際、私に「高齢者講習」の通知が届いたのです。「お~、私は高齢者だったのかあ(心の中でつぶやく)」。今までほとんど気にもしてなかった自分の齢を急に感じた瞬間でした。
先日も同様なことがありました。バスカードで駅の改札口を出る時、「料金不足」が示されたのですが、精算に手間取っていると、後ろの若い女性がまことに丁寧に教えてくれたのです。
「そんなにもたついてた~?(心の声)…そういえば郵便局でもあったなあ、送金の方法を聞いたら、小学生に説明するかのように、記入欄すべての書き方を教えられたっけ。(あの~、書き方は知ってるつもりだけど、年寄り扱いなの?)」。
しかし、思い返すと、家の中で、一日に何回かモノを捜しています。「老い」を認めざるを得ないのでしょうか。
誰にも「老い」が来ます。自分に残された年月は、今までの年月よりずっと短いのです。「自分には死など来ない」と思っているかのように行動する若い人たちにも「老い」は必ず訪れます。そして死は確実に、そう、100%の確率で誰にもやって来るのです。
ですから、自分に訪れる死と、そして死後、どうなるかを知っている人は幸いだと思います。なぜなら、それに備えた生き方を、今のこの時に、することができるからです。
このことについて、聖書はどう言っているでしょう。
「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、はねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。…われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:10、12)
あなたが30歳なら過ぎた日は1万1千日、80歳まであと1万8千日です。その人生の日々を生きる知恵を得させていただこうではありませんか。
この知恵とはキリストの救いを示しています。キリストの救いは、あなたに永遠のいのちを与えます。この「永遠のいのち」を得ていれば、死も、そして死後の心配もなくなり、今のこの時を、充実させて生きていくことができるのです。
5月号
わたしが道である
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)
私は愛知県の三河地方に住んでいます。
ある日の午後、教会の案内を配って歩いていると、ある所で石碑を見つけたのです。
それは、日本地図を作成した伊能忠敬が「この所で宿泊した」という記念碑でした。そこには次のような刻印があったのです。
「伊能忠敬
享和3年1803年4月14日
本田定石衛門宅」
学生時代から知っていた人物でしたが、調べてみました。
伊能忠敬は、50歳の時に隠居し、家督を長男に譲ったのち、江戸に出て、江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめて、1800年56歳の時に、第一次測量を開始したということでした。全国を歩きまわり、日本地図をつくったのです。
伊能忠敬は日本中を歩いて、その歩数で測量したのですが、その歩幅は正確でした。前に汚いものがあっても「ふんづけて」歩いたというようなエピソードもあります。歩いた距離は、実に四万キロ、つまり地球を一周したことになるそうです。
明治時代になっても使われたという正確な地図を作るために彼は歩いたのです。それと同時に実は北極星を観察して自分の位置(緯度)を測量、確認しつつ歩きました。
北海道を車で旅行した時です。真っ暗になり、方向が全くわからない中、カーナビがあったことによって目的地にたどりつけたということがありました。また、そのカーナビも目的地があったからこそ、機能したのです。
私たちは、この地上を歩いて生活しなければなりません。 私たちは「どこから来て、どこに行けばいいのでしょうか」。この質問の答えが出てこないとしたら、この地上の放浪者となってしまうでしょう。
イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6)と約束されました。私たちはこの変わらない約束を見て歩むことができるのです。なんとすばらしいことでしょう。どこに行ったらよいのかを知ることができるようにされているのです。
キリストは、その道を備えてくださり、その道を歩む力「命」を与えてくださるのです。
4月号
本当の自由
「自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放して下さった」(ガラテヤ人への手紙5:1)
「自由」と「自分勝手」の違いは何でしょう。
スポーツ中継などで、「本当にあの選手は自由にプレーしていますねー」という解説を耳にし
ます。伸び伸びプレーをしているのならいいのですが、もし、ルールを無視して自分のやりたい放題のプレーをしたら、試合は壊れ、本人は退場です。本来あるルールにのっとっているのか、自分で作ったルールで行動しているのかが、「自由」と「自分勝手」の違いなのです。皆さんは、自由に生きていますか?それとも自分勝手に生きていますか?。
人を創造された神は、聖書の中に、人が自由に生き生きと生きるために、人間本来のルールを示しています。それに従って生きていく時、人は自分勝手ではなく、本当の自由を得るのです。
そのルールとは、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本文である」(伝道の書12:13)です。後半を別の訳では、「これが人間にとってすべてである」としています。「神を恐れ、その命令を守れ」とは、天地創造の真の神を神として信じ、認め、造ってくださった神を愛し、従うこと、また、神の命令である「自分を愛するように隣人を愛すること」です。
ではどうしたらこのルールに従って人間本来の歩みができるのでしょうか。
聖書にザアカイという人物が出てきます。権力とお金が彼のルールでした。神を恐れず、隣人を愛することもしない、権力とお金というルールの中で自分勝手に生きてきた彼の心には、本当の自由はなく平安も喜びもなく、隣人との関係も悪いものでした。しかし、本来の人間の姿を失ったそんな彼に主イエスは近づき、神の愛による救いを与えたのです。彼は、自らの過ちに気づき、悔い改め、神を愛し、隣人を愛する者に変えられ、本当の自由を得たのです。
誰でも、イエスーキリストのなしてくださった十字架のみわざと復活の力によって、恐れていた罪や死の力からも解放されます。神が人間に与えられている本来のルールに従って生かされ、初めて本当の自由を得て、伸び伸びと人生を歩めるのです。
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」(ガラテヤ5:1)。
3月号
決して沈まない人生
「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイによる福音書14:27)
寒い冬には硬く小さかった蕾(つぼみ)も徐々にふくらみ、春の訪れを待っているかのように咲きはころびます。私は梅花の香りが好きで、春がやって来るのが毎年楽しみです。
私たちの人生にも、同様に、忍耐を必要とする時があります。突然の病気や、仕事や試験の失敗、人間関係のトラブルなど、まるで寒い冬のように思える出来事が起こることがあります。しかし、私たちがこの天地宇宙を創造し、私たち人間一人ひとりをこよなく愛し造られ、私たちの人生をも導いてくださるイエスさまに目をとめて信じ受け入れるならば、硬く小さかった蕾が春になれば必ず開花するように、冬のように思えた辛く苦しい時期さえも、やがて必ず解決される時が来ると期待する生き方へとあなたは変えられるのです。
聖書には「水の上を歩いた弟子ペテロ」の話があります(マタイ14:29)。舟で湖を渡ろうとしましたが、沖に行くに従って波風が強まり、舟は思うように前に進みません。このことは、私たちの人生を表しているかのようです。そこに、嵐の中を湖上を歩いて舟の近くまでやって来たイエスさまが登場します。
イエスさまを幽霊と間違えて震え上がる弟子たちに、イエスさまは「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語りかけます。この励ましに、ペテロは湖上におられるイエスさまに言うのです。「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
この直後、イエスさまの招きに従ったペテロは、なんと水の上を歩いたのです。イエスさまから目を離さずにじっと見つめながら、彼は確かに歩いたのです。
みなさん、私たちの人生もそうです。イエスさまを見て信じて歩む時、私たちも決して沈みません。イエスさまから目が離れそうになる時にも、イエスさまを、あなたの人生の導き手、救い主として受け入れる時、決して沈まないのです。
なぜなら、これまで神に背いてきたあなたの罪を、イエスさまが十字架の死によりすべて処分してくださったからです。そのイエスさまが信じるあなたの腕をつかんで決して離さないのです。どうぞ、あなたも救い主イェス・キリストを信じ、決して沈まない人生を歩んでください。
2月号
人を生かす言葉
「この言に命があった」(ヨハネによる福音書1:4)
以前、ある人がこのような話しをしてくれました。
二人の女の人が、『もうじき一歳になる息子が大きくならない』と言って病院にやって来ました。確かに標準より小さかったのですが、医者はその子の成長しない原因が全くわかりませんでした。そこで、とりあえず、入院させたところ、何も特別なことはしなかったのに、元気に成長していったので、医者は、その子を退院させました。
それからしばらく経ってから、またその母親が赤ちゃんを連れてやって来ました。医者はその子を見てびっくりしました。それは、その子が退院した時から成長していなかったからです。医者は成長しない原因を知るために母親といろんな話しをしました。するとあることがわかりました。この母親は過去につらい経験をしたことで、わが子を愛することができず、ほとんど話しかけることをしなかったのです。そのことによって赤ちゃんは力を失い成長することができなくなっていたのです。でも、入院をしていた時は、毎日看護師に優しく声をかけられていたので、赤ちゃんは成長することができたのです」。
この話のように、言葉には大きな力があるのです。
聖書には「この言(ことば)に命があった」(ヨハネ1:4)と書かれています。「この言」とは神の言葉のことです。
神の言葉には人の体と心を生かす大きな力があります。私たち人間はそのような神に似せて造られた者なので、私たち人間の言葉にも大を育て、生かし、成長させる力があるのです。
ところが、私たちはその言葉を正しく使えず、言葉によって大を攻撃し、あるいはその母親のように語るべき言葉を語らず、人の体と心を壊してしまうことがあります。なぜでしょうか。それは、私たちの心も悲しみや苦しみ、そして、憎しみや妬み、傲慢さなどあらゆる罪によって壊れているからです。
しかし、神はそんな私たちを憐れんでくださり、言葉によって愛と力を与え、そして、赦し、慰め、いやし、正義、希望を与えて壊れてしまった心を治してくださるのです。
もし、心に痛みや問題を抱え、苦しんでいる方がいたら、神の言葉が書かれている聖書をぜひ読んでみてください。
1月号
あなたも変えられる
「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者」 (Ⅱコリント5:17)
暦にはいろいろな節目がありますが、生き方を変えようと思うならば、やはり新年が一番良い時でしょう。昔から「一年の計は元旦にあり」と言われている通りです。
そこで、今年の計画を立てられた方にお聞きしたいのですが、今年のそれは、昨年と同じような内容になっていないでしょうか。そうなのです。「今年こそ今年こそはと暮れにけり」。誰が詠んだのかわかりませんが、暦が変わり、年が改まっても、自分の心が変わらない限り、自分の生き方を変えることはできません。
では、自分の心を変えることはできるのでしょうか。自分の性格、生き方を変えて、人生をやり直すことは可能でしょうか。
聖書には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)との言葉があります。例外なく、すべての人に与えられた約束として記されています。私もその体験者の一人として、この言葉が真実であると明言させていただきます。
私は若い頃から自分の無能と意志の弱さに苦しみ、強い劣等感に支配され、過去におかした罪の呵責にうめくような、希望とか喜びなどとは無関係と思えるような生活をしていました。それがキリストと出会って一変したのです。劣等感からも解放され、生きる喜びにあふれ、希望をいだける者に変えられたのです。私が特別な努力や修養をつんだのではありません。キリストにつながった(信じた)だけで、新しく造り変えられたのでした。
「キリストにある」とは、簡単に言えば「キリストとつながる」ことです。
柿には渋柿と甘柿があります。不思議なことに、甘柿の種を育てても、その実はすべて渋いそうです。一生懸命に育てても渋柿しかならないのなら、まさに徒労です。これが「『今年こそ』と期待して暮れていく」生き方だと言えます。
しかし、その木に甘柿を実らせる方法があります。甘柿の木を「接ぎ木」すると、渋柿しかならなかった木は、甘い実をならすことができるのだそうです。
同様に、どんな人でも、キリストとつながった時、今までとはまったく違った、新しい人生を歩むことができるようになるのです。
2014年
12月号
クリスマスの喜び
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2:11)
クリスマスと聞いて、まっさきに思い浮かぶのものは何でしょうか。私は「クリスマスプレゼント」です。最初にもらったのは、祖母が枕元に置いてくれた絵本とおもちゃでしたが、躍り上がるほどうれしかったことを覚えています。
クリスマスプレゼントにまつわる実話を紹介しましょう。
アメリカに五人の幼い子どもを一人で育てていたお母さんがいました。生活は貧しく、やっと見つけた仕事はドライブインの深夜勤務。彼女は子どもたちのために一生懸命働きましたが、クリスマスプレゼントを買うお金さえたまらないまま、とうとうクリスマスがやってきてしまいました。結局何も用意できず、肩を落として帰宅しようと車のドアを開けると、何と、車内に箱がいくつもあります。子ども服やおもちゃ、たくさんのごちそうも。恐らく小さい子を抱えて夜通し働くお母さんの姿を見ていた人がそっと車に人一れておいたのでしょう。お母さんは、車の中で涙を流しながら神さまに感謝しました。」(『百万人の福音』02年12月号付録リトルブレッドより抜粋)
おそらく、このような心が温かくなるようなお話は数多くあるでしょう。なぜなら、クリスマスは、自分を犠牲にしても、他の人たちが幸せになるようにと願う気持ちがあふれてくる、不思議な日だからなのです。
では、なぜそのような気持ちになるのでしょうか。クリスマスはイェスーキリストの誕生を祝う日ですが、実はこのことと大いに関係があるのです。
神は、あなたの心の中にある様々な悲しみや苦しみ、つらい思いをご存じで、その原因である罪を負うために、キリストをこの世に送られました。キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげてくださったことにより、私たちに幸せの日々がもたらされる道が開かれたのです。
そうです。キリストは、あなたが幸せになるように用意された、神からのプレゼントだったのです。だからクリスマスは温かい気持ちになるのです。
神の深い愛を知ったなら、あなたも変えられます。ぜひ教会においでになりませんか。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)
11月号
見にきてごらんなさい
「さあ、見にきてごらんなさい」(ヨハネ福音書4:29)
「見にきてごらんなさい」。これは罪ゆるされたひとりの女性の心からの呼びかけです。実にシンプルですが、これを聞いた大ぜいの人たちが、イエスのところにやって来て、イエスを信じるようになったのです。これは現代人にとっても、とても重要な呼びかけです。
サマリヤという町にひとりの女性が住んでいました。彼女は道徳的に非常に乱れた生活を送っていました。周りの人からは「ふしだらな女」というレッテルを貼られていたのです。いつもうしろめたい生き方をしていたので、人が集まる涼しい夕方ではなく、わざわざ暑い日中の時間帯を選んで、水を汲みに来ていました。
ある日のこと、いつものように水がめを持って井戸に来ると、そこに旅の疲れを覚えて、腰をおろしている人がいるのに気づきました。まさか、この旅人が救い主であるとは夢にも思いませんでした。おそらく初めのうちは、彼女の目にはただのユダヤ人としか映らなかったに違いありません。しかし、会話を交わしていくうちに、この人の中にただならぬものを感じ取っていったのです。
そのやりとりを通して彼女は、イエスが自分のすべてを言いあてたことに驚かされました。また、「わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と言うと、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と断言したイエスの言葉に大きな衝撃を受けたのです。
彼女は水を汲むのも忘れ、自分の町に急いで帰って行きました。到着するなり、人々に向かって「見にきてごらんなさい」と語ったのです。人目を避ける彼女が「見にきてごらんなさい」と大胆に人々に呼びかけているのです。実に驚くべき魂の変革です。イエスを救い主と信じて、罪がゆるされ、魂に真の満足を与えられた人は、そう叫ばずにはいられないのです。
初めて教会に行くことは、とても勇気のいることです。誰かといっしょならまだしも、ひとりでとなると、誰もがためらいを覚えるものです。キリスト教はいい宗教だと思っていても、なかなか思い切って教会に行けない人にも「見にきてごらんなさい」とやさしく呼びかけられているのです。
10月号
見にきてごらんなさい
「さあ、見にきてごらんなさい」(ヨハネ福音書4:29)
「見にきてごらんなさい」。これは罪ゆるされたひとりの女性の心からの呼びかけです。実にシンプルですが、これを聞いた大ぜいの人たちが、イエスのところにやって来て、イエスを信じるようになったのです。これは現代人にとっても、とても重要な呼びかけです。
サマリヤという町にひとりの女性が住んでいました。彼女は道徳的に非常に乱れた生活を送っていました。周りの人からは「ふしだらな女」というレッテルを貼られていたのです。いつもうしろめたい生き方をしていたので、人が集まる涼しい夕方ではなく、わざわざ暑い日中の時間帯を選んで、水を汲みに来ていました。
ある日のこと、いつものように水がめを持って井戸に来ると、そこに旅の疲れを覚えて、腰をおろしている人がいるのに気づきました。まさか、この旅人が救い主であるとは夢にも思いませんでした。おそらく初めのうちは、彼女の目にはただのユダヤ人としか映らなかったに違いありません。しかし、会話を交わしていくうちに、この人の中にただならぬものを感じ取っていったのです。
そのやりとりを通して彼女は、イエスが自分のすべてを言いあてたことに驚かされました。また、「わたしはキリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と言うと、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と断言したイエスの言葉に大きな衝撃を受けたのです。
彼女は水を汲むのも忘れ、自分の町に急いで帰って行きました。到着するなり、人々に向かって「見にきてごらんなさい」と語ったのです。人目を避ける彼女が「見にきてごらんなさい」と大胆に人々に呼びかけているのです。実に驚くべき魂の変革です。イエスを救い主と信じて、罪がゆるされ、魂に真の満足を与えられた人は、そう叫ばずにはいられないのです。
初めて教会に行くことは、とても勇気のいることです。誰かといっしょならまだしも、ひとりでとなると、誰もがためらいを覚えるものです。キリスト教はいい宗教だと思っていても、なかなか思い切って教会に行けない人にも「見にきてごらんなさい」とやさしく呼びかけられているのです。
9月号
優しい人になりたい
「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ福音書19:26)
「あなたはどんな人になりたいですか?」。
そう聞かれたら、あなたは何と答えるでしょうか。まさか「意地悪な人になりたい」などと言う人はいないと思います。
「優しい人になりたい」。先日、幼稚園に行った時、4歳の女の子がそう言いました。生まれてまだ4年しかたっていない幼子が「優しい人になりたい」とは…。小さな子どもさえ、自分の心の状態を知っているのです。
実は、その言葉を聞いて、以前、5歳の女の子が、3歳の弟に、「『おもちゃを貸したくない』つて思ってしまう自分の心が嫌なの」と泣き出したことを思い出しました。その女の子は、弟に優しく、いつも弟を優先にしていました。でも、自分の本当の心は、いつも「嫌だ」と思っていたというのです。大人だけではなく、幼い子どもも「心」がわかるのです。
「今日こそ、心から優しく接してあげよう」。そう決意しても、気づかないうちに、悪い思いが頭をもたげ、それだけではすまず、実際に人を傷つけるようなことを言ってしまう。子どもの頃から、それがわかっていたとしたら、私たちは今までどれだけこのような「自己嫌悪」を味わってきたのでしょうか。
そんな私たちに、神は、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)と語って、望みを与えておられます。
人間が、自分の努力で心を造りかえることは不可能です。しかし、神は私たちをお造りくださった方です。つまり、私たちがどのように造られていて、今がどのような状態であるのかも、すべてご存知なのですから、あたかも、不具合が生じた製品を修理し、元通りにするように、私たちを造りかえることがおできになるのです。
それでは、造りかえていただくためにはどうすればよいのでしょうか。私たちを造られたのが神であり、その神が、私たちを造りかえることができると信じるなら、神は私たちの祈り、願いを聞いてくださいます。たとえ、「あの人は、絶対変わることがない」という人でも、神を信じることによって変えられるのです。
「あなたはどんな人になりたいですか?」。神はあなたを造りかえることができるお方です。
8月号
私たちは何につながる
「わたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ福音書15:5)
先日、知人から「ラインとかしているの?」と聞かれた。今、様々なコミュニケーション手段があるようだ。特に現代の若者たちは、主にそれらを使って、お互いに情報交換をし、人間関係を構築している。
しかし、つながりを求めるあまり、多くの人と「友達」になってしまうと大変だ。昼夜を問わず着信がくるようになり、返信しなければ「無視された」「嫌われた」と受け取られるため、絶えず返信しなければならなくなる。お互いのコミュニケーションがうまくいっている時はいいが、返事をすぐにくれなかったなど、関係が崩れ始めると、他の仲間を巻き込んで、相手を中傷するようなことになりかねず、いじめなどを誘発するため、社会問題にもなっているのは周知の通りである。
このように、私たちは人間関係をよくしようと思いながら、その人間関係で悩むことが多くある。人とのつながりは大切ではあるものの、良好だった状況が一変するもろさをはらんでいる。
では、私たちは何につながれば真の安心を得るのだろうか。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人かわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書一五5)と聖書に記されている。
ここで「ぶどうの木」とは主イエスのこと、「枝」とは私たちのことで、私たちが主イエスにつながることで、その人は豊かに実を結ぶようになると言っている。
私たちは、だれかとつなかっていなければ安心できない。だから、安易に「つながる」ことだけを求めるのだが、しかし、結局その「つながり」に悩んでいる。
聖書の言葉に注目してほしい。主イエスと「つながる」ならば、苦しみではなく、豊かに実を結ぶようになると約束してくださっているではないか。
もしあなたがこの「つながり」に生きるなら、主イエスの愛が枝である私たちに注がれ続け、その愛によって私たちの心に喜びや平安が与えられていくのである。それこそが、あなたを生かす、最も大切な「つながり」なのである。
7月号
「いのちの水のあるところ」
「かわいている者はここに来るがよい」(ヨハネの黙示録22:17)
最近コンビニエンスストアに行き、ドリンクを買おうとするとよく目につくのは特定保健用食品。といわれるもの。いわゆるトクホの炭酸飲料やお茶、コーヒーなどです。日本人が好む健康志向に合わせた飲み物で、これらを飲めば高血圧予防になり、脂肪吸収を抑えることができる。また脂肪燃焼を効率よく行うなど、メタボリックな私もそのうたい文句に誘われて、よく買ってしまいます。
それと共に、目立つのが"エナジードリンク"です。ひと昔前は茶色い小瓶に白地のラベルが貼ってあるおなじみのドリンク剤だけでしたが、最近は、今風のデザインが施され、それを飲めばパワーがみなぎり、エネルギッシユに仕事に取り姐めそうなものが数種類あり、トクホと共に、ドリンクコーナーの一角を占めるようになりました。
今年に入り、日本の経済も少しずつ上向きになってきたと言われますが、そのような実感もあまりなく、相変わらず自分の人生の目標達成のために、家族の幸せのために老若男女間わず、私たちは一生懸命に働いています。そのような世の中に、トクホ飲料やエナジードリンクは一役買っているのでしょう。しかし、当たり前ですが、それらのものは、一時な効果しかありませんし、自分の人生がそれらによって成り立っているわけでもありません。それでも、それらの飲み物を欲してしまうのには、一時だけでも、健康に健全に、そしてエネルギッシュに生きたいと願い「渇いている」からなのではないでしょうか。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ四14)
「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録二二17)
共に聖書の言葉です。
イエス・キリストは、この現代社会に生きる私たちの”渇き”を十字架の贖いといういのちの水で満たしてくださいます。そして、その渇きがいやされた私たちは、本当の意味での平安と活力に満ちた生活を送ることができるのです。そのいのちの水は聖書の中に、そして教会にあります。ぜひ足を運んでみてください。(I・Y)
6月号
岩を土台とした人生
「倒れることはない。岩を土台としているからである」(マタイ7:25)
「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである」(イエス・キリストの言葉)
東日本大震災と原発事故から、三年以上がたちます。避難者数は二六万三千人(復興庁発表、2014年4月25日)ということです。ふるさとに帰りたいと思いながらも、耐えている方々が、こんなにいるかと思うと胸が痛みます。一日も早い帰還を祈ります。
さて、人災は別にして、自然の災害は避けることができないのが現実です。また、人生においても、失敗や挫折まない方が良いのですが、必ずあると考えた方が現実的です。それでは、どう対処したらよいのでしょうか。それは「備える」ことです。
先日「災害緊急対策セミナー」に出ました。そこで教えられたことの一つは「三日間の食料と飲料を準備しなさい」でしたが、人生での「備え」は何でしょうか?それは「ゆるがない土台」です。しっかりと人生を立ち上げることができる土台です。
聖書は「(人生の)土台はキリストである」と言っています。しかも、「キリストはきのうもきょうも、いつまでも変ることがない」、「天地は滅びるであろう。しかしわたし(キリスト)の言葉は滅びることがない」と聖書にあるように、「岩」でもあるイエス・キリストを信じて、その言葉に従うならば、人生はゆるがず、どんなことがあってもそれを乗り越えられるのです。
ある方の体験です。18歳で疲れた彼は、生きていても楽しくなく、人生がつまらないものに思われました。そんな時、このイエスと出会い、信じました。すると、本当の心の「土台」を得たことで、何とも言えない安心感と安定感のようなものを得、さらに、心から喜びがあふれてきたのです。それは泉がわき出てくるようなものでした。それからの人生は、積極的になり、喜びに変わっていったそうです。
このようにイエスを人生の土台としたならば、喜びにあふれた豊かな人生になります。あなたも、イエス・キリストを人生の土台とするならば、もっとすばらしい人生を送れるのです。
5月号
不安を解消するために
「キリストはわたしたちの平和」(エペソ2:14~16)
人には決して解決することができないものがあります。それは「不安」です。
多くの人たちは心の安心を得ようとして自分の地位を高めようとしたり、様々なものを所有しようとします。しかし、たとえ、すべてのものを得、目標を達成できたとしても、不安は解消できず、平安な気持ちは訪れません。なぜでしょうか。それは、「平安」が神さまから与えられるものだからなのです。
ほんのひとときなら、平安を味わうことができるかも知れません。しかし、それは状況が変わってまた暗転したり、別の不安が襲ってきて、かき消されてしまうのではないでしょうか。もし、神さまに背を向けて続けているなら、私たちはいつまでも不安から抜け出せず、さ迷い続けていくしかありません。
神さまが与える平安は、どんな人生の嵐に見舞われようとも、失われることのない真の平安です。神さまだけが、与えることがおできになるものです。 真の平安を得るためには何をしたらよいのでしょう。
神さまとの平和を取り戻すことです。
私たちは、神さまに背を向け、また必要とせず、無視したような生き方をしてきました。それこそが、神さまとの断絶をもたらす、人間最大の罪です。しかし、その罪は人間の努力では消えません。その罪をきよめる方法はただ一つ、聖書にこのように記されています。
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまっ
たのである」(エペソニ14~16)
キリストが、私たちの持っていた罪を十字架によって滅ぼしてくださったので、それにより、神との平和がもたらされると書かれてあります。このキリストの十字架のわざを信じることによって、神さまと和解でき、私たちの心に揺るぎない真の平安がもたらされるのです。
平安を得るために、神さまとの平和を求めてください。
3月号
飢えを知る
「人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)
学生時代、私は、牧師夫妻宅で夕食をいただいていました。ある日の夕方、改札を抜けようとすると非常によい匂いがしてきました。「大判焼き」のお店からでした。いつも以上に空腹であった私は、たまらず5つほど買い、道々、「どうせ今日も同じような夕食だろう」と考えながら、着いた時には、すべてを平らげていました。ところが、ドアを開けると、こう言われたのです。「今日はすきやきよ!」。
明らかに、私の喜ぶ顔を期待しての告知でしたが、私のお腹は、もう、何か出てもおいしく食べられる状態ではありませんでした。が、私は顔を引きつらせながら喜びを表現し、苦しみながらおかわりをせざるを得なかったのです。人生最悪の食事でした。
今、この国に住む私たちは、飢えることを知りません。同時に、絶えず満たされている生活は、私たちに本来もつべき、生きる喜びを損なわせています。
神は、神の民たちを四十年も、何もない荒野をさまよわせました。なぜでしょう。聖書には、民たちが物の豊かさで満足し、それを幸せだと誤解していることに気づかせるためだったと記されてあります(申命記8:1~5)。
やり手のビジネスマンが末期がんを宣告されました。その時、その方は初めて死を実感し、同時に、自分は今までどんな生き方をしてきたかを振り返ったのだそうです。仕事や家庭に生きがいを感じていたようにも思いました。しかし、あらためて、「自分の生き方」を問い直してみると、「何もなかった」ことに気づき、情けなくなったそうです。
そうなのです。人間は、荒野のような状態、つまり、それまで、依存していたものが取り去られた時、何のために生き、またどう生きればいいか、わからなくなってしまうのです。
先の方は、絶望の中、以前もらった聖書を開き、初めて神と向き合いました。この方が「飢え」を知った時、神の言葉が心に響き、神を認めないことこそが、最大の罪であることをわからされたのです。その後、信仰を告白した彼の心には、今まで味わったことのないような、平安が訪れました。
「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)。ぜひ、「飢え」の中で真の生き方を見いだしてください。
2月号
のがれる道
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(コリント人への第一の手紙10:13)
私たちには、思いも及ばない色々なものが降りかかって来る場合があります。突然交通事故にあったり、思いがけない大きな負債を負わされたり、入試がうまく行かなかったり、仕事がなくなったりなどです。それこそ、途方に暮れるようなことがあります。
しかし、ある方がこう言われました。「神の許しがなければ、私たちのところに、何一つ来ないのだから、必ず、解決の道、のがれる道があるはずだ」。その通りだと思います。
途方に暮れるようなことが起こったりすると、誠に残念なことですが、自殺してしまう人もおります。しかし、その時こそ、神さまを見上げましょう。
エジプトの奴隷になっていたイスラエルの民は、モーセに率いられて、脱出に成功します。ところが、歩を進めていくと、その先には海がありました。渡ることができないばかりか、後方からは心変わりしたエジプトの軍隊が、おい迫ってきました。絶体絶命です。すると、神さまは「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい」(出エジプト一四16)と言われ、モーセがその言葉のようにすると、なんと目の前の海が二つに分かれたではありませんか。これこそが、神の用意された「のがれの道」です。
聖書には、主イエスが「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネによる福音書一六の二三)と言われた言葉が紹介されています。
もし、あなたが四方八方ふさがれて、万事休すと思った時でも、あきらめないでください。イエス・キリストの名を信じてとなえ、真剣に祈るならば、神は、あなたが考えつかなかったような方法をもって、あなたに「のがれの道」を明らかにし、救いを実現してくださるでしょう。
あなたに良き道が聞かれるよう、祝福を祈ります。
1月号
あなたも変えられる
「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者」 (Ⅱコリント5:17)
暦にはいろいろな節目がありますが、生き方を変えようと思うならば、やはり新年が一番良い時でしょう。昔から「一年の計は元旦にあり」と言われている通りです。
そこで、今年の計画を立てられた方にお聞きしたいのですが、今年のそれは、昨年と同じような内容になっていないでしょうか。そうなのです。「今年こそ今年こそはと暮れにけり」。誰が詠んだのかわかりませんが、暦が変わり、年が改まっても、自分の心が変わらない限り、自分の生き方を変えることはできません。
では、自分の心を変えることはできるのでしょうか。自分の性格、生き方を変えて、人生をやり直すことは可能でしょうか。
聖書には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)との言葉があります。例外なく、すべての人に与えられた約束として記されています。私もその体験者の一人として、この言葉が真実であると明言させていただきます。
私は若い頃から自分の無能と意志の弱さに苦しみ、強い劣等感に支配され、過去におかした罪の呵責にうめくような、希望とか喜びなどとは無関係と思えるような生活をしていました。それがキリストと出会って一変したのです。劣等感からも解放され、生きる喜びにあふれ、希望をいだける者に変えられたのです。私が特別な努力や修養をつんだのではありません。キリストにつながった(信じた)だけで、新しく造り変えられたのでした。
「キリストにある」とは、簡単に言えば「キリストとつながる」ことです。
柿には渋柿と甘柿があります。不思議なことに、甘柿の種を育てても、その実はすべて渋いそうです。一生懸命に育てても渋柿しかならないのなら、まさに徒労です。これが「『今年こそ』と期待して暮れていく」生き方だと言えます。
しかし、その木に甘柿を実らせる方法があります。甘柿の木を「接ぎ木」すると、渋柿しかならなかった木は、甘い実をならすことができるのだそうです。
同様に、どんな人でも、キリストとつながった時、今までとはまったく違った、新しい人生を歩むことができるようになるのです。
2013年
12月号
クリスマスの喜び
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカによる福音書2:11)
クリスマスと聞いて、まっさきに思い浮かぶのものは何でしょうか。私は「クリスマスプレゼント」です。最初にもらったのは、祖母が枕元に置いてくれた絵本とおもちゃでしたが、躍り上がるほどうれしかったことを覚えています。
クリスマスプレゼントにまつわる実話を紹介しましょう。
アメリカに五人の幼い子どもを一人で育てていたお母さんがいました。生活は貧しく、やっと見つけた仕事はドライブインの深夜勤務。彼女は子どもたちのために一生懸命働きましたが、クリスマスプレゼントを買うお金さえたまらないまま、とうとうクリスマスがやってきてしまいました。結局何も用意できず、肩を落として帰宅しようと車のドアを開けると、何と、車内に箱がいくつもあります。子ども服やおもちゃ、たくさんのごちそうも。おそらく小さい子を抱えて夜通し働くお母さんの姿を見ていた人がそっと車に入れておいたのでしょう。お母さんは、車の中で涙を流しながら神さまに感謝しました。」(『百万人の福音』○二年一二月号付録リトルブレッドより抜粋)
このような心が温かくなるようなお話は数多くあるでしょう。なぜなら、クリスマスは、自分を犠牲にしても、他の人たちが幸せになるようにと願う気持ちがあふれてくる、不思議な日だからなのです。
では、なぜそのような気持ちになるのでしょうか。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日ですが、実はこのことと大いに関係があるのです。
神は、あなたの心の中にある様々な悲しみや苦しみ、つらい思いをご存じで、その原因である罪を負うために、キリストをこの世に送られました。キリストが十字架にかかって犠牲の死をとげてくださったことにより、私たちに幸せの日々がもたらされる道が開かれたのです。
そうです。キリストは、あなたが幸せになるように用意された、神からのプレゼントだったのです。だからクリスマスは温かい気持ちになるのです。
神の深い愛を知ったなら、あなたも変えられます。ぜひ教会においでになりませんか。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)
11月号
すぐ近くにある助け
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)。
結婚式っていいなァ。
花婿、花嫁が今までの人生の中で最高に輝いていて、幸せそのものです。その幸せが、お祝に集まった人たちにも伝染してみんなが幸せ気分に満ちます。
結婚式はけっして一瞬のできごとではなく、その後の二人の人生の幸せな時間の始まりでしょう。神の前に誓約した二人は、その幸せを人生の幸せへと育てていくことでしょう。そういう歩みの中で、だれも予想しないことが起って、悩まされたり苦しめられることだってあります。それが人生ではないでしょうか。
さて、婚宴の最中に、その家の人たちを困惑させる事態になってしまった話が聖書に記されています。
イエスの育ったナザレという町から北へ十四㎞にある小さな町、カナでのことです。結婚の祝宴は親類、友人知人が招かれ、一週間以上にも及ぶといわれます。イエスとその弟子たちも招待されました。その婚宴の最中に、用意していたぶどう酒が足りなくなってしまいました。婚宴でぶどう酒が切れてしまうことは、非常に不名誉なことでした。
その時、この席に居合わせ、宴の手伝いをしていたに違いないイエスの母マリヤが、「何とかしてほしい、助けてほしい」とイエスに懇願します。イエスは、その家に置いてあった四、五斗も入る石の水がめに水を満たすよう料理人に指示します。彼らはその言葉に従い水を満たし、それを汲んで料理がしらのところへ持って行くと、驚いたことにその水がぶどう酒に変わっていたのです。単に変わっていたというだけでなく、料理がしらは花婿に驚嘆の言葉を口にします、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」(ヨハネ2:10)と。
窮地から救われたのは、そこにイエスがおられたからです。
悩まされ、苦しめられることがあっても、このお方を私たちの生活の中にお迎えし、このお方が生活の中におられるなら、これほど心強いことはないでしょう。そのような歩みをした人が言いました、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」。あなたにとってもそういうお方です。
10月号
良い実を結ぶには?
「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)
実りの秋がやってまいりました。米を始め、ぶどう、柿、梨、栗、そしてみかんなどが収穫の時を迎えつつあります。最近では、米においても、また、色々な果実においても品種改良が進んできています。ぶどう一つをとってもたくさんの種類の、また、色々と味の違うおいしいものができてきています。
さて、聖書の中で、イエス・キリストは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)と言われました。
渋柿の木はどんなに肥料をやり、日あたりを良くし、良く水をやって、多くの柿の実がなったとしても、渋柿には変わりがありません。それは渋柿の木だからです。甘柿の木にしか甘柿はならないのです。
人間も、性質が根本的に良くならなければ、良いものは出てこないのです。愛の心から愛の行動が出てき、きよい心からきよい行動が出てくるのです。
それではどうしたら、憎しみと欲に満ちた自己中心的な心が、きよい、愛の心に変わるのでしょうか。
難行苦行をしてもあまり変わりません。しかし、聖書にはその方法が記されています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)です。
ここに「キリストにある」とありますが、これは「キリストを信じる」という意味です。キリストを信じることによって、古い罪や醜い悪い性質が造り変えられて、きよい、愛の心になるというのです。それは悪がキリストの十字架によって解決したからです。
万引きをどうしてもやめられない方がおりました。やめようと決心してもどうしてもやめられなかったのです。しかし、キリストを信じて本当に変えられた時に、それをやめることができたのです。それはその人の心がキリストを信じることによって新しく造りかえられたからです。きよい、愛の心が与えられたからです。それによって、きよい、愛の行動を行うものとされ、良き実を結ぶ者とされたのです。
ぜひ、あなたも、イエス・キリストを信じて、良い実を結ぶものとなってください。
9月号
神の消しゴム
「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である」(イザヤ43:25)。
三島由紀夫やトルストイは自分が生まれた時の光景を克明に覚えていると述べています。幼稚園の年少組に聞くと胎児の時や産道を出てくる時の感覚を話す子どもがいますが、小学生になるとほとんど忘れてしまうと言います。それはそのような記憶を消してしまう脳の機能があるようです。前に進んで生きていくために、神がその記憶を消されるのではないかと思います。
百歳の詩人といわれた柴田トヨさんの詩集「くじけないで」に“ことば”という詩があります。
「何気なく/言ったことばが/人をどれほど/傷つけていたか/後になって/気がつくことがある/そんな時/私はいそいで/その人の/心のなかを尋ね/ごめんなさい/と言いながら/消しゴムと/エンピツで/ことばを修正してゆく」
あの時、ああすれば良かった、こうすれば良かった、選択を間違えた、失敗だった…など、後悔するような過去の記憶。人からあんな辛い思いをさせられた、状況から苦しい思いをさせられたなど…、悔しい思いが残る過去の記憶。それは消したくてもなかなか消すことのできないものです。
意を決して、その過去の記憶を解釈し直して、人のせいにも、自分のせいにもせず、私の人生、これでしかなかったし、これで良かったと、人生ノートを消しゴムとエンピツで修正することは可能でしょう。
しかし、どうしても消すことのできない記憶があります。それは何かいけないことを言ってしまった、やってしまった、思ってしまったという良心の呵責、罪責感のともなう罪跡です。
それはきっと神が消さないからでしょう。それでは人は救われないので、イエスが遣されて、十字架において私たちに代わって、罪の責め、神のさばきをすべて受けてくださり、あがないをなしとげてくださいました。そのことを信じて、悔い改めるなら、その罪跡は消しゴムで消すように神が消してくださるのです。
神ご自身が「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ43:25)。それが神の国に入れる「記録」となるのです。
8月号
世に勝つ者はだれ?
「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(Iヨハネ5:5)
今年も、暑い夏がやって来ました。
涼を求めて、海に、山に、川にと繰り出す人がいる一方で、「こんなに暑いのに出かけるなんて」と、もっぱらクーラーの効いた部屋に立てこもったり、街中の冷房のよく効いた施設で楽しむ人もいたりと、様々です。
そうした中で、毎年恒例の「夏の甲子園」には、ただただ脱帽です。「熱闘、甲子園」とはよく言ったもので、灼熱の日差しを浴びながらグランドでプレーする選手や審判たちはもちろん、アルプススタンドで応援する観客、テレビの前で観戦する者まで巻き込み、優勝を目指して「勝つか、負けるか」の熱い戦いが繰り広げられます。
考えてみれば私たちは、「生まれた時から『勝つか負けるか』の競争社会」の中に置かれています。「体重や身長」「髪の毛の多さ」「色の白さ」等の比較に始まって、本人の知らぬところでも、いつから歩き出し、話し出したなどと話題にされながら成育して行きます。
長じると、本人白身にも、「勉強ができる、できない」「スポーツが得意、苦手」「モテる、モテない」などの競争心が芽生え、やがては、「どこの学校に入った」「どこの会社に入った」「どんな職業を得た」、などと競争が激烈になっていき、やがては、「勝ち組」「負け組」などとレッテルを貼られてしまいます。
この世の評価は、どんな肩書きを得たのか、どれだけの財産を築いたのか、どんな家を建てたのかなど、もっぱら目に見える事に焦点を当てます。
ただ、「人生」はいつまでも続きません。必ず、すべての人に死がおとずれます。人生の長さや死に様は異なったとしても、死は平等にすべての人におとずれ、死の彼方には、何一つ持っては行けないのです。
しかし、その限りある人間に、永遠に続くものとして与えられるのが、イエスーキリストを信じることによってもたらされる「永遠の命」です。
聖書ははっきりと、「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5:5)と断言しています。
限りある人生において「永遠の命」を獲得する、これこそが最大の勝利ではないでしょうか。どうかあなたも、獲得なさってください。
7月号
潤った園のように
「あなたは潤った園のように水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)
梅雨が明け、毎日暑い日が続きます。最近では熱中症が心配され、給水に心がけるようにと盛んに言われています。しかし、それと同様、人の心が渇いては大変なことになってしまいます。
聖書に、「あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:11)とあり、イエスさまが、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」(ヨハネ7:38)と言われているように、イエスさまを信じる人の心の奥底からは、生ける水の川が流れ出るように、いつも、命に輝く人になることができると書かれています。
あなたの心は渇いていないでしょうか。
心が潤うためには、まず、自分が飢え渇いている状態であることを認め、満たされることを求めなければなりません。
あなたが心の渇きをいやされたいと求め、命の水があふれ続けることを慕い求めておられるならば、幸いです。その渇いている心を持つ人が幸いな人なのです。イエスさまが、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになる」(マタイ5:6)と言われたのは、そのことを指しています。
それではどのように求めたら、満たされるのでしょうか。 私たちが水を飲む時、蛇口をひねります。水道には水があふれていると信じているからです。
イエスさまは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7:37)と叫んで言われましたが、イエスさまこそが、私たちの渇いている心を満たす、唯一のお方です。イエスさまが成し遂げられた十字架と復活の奇跡が証拠です。それは神と人とを結びつけ、神の無尽蔵の豊かさを人に与えるためのものでした。それを信じるのです。信じる時に、あなたは必ず満たされ、そして、祝福されるのです。
自分の渇きを認め、そして、その心を潤すことができるのはイエスさまであると、信じるならば、必ずあなたの心はいやされ、潤った園のように、水の絶えない泉のようになるのです。
あなたが豊かな命の水にあふれ、生き生きと輝く毎日を過ごすことができますように。
6月号
飢えを知る
「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)
ある日、駅の改札を抜けようとすると「大判焼」のよい匂いが…。私は、たまらず5つ買って、歩きながら食べ始め、着く頃にはすべてを平らげていました。ところが、ドアを開けると、妻がこう言ったのです。「今日はすきやきよ!」。明らかに、私の喜ぶ顔を期待しての告知でしたが、私のお腹は、もう、どんなごちそうが出ても、おいしく食べられる状態ではありませんでした。私は、顔を引きつらせながら喜びを表現し、苦しみながら、おかわりをした、人生最悪の食事でした。
不況と言っても豊かな生活をしている私たちは「飢え」を知りません。それは生き方にも影響を与え、多くの人は、心も満たされているかのように感じて生きているように思います。
旧約聖書申命記八章には、神があえて、神の民を何もない荒野に導き、「あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること」を知ろうとされた、とあります。イスラエルの人たちは、エジプトでは奴隷であったものの、食べるものは十分あったと思われ、満たされていたからこそ、真剣に神と向き合わず、奴隷である環境に甘んじていたと考えられます。
先日、ある方にお会いしました。これからという時、末期の胃ガンを宣告されたのです。その時、初めて「人間、死ぬのだ」と実感し、同時に、今までどんな生き方をしてきたのか振り返ったのだそうです。仕事や家族のためとは思ってやってきたが、「自分の生き方」については何も考えていなかったことに気づき、動揺したと言っていました。
そうです。人間は、荒野のような状態、つまり、丸裸にされなければ、自分が何者であるかを考えないのです。そして、それまで依存していたものが取り去られた時、どう生きればいいか、わからなくなってしまうのです。
その方は、その後、自分の生き方を探して神と出会い、聖書を読み続けていくうちに、神を認めないことこそが、最大の罪であることがわからされ、悔い改めて神を信じましたが、自分が依存しているものがすべて取られたらどうなるのか。心の飢えの状態をイメージし、自分の生き方を問い直すべきだと思います。その時、神は、「人はパンだけで生きているのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と語られるのです。
5月号
人生には希望がある
「まず神の国と神の義とを求めなさい」(ヨハネ14:6)
最近、私は、ある方から、「人生四毛作」という考え方を提案されました。
第一に、私たちが誕生から25歳まで「人生の方向付けの期間」、第二が26歳から50歳まで「人生の基礎作りの期間」、第三は51歳から75歳まで「人生の収穫の期間」、そして第四が76歳から死ぬまで「自分の好き勝手に生きて良い期間」というものです。
非常に巧みにまとめた面白い考え方だと感心してしまいました。しかし、このように人生を区分し、「76歳になったら、自分の好きなように生きても良いですよ」と言われても、計画通りうまく進むでしょうか?将来は不確かですから、まず不可能だと言えるでしょう。
人生には大きな喜びや楽しみがありますが、正直なところ、私の体験でも「生きる」ことは大変疲れることです。ある人が「生身の人間である私たちは『忍耐』という細い糸に『苦悩』という大きな重荷をぶら下げて生きている。忍耐の糸は細く容易に切れやすいので、いつも修繕をしなければならない」と言いましたが、その通りだと思います。
私たちには日毎に追いかけて来る極度のストレスがあります。気力は失せ、悲しみは増し、心の病になって健康な社会生活を送れなくなることもあります。それでも、辛さに耐えながら、生きる努力をしなければならないのが人生。誰がこのような日々を?…と深く悩みます。
しかし聖書には、私たち以上の苦難にであった人物パウロが次のように語っています。
「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(Ⅱコリント4:8~9)。彼はどんな人生にも生きる希望と秘訣があると語ります。悲しみ、苦悩、絶望の中でも喜んで生きる道があり、それはすでに、救い主イェスーキリストによって準備されていると教えています。
私たちの人生はすべて神の御手の中にあります。神を離れて物事を考え、思い悩むべきではありません。全能の神を信じる時、神は私たちに必要なすべてを備えてくださいます。もし今、悩みの中に在っても必ず、そこに解決の道を備えてくださいます。
〈イエス・キリストの言葉〉「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)
4月号
人生の道案内
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
今は、多くの車にナビゲーションが搭載されています。日本全国の地図を見ることができるので、どこへ行くにも楽に行くことができます。知らないところへ車で行く時には大変便利です。自分の行きたい場所の住所や電話番号、ルートを選んで人力すれば、画面上で行き先を案内し、到着時刻や距離を表示してくれます。また、間違った道を走った時でも、すぐ新たに表示し直し、渋滞情報やその他にも有料道路を利用すると料金も知らせるのです。様々な情報を教えてくれるので、至れり尽くせりです。ですから、一度経験するともう手放せなくなるかもしれません。
しかし、困ったことがない訳ではありません。古い地図が搭載されているカーナビで運転した時のことです。そのナビは正確に目的地を示すことができず、近くまで来ているものの、迷ってしまいました。また時々、違ったルートを教えることもあるので、安心して走っているとかえって遠回りすることもあり、気をつけなければなりません。それを避けるためには新しい情報を得る必要があります。また、目的地の近くまで来ると、案内を終了することがありますので、注意して運転しなければなりません。
昔、イスラエルの民たちは、エジプトで奴隷生活をしていましたが、神は、イスラエルの民の中からモーセという指導者を立てて、エジプトから脱出させました。その時、神は、「彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた」とあります。彼らは、神ご自身に道案内され、昼は暑さから守られ、夜は獣や寒さから守られ、ついに約束の地へと導かれた、という経験をしました。
イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。イエスは、私たちが歩むべき道を示し、常に誠実に命へと続く道を案内してくださるのです。たとえ、私たちが道からそれたとしても、正しい道へと修正してくださいます。安心して人生の道案内をお任せできる人はなんと幸いなことでしょう。
あなたもイエス・キリストに道案内していただいてはいかがでしょうか。
3月号
満員はありません
「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)
今年の1月2日、私たちの教会のYさんが、大変安らかに、96歳で亡くなられました。京都出身で、京言葉と笑顔がすてきなおばあちゃんでした。私は6年足らずのお交わりでしたが、印象的な思い出があります。
ある日の礼拝が終わって、Yさんとお話ししていた時のこと。おかげ様で元気だけれども、みんなの世話になっているなど、いろいろお話しくださる中で、「早よ天国に行きたいんやけど、なかなかお迎えに来てくれはらしまへん」と言われました。と、そこで言葉が止まって、真剣に考えるような表情をして少し間が空いてからひとこと、「天国…満員なんやろか?」と言われたのです。その表情が本気とも冗談ともとれるようなご様子で、言った後に本人も声を上げて笑っておられましたが、私も何とも言えずおかしくなって一緒に笑ってしまいました。でも「そんなことないですよ、イエスさまがちゃんと立派な住まいを用意してくださっていますからね」とお話し七ましたら、ニコニコと聞いてくださっていました。その笑顔は忘れることができません。
私はYさんとの交流の中で、ああこの方は、人は死んで終わりじゃないと心から信じている、本当に天国に希望を持っているんだ、と思わされました。
人は死んだら終わり、だから今の人生を一生懸命に生きる。それも一つの考え方でしょう。しかし、自分の存在が肉体と共に消滅するというなら、死は私たちにとって恐怖以外の何ものでもありません。そしてその恐怖の出来事に向かって進んでいく人生というのは、何ともむなしく、希望がないように思うのです。でもYさんのように、死の先を信じて歩むことができるならば、人生そのものも希望ある人生になるのではないでしょうか。
イエス・キリストは、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)、また、「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)と言われました。主イエスが十字架と復活によって、死に勝利する道を示されただけでなく、信じる者に、天の住まいを用意してくださっている。それが聖書の語るメッセージです。
天国に満員はありませんので、どうぞご心配なく。あなたの住まいも用意されています。
2月号
救いの道
「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」(ヨハネによる福音書14:6)
私はある城下町で生まれ育ちました。城下町は敵を防ぐために複雑な道の作りになっています。ですから少年時代、慣れない場所に行くと、道に迷ったものでした。少し路地を入ると目印もなにもなく、複雑な入り組んだ道の連続で、行きたい方向と全く違う所に出てしまうのです。
そんな町で育った私にとって、今住んでいる京都はとても道がわかりやすいと感じています。道が碁盤目状になっているからです。交差点名は南北の通りと東西の通りの名を合わせたもので、通りの名と順番を覚えれば、それが目印となって、大体自分がどこにいるのかがすぐにわかり、とても便利です。
私たちは初めての場所に行く時、目的地までわかりやすい道、はっきりした目印があれば、安心してそこに行けます。しかし、道がわかりにくく、目印もないとしたらどうでしょう。不安でしかたがないと思います。
あなたの人生行路はいかがでしょう。現代は「標(しるべ)無き時代」と言われています。頼みとしていたものが崩れ、人々は右往左往し、先行き不透明な現状に嘆いています。まるで目印のない、入り組んだ道で迷っているかのように。私たちはどこへ進めばいいのでしょうか。
イエス・キリストは「わたしは道である」と言われました。イエスご自身が道なのです。どこに進んだら良いのか、共に歩んでくださいます。
イエスを知り、イエスを求めることによって、イエスは真理であられるゆえ、正しい生き方の極みを具体的に示されました。イエスに従う人を真理、正しい所に導いてくださるのです。また、いのちであられるゆえ、生きる道、本来人の行くべき道を知っておられるのです。
イエス・キリストは人類を救うために、救いの一本道となられました。このお方ご自身が道なのです。このお方に信頼して歩む時、あなたの人生は平安に満ちた、目的のあるいきいきとしたものになるのです
1月号
私は変わりたい!
「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5)
新年を迎えると新しい気持ちになります。そして、今年は今までと違って新しい年であるようにと願います。できれば、自分も新しくなりたいと願うでしょう。はたして、私たちは変わるのでしょうか。教会が新しく開設された時、教会の前の看板にこう書きました。「人は道徳や宗教で変わるでしょうか?」教会の前を通ってこれを見た方はどう感じたでしょうか。「人は道徳や宗教では変わらない、と言いたいのだろうか?」、「道徳では変わらないのか、そうかもしれない。宗教でも変わらないと言いたいのだろうか?宗教でも変わらないのなら、何で変わるのだろうか?キリスト教も宗教ではないか、キリスト教でも人は変わらないと言いたいのだろうか、キリスト教会の看板に、キリスト教でも変わらないと書いてあるのはどういう意味だろうか?」この看板を見て、見た人に考えてもらいたかったのです。自分は変わりたいのか、自分は変わることができるのか、ならば何によって変わることができるのか?と。この看板の意図は、人には道徳や宗教はためにはなるが、人を変えることは無理であることに気づいてほしかったのです。
キリスト教でも変わりません。しかし、キリストによって人は変わるのです。
聖書には、キリストによって人が変わった歴史が書いてあると言っても過言ではありません。キリストの教えを守って変わったのではありません。キリストに対面し、キリストの言葉を聞き、キリストに出会った時、その人は変わりました。ザアカイもそうでした。彼はキリストを一目見ようと、人混みを避けて木にのぼります。そこに通りかかったキリストが、彼に向かって「下りてきなさい、今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけられるのです。それを聞いたザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエスを受け入れます。彼はその時、変わりました。その後、どのように変わったのかは、新約聖書ルカによる福音書一九章を読んでみてください。
あなたも彼のようにキリストによって変わることができますように。
2012年
12月号
好奇心と再生
「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」(伝道の書2:11)
今年8月5日、米国航空宇宙局(NASA)は火星探査機「キュリオシテイ(好奇心)」を赤道付近にあるゲイルクレーターヘ着陸させ、本格的な探査活動を始めました。キュリオシティーからは火星の様子を伝える画像が次々に送られ、約二年をかけて火星に生物が存在していたかを調査するそうです。また10月8日には、再生医療の実現に道を開くIPS細胞(人工多能性幹細胞)を作りだすことに成功した山中伸弥・京都大教授か、2012年のノーベル医学生理学賞に輝きました。
このように科学や医学の発展は目覚ましく、人に限りない希望を与えているかに見えます。確かにかつては謎であった領域に光が投じられ、不可能と思えたことが可能になっていきます。しかし他方、自然破壊が急速に進んで地球の破滅が迫っていることや、おぞましい殺害が毎日のように報じられている現実も忘れてはなりません。それは輝かしい技術の進歩とは裏腹に人類を覆う闇が日増しにその暗さを増しているかのようです。
聖書は「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」と告げています。すなわち、人は誰にでも「永遠を思う」好奇心が与えられていますが、神のなされるわざの全貌を見極めることはできないのです。では「永遠」とは何でしょうか、それは「永遠の命」または「永遠の神」と置き換えられます。実は人は潜在的にこのことへの好奇心を与えられているのです。
主イエスの弟子ヨハネは「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と書き残しました。
クリスマスはこのことが現実となった日です。神のひとり子イエスが人の罪を身に負って十字架で死なれるために来られたのです。そしてこのイエスを救い主と信じる人に「永遠の命」が与えられるのです。それは人の心を再生させる命です。体の一部を再生させるIPS細胞ではありません。人の心を生まれ変わらせる神の命です。
11月号
豊かさは衰亡の原因
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)
政治のトップはたやすく変わっても、混迷は続いています。国の内外に深刻な課題が山積しているにもかかわらず、何も解決されていないように感じているのは私だけでしょうか。ついに、「国の存亡の危機」とまでおおっぴらに言われるようになりました。
「なぜ国家は衰亡するのか」(中西輝政著・PHP新書)には、大英帝国、ローマ帝国、また江戸時代などを取りあげながら、なぜ隆盛を誇った国が衰退していったのかが検証されています。詳しくはご一読いただきたいと思うのですが、興味深いのは、ここで指摘されている衰退の予兆となる社会現象が、現代の日本にぴったりと当てはまることなのです。
海外旅行、温泉ブーム、グルメツアー、各地で連日催されるイベントの数々、文字離れと同時に起こるマンガ文化、そして次々に組織される新興宗教。重ねて申し上げますが、これは、現代の日本で起こっていることを列記しているのではなく、前述した国家においてみられた現象です。
確かに、言われてみれば、その通り、歴史で学んできた出来事ですが、それが国家滅亡の兆しだったとは。豊かさこそが、国家衰退の原因を作っているのだなあとあらためて考えさせられました。
さて、そこで私たちは、何のために生きているのか、何をもって幸福というのかを自分自身に問わなければならないと思います。
物があふれ、何の不自由もなく生活ができる豊かさは、人間に何をもたらすのでしょうか。滅びです。「盛者必衰」を歴史が証明しているのに、私たちはなおもさらに、その愚かさを繰り返し続けるのでしょうか。
主イエスは、有名な山の上の教えで「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ5:3)と言われています。
物質的な富、またはすべての組織を思い通りに動かすような権力、名誉が無意味であり、幸福にはなり得ないということを知って、そのようなものを求めず、神こそが、自分の心を満たす方であると信じるならば、あなたの心に喜び、平安、愛、様々な祝福がもたらされると言われたのです。
10月号
あきらめない
「わたしを強くしで下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙4:12~13)
「わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:12~13)
東日本大震災から一年半が過ぎました。いまだに復興が進まない中にあって、先日、岩手県釜石市にある一つの仮設住宅を訪問いたしました。
この場所にある談話室では月二回、手芸教室が開かれており、それを楽しみにしている方がおられます。ほとんどが女性ですが、その中に一人、男性が通っておられます。今回は、その方とお話しをする時が与えられました。「毎回来ておられるのですか?」とお聞きすると、「そうだ。ボケないためにやっているんだ」と、元気な声でこたえてくださいました。毎日、朝から昼の三時まで、休まず手芸をしているのだそうです。地震と津波ですべてを失い、八十歳を過ぎていてもなお、前向きに生きている姿を見て、とても励まされました。
確かに、困難を乗り越えようとすることや、そのような人を助けてあげようとすることは大切です。しかし、限界があることも事実です。「もうだめだ」、「無理だ」、「やめよう」という気持ちと戦って、絶えず自分を奮い立たせていかなければなりません。さらに、先の見えない中で、どのような将来を考えることができるでしょうか。誰も確かな保証をしてくれないのです。
しかし、そのようなあきらめと絶望の中で、私たちに希望と前向きに生きる力を与えてくださるお方がおられます。そのお方こそ、今もあなたに語りかけ、招いておられるイエス・キリストです。
主イエスは、信じる者を「強くし」、「何事でもすることができる」ようにし、「ありとあらゆる状況に処する秘訣を」与えてくださるのです。
あなたのすべての悩みや問題を、このお方にお任せしていくならば、挫折してしまいそうなあなたの心を強くし、様々な方法によって驚くべき道を示し、心を平安にし、希望に満ちあふれさせ、真の「あきらめない」人生を歩ませてくださるでしょう。お祈りしています。
9月号
教会の敷居は高い?
「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」(ヨハネによる福音書1:39)
ある放送局の宗教調査によると、日本人の三分の一以上が、「宗教を信じるならキリスト教」と答えられたそうです。
ところが、教会の礼拝に出席する人は少ないようです。どうしてでしょうか。教会はバリアフリーの教会も多いですが、建物の構造だけではなく、イメージの問題でしょう。
そんな方々のことを考え、地域の教会と一緒になって、教会の様子を知らせる「教会ってどんなとこ」というパンフレットを作りました。
開くと、中には大きく「教会って身近なところ?」なのですよと書かれています。カラー漫画で教会が紹介されています。
①教会は「楽しい」ところなのです。餅つき大会、キャンプ、等々、様々な「楽しい」体験ができます。小さい子どもと接し、大人も、お年寄りも元気をもらえます。
②教会は「ためになる」ところです。色々な奉仕をすることでスキルを養い、高めることができます。お年寄りから、人生の知恵や体験を伺えます。「おばあちゃん、すごい!」など、感動することも多いのです。また、色々な職業の人に会うことができ、交流することで、情報交換ができたり、違った世界を体験できます。子育てなどの経験に基づく情報も得られます。聖書や礼拝を通して、悩むことも祝福につながる体験ができます。ピンチはチャンスになるのです。病気など困難等に出会っても、祈ってもらえます。また、転ばぬ先の杖、それが教会でもあります。さらには、感動して生きる希望や目標や方向性を手にすることでき、学びや働きに確信が持てます。退職する前に、教会で人間関係を築いているので、退職後もスムースに生活できます。
このように、教会は困った時だけの教会ではなく、私たちの「生活」に深くかかわっており、赤ちゃんからお年寄りまでいて、大きなファミリーのようです。
また、教会は、世界の人々が本当に幸せな生活ができるため、平和な世界、差別のない世界、一人の人が大事にされる世界を、罪を犯す社会から真の生き方へ、神さまが願っている環境、世界になることを願って日々仕えています。
これが教会です。
8月号
死の恐れからの解放
「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル人への手紙2:15)
最近、有名人で亡くなられた方の報道を聞くたびに、以前より死を身近に感じるようになりました。同世代を生きてきた仲間の死に感じるのです。地井武男、小野ヤスシ、ザーピーナツの伊藤エミ。親を看取る立場から、自分の死を受け止める立場に移ってきたのでしょう。逃げられない死の現実が、しだいに迫ってきているのだと実感しています。
ですから「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」という聖書の言葉を発見すると、ハツとします。心の底まで光に照らされるようです。
高校三年のときに、私は親友の死に直面しました。四十年以上も前ですが、遺体の前で体が震えるのを押さえることができなかったことを覚えています。
「死の恐れの奴隷」とは、かつての自分そのものでした。変わり果てたこの友のようにいつか自分も死ぬ。そうして棺に納められ、焼かれて行く。時がたてば、みんな忘れ去ってしまう。存在のはかなさ。死んだらすべておしまいなのだ。何をやっても死んだら何もないのだろうか。
友人の死をきっかけに教会に通い出し、どこから死の恐れが来るのかを教えてもらいました。「罪の支払う報酬」それが「死」であり、裁かれる恐れである。しかし神は、イエス・キリストをわたしたちの罪の身代わりとして十字架で裁かれ。信じ者の罪をゆるし、永遠の命を与えてくださる。もう罪の結果としての死を私たちが味わうことはない。この聖書が語る救いのメッセージが、高校生の私をとらえました。自分の存在が死んで無に帰することを思い、不安で恐れていました。でもその死の恐れから私を解放し、永遠の命に生きる者と変えてくださったのです。
よく人は、神には人間の死の苦しみはわからないだろう、と思いやすいのです。事実は逆です。罪の裁きとしての死の本当の恐れは、神の子であるイエス・キリスト以外にはわからないのです。この方だけが誰よりも深く死を恐れ、完全に受け止め、死んでくださったのです。この十字架を感謝し、罪を悔い改める時、私たちは死の恐れから解放されている自分を知るのです。
7月号
幼な子のように
「幼な子のように神の国を受けいれる者」(マルコによる福音書10:15)
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコによる福音書10:15)
幼児の心は素直です。大人(親)の言葉をそのまま信じ、絶対の信頼を持つものです。
幼児教育の働きをしていた頃、ユミちゃんという五歳の女の子がいました。ユミちゃんは図鑑を見たりして、いろいろなことを覚える知識欲旺盛な女児でした。ある日、ユミちゃんと一緒に幼稚園バスに乗っていると、バスの脇をコンクリートミキサー車が通過しました。するとユミちゃんは、「先生、あの車はね『コンクリーター』 って言うんだよ。お父さんが教えてくれたの」。それを聞いた時、私は(えっ?「コンクリーター」こと思いました。お父さんが「コンクリートミキサー車」を「コンクリークー」と教えるわけがないし、ユミちゃんの勘違いだろうと思って言いました。「ユミちゃん、あれはね、『コンクリートミキサー車』っていうんだよ」。
するとユミちゃんはムキになって反論しました。「先生、違うよ、お父さんが『コンクリークよって教えてくれたんだから『コンクリークー』だよ。先生が間違ってるよ!」「でもね、この間図鑑で見たでしょ?あれはコンクリートミキサー車、っていうんだよ」。再度私に言われてしまったユミちゃんは顔を真っ赤にして「お父さんが教えてくれたんだもん!・コンクリーター!・コンクリーター!・コンクリーター!」と叫んで怒って向こうを向いてしまいました。ユミちゃんはきっと、お父さんの言葉まで否定されたと思いこんだのでしょう。私の言う言葉になど聞く耳を持ちません。そっとしておくことにしました。
翌日、ユミちゃんは幼稚園に来て私に、「先生、昨日の車ね、お父さんにきいたら『コンクリートミキサー』って言ってたよ」と話してくれました。私はそのようなユミちゃんの姿を見ながら、お父さんの言葉への信頼感はすごいと思いました。
イエスさまの「幼な子のようにならなければ」という御言葉は、そのような父なる神への絶対的な信頼ではないでしょうか。あなたも幼な子のような信頼をもって御言葉を受け入れるならば、神の国に入ることができるのです。
6月号
愛の光
「最も大いなるものは、愛」(コリント人への第一の手紙13: 13)
「神さま、たとえ今日、何ができなかったとしても、神を愛し、人を愛する時をしっかりと持つことができるようにしてください。それが人生のすべてなのですから」(R・ウォレン)。
この祈りの言葉は、私と親しくしてくださっていたKさんが、枕もとにおいて毎朝、目覚めたら口にしていた言葉です。
あなたは、どんな気持ちで今朝、目覚めましたか。心を表現することが難しい方は、たとえば色におきかえて、今朝の気持ちを表現してみてください。
やさしい緑、澄んだ青、情熱の赤などと表現する時には、きっと毎日が充実していたり、自分の思うように事が運んでいるような時だと思います。けれども、ある時にはよどんだ色や、暗い色しかイメージできない日もあるかもしれません。
しかし、そのような時にこそ神さまに祈ってみませんか。暗い心を引きずって一日を歩むのではなく、イエスさまに心を向けて、どのような心を持ちたいか祈ってみるのです。
先ほどご紹介したKさんは、「神を愛し、人を愛する時をしっかり持つことができるように」と、朝ごとに心を染め直しておられました。
ここで戸惑う方がおられるかも知れません。
多くの人は「愛する」との言葉に、「愛とは人類の永遠のテーマである」などととらえて難しく考え過ぎてしまい、自分には関わりのないことにように感じてしまうようです。しかし、あえて申し上げたいのですが、むしろ素直に「愛に生きたい」と思うことが大切です。
マザー・テレサは、「多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです」との言葉で、現代社会が抱える悲しみを表現したことがあります。だからこそ彼女は、世界中の人々に向かって、「愛はほほえむことだけで始まります」と提唱したのです。
「愛」は自分を、そして人を生かします。だから祈るのです。神さまに心を向けて祈る時、神さまの愛があなたに注がれるでしょう。「祈る時、私たちは神さまの愛の光になります」と彼女は言いましたが、神さまの愛はあなたの人生をすばらしい色に染めあげてくださるでしょう。
まずはぜひ、あなたの心を神さまに向けてください。
5月号
偽りのない
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)
石の彫刻にまつわる面白い話を聞いたことがあります。英語で「偽りのない」とか「真実の」を表すシンシア(sincere)という言葉がありますが、語源をたどるとラテン語の「シネセラ」という言葉からきていて、それは「蝋(ろう)無し」という意味だそうです。芸術作品としての石の彫刻が完成した時、制作者は「これは百%石の彫刻です。決して蝋でごまかしてはいません。つまり、シネセラ(蝋無し)です」と言ってその作品を差し出したと言われています。食品で言えば「添加物無し」と言ったところでしょうか。
彫刻師の中には、欠損してしまった部分や細工の難しい部分を柔らかな蝋でごまかす者がいたのでそういう言葉が生まれたのでしょう。
しかし、何事につけ、人間はパーフェクトな自分を誇示します。時には見栄を張ったり、背伸びしてまで実際以上に見せようとします。
聖書には「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」という句があります。もし、私たちが人の目より神の目に心を用いるなら私たちの人生は大きく変わるかも知れません。
同じ指紋の人が世界に二人といないように、神さまは人それぞれに唯一無二の個性を備えて造られました。誰かと比べた自分ではなく、ありのままの自分を神さまの賜物として受け入れられたら、どんなに自然体で生きられるでしょう。
イエスさまの弟子の一人、パウロという人は自分の才能や境遇を自慢する人でした。それが、イエスさまと出会って以来、自分の弱さをすら誇る人間に変わりました。
私も人の子、流行を追う心理もわかります。昔は日本人女性の美しい髪の色を「髪はガラスの濡れ羽色」と言ったものです。それがいつの間にか「髪は醤油(しょうゆ)の煮染め色」になりました。それが今、そんな人たちの髪を何の違和感もなく見ています。要するにそれが流行というものなのですね。流行も多様化した価値観の一つというわけでしょうか。
しかし、そういう時代であればこそ、「心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」(Ⅰペテロ3:4・新改訳聖書)との聖書のお勧めを忘れてはならないと思います。
Yours sincerely 《敬具》
4月号
老いも死もまた善し
「わたしは…走るべき行程を走りつくした」(テモテヘの第二の手紙4:7~8)
寒い朝、私は手のひらにある小さな錠剤を見つめていました。やがて意を決し、私はそれを口に放り込み、用意した水で喉の奥に流し込んだのです。それは、初めて血圧降下剤を飲んだ朝のできごとでした。
血圧降下剤。妻から「飲み始めたら止められない」と聞いていた薬。「もう止められない」と思ろと、それを飲むにはそれなりの決意が必要でした。それに、「私も血圧降下剤のお世話になる年になったのか」と思うと感慨深く、それでしばらく手のひらの薬に見入ってしまったのです。
老いとか死と言ったものは、私たちにとって忌まわしいものに感じられます。しかし、最近、私はそれもまた悪くはないかなと感じています。それほど、私たちの生きている「この世」には苦しみや悲しみ、悩みやが満ちあふれているのです。
もちろん、だからといって私は「みなさん早く死にましょう」などと死の勧めをしているわけではありません。どんなに苦難が多く、つらい人生であっても、私たちは生かされているこの時を精一杯生きなければなりません。それは、私たちを愛し、大切に思ってくれている家族や友人、そして、神がいるからです。
聖書にはこのような言葉あります。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るぺき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(新約聖書テモテヘの第二の手紙4章7~8節)。
これはパウロという人が、自分の死を意識して語った言葉です。彼は、「この世」では本当に苦労をした人です。けれども、そのような苦難の多い人生であっても、神を信じて精一杯生きてきた私の人生は幸いであると言うのです。それは、たとえ苦難の多い人生を生き、老いて死を迎えることになっても、神は私を神の国に温かく迎えてくださり、そこで慰めといつくしみ、喜びと幸いという義の冠を与えてくださるからなのです。
今は苦難の多い時代。苦しいことや悲しいことがいっぱい起こってくるでしょう。しかし、たとえ苦難が多くても、神を信じて人生を精一杯生き抜くなら、必ず神からの慰めと憩いを得ることができます。神を信じて精一杯生きてこそ、「老いも死もまた善し」となるのです。
3月号
時にかなって美しい
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)
ニューヨークのハドソン川に、ジョージ・ワシントン・ブリッジ」という大吊橋があります。その壮麗な建造物を題材に、W・シューマンが、1950年に吹奏楽のオリジナル曲を作りました。高校時代、所属していた吹奏楽部の定期演奏会でこの曲を演奏したのですが、初めて楽譜が渡され各パートで練習を始めた時には、耳障りな不協和音と馴染めない奇怪なリズムに「なぜ、こんな曲を選んだのか」とぼやいたものでした。それでも、少しは曲を理解したいと思い、指揮者用のフルスコアに付記された解説を読んでみると、そこには、飛行機の上から見下ろした橋の印象を写実的に描くとありました。
パート練習から合同練習に移る最初の日、用事で遅れ、練習場に急いでいた私の耳に「ジョジ・ワシントン・ブリッジ」が聞こえてきたのです。私は感動のあまり鳥肌が立ちました。橋の偉容が目前に鮮やかに描かれたからです。橋上をにぎやかに往来する数多の車。幾何学的で繊細な橋の優麗な構造。上空から橋を見下ろし、次第に高度を下げ、橋に接近するや否や、橋が加速して背後に遠のいてゆくさま。そして最後に、あの「展覧会の絵」のキエフの大門を思わせるような壮大な橋の情景を描いて終わるのです。心の中で拍手喝采し、目には涙があふれてきました。
私たちの人生には、幸福に満たされる日もあれば、災いとしか思えないような時もあります。しかし、神はいずれも最善最良の日として私たちに与えてくださっているのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」からです。
単に偶然とか、積極思考ということではなく、「美しい」との言葉通り、その絶妙さ、精緻(せいち)さは芸術的でさえあるのですが、もし神を認めず、神のなされる「最善」を受けとめられないなら、それを知ることができないばかりか、目の前に起こってくる出来事に振り回されることになってしまいます。
しかし、パート練習では無味乾燥のように思えた曲が、実はすばらしい曲であったように、ある時はつらく、悲しいことがあったとしても、神の「美しい」ご計画を信じることにより、平安を保ち、またある時はその一端を垣間見て感動し、これからも導いてくださるとの希望をもって歩ませていただけるのです。
2月号
主の言葉を思い出した
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」(マタイ4:4)
朝の通勤時間に三歳くらいの女の子が広い学校の敷地で遊んでいました。そこへ男性が通りかかりました。するとその女の子が、「おはよう」と声をかけたのです。恐らく二人は面識がなかったと思います。なぜなら、その男性はそのまま行き過ぎようとしたからです。ところが、女の子は、もう一度「おはよう」、さらに「おはよう」と声をかけたのです。さすがに男性は小さな声で「おはよう」と返事をしました。
女の子は満足げでレたが、男性も電車に間に合うように急いでいたでしょうし、仕事のことを考えていたかも知れません。普段ならまだしも、こんな時、見知らぬ女の子にあいさつされるなどと思いませんから、黙って行き過ぎようとしたと思います。しかし、いずれにせよ、この挨拶が彼を「本来の姿」に引き戻したことは確かです。
聖書にもイエスの言葉で我に返った人の記事があけます。
イエスが捕えられ大祭司の邸宅へひっぱって行かれた時、一番弟子のペテロは遠くからついて行き、中庭にいた人々の中にまぎれ混みました。ところがしばらくして、そこにいた人が気づき、「この人もイエスと一緒にいました」と告発に羊子。ペテロは思わず「わたしはその人を知らない」と打消すのですが、同じようにして、結局三度も裏切りの言葉を言つてしまうのです。その直後、鶏が鳴き、主イエスが振りむいてペテロを見つめられた時、彼は「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」との主のお言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣いのでした(マタイ26章他)。
実は、ペテロはイエスが捕えられるほんの少し前、「わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言ったばかりでした。ところが、主が逮捕された時、彼は恐れにつつまれました。その恐れが、命がけで従っていこうとした彼の人生を根底から覆したのです。しかし、それに気づかせ、人生の方向を取り戻させたのがイエスの言葉でした。
私たちの周りにも我を忘れてしまうような出来事が起こります。信頼を裏切られたり、怒り、病に打ち負かされる時、誰かがいやしてくれるのを待つこともできるでしょう。しかし聖書に耳を傾けてみてはどうでしょう。心の深層に届くイエスの言葉は、あなたを人間本来の姿に引き戻してくれるでしょう。
1月号
しののめを呼び覚ます
「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)
新年に神の祝福があびますように。 「初日の出」。元旦に厳粛な思いで朝日を待つものですが、困難な時代だからこそ、深い思いをもって新しい年をお迎えになったことでしょう。
聖書でも日の出がいくつか描かれていますが、その中で、ある詩人が描く、少し変わった日の出の表現を紹介いたします。「わたしはしののめを呼びさまします」(詩篇108:2)です。「しののめ(東雲)」とは、やってくる朝日に照らされる東の空の雲のことです。どこが変わっているかというと、「わたし」すなわち詩人がしののめを呼び覚ますというところです。おもしろいと思いませんか。普通はやってくる朝を待つのですが、この詩人は、自分が朝を来たらせると言うのですから。
詩人のこの言葉は、その前節のこんな言葉から続いて語られます。「神よ、わが心は定まりました。/わが心は定まりました。/わたしは歌い、かつはめたたえます。/わが魂よ、さめよ。/立琴よ、琴よ、さめよ。/わたしはしののめを呼びさまします」。つまり、心を定めることが朝を来たらせるのです。どういうふうに心を定めたのでしょうか。「神を歌い、ほめたたえる」ことによってです。
詩人には、人生の暗闇にいるような思いがあったのでしょう。自分が不幸だと嘆いていたのです。そういう思いで生きていると、明るい朝の光も心の中までは届かず、重苦しい心のまま過ごす一日の始まりを告げるだけになります。しかし、詩人はそういう心を後ろに投げ捨てて、不幸と思われる事々の中にも神は最善を貫いてくださっていると信じると「心を定めた」のです。そうすると、周りはそれまでと変わらない闇であっても、自分の心の中から朝日が照り始めたのです。最善をなし続けてくださっている神をたたえ、暗さに逆らって光を作る生き方を習い覚えたのです。
やってくる朝日があなたの心の中まで照らしますように。神の光にかげりはなく、最善以下はなさいません。そう信じて朝日を迎えられますように。そう信じることにくじけないために、どうぞ教会を訪ねてください。神を信じ歌いたたえて朝の光を作り続けている私たちにあなたも声を合わせてくださいますように。
2011年
12月号
上から来られた方
「わたしは上からきた者である」(ヨハネによる福音書6:23~24)
人が全く助けのない孤立した状況に追い込まれた時、それを「四面楚歌」と言います。この言葉は、楚の項羽が咳下という場所で漢の劉邦の軍に囲まれた時、夜更けて四面の漢軍中から盛んに楚国の歌がうたわれるのを聞いて、楚の民がすぺて漢に降伏したのかと、驚き嘆いたという『史記』の故事に基づくものです。
私たちの人生も、このままでは孤立し、助けのない絶望の中に追い込まれていくのではないでしょうか。それを一変してくれるのは、四面が囲まれても決して包囲されない上からの援軍なのではないでしょうか。
主イエスは、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」と宣言されています(ヨハネ6:23~24)。
ここで主イエスは、私たち人間は「下から出た者」すなわち「この世」に属する者として、「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。この言葉のように私たちは、生まれながらの状態では、罪のうちに永遠の死を刈り取らなければならない存在なのです。この「罪のうちに死ぬ」とは、周囲を罪に囲まれ四面楚歌の状態で地上の生涯を歩むことであり、最後はその罪の中で死ぬこと、すなわち永遠に罪からの救い主と離別することを意味しています。
しかし、このような状況にある私たちを救うため「上から来た」方、すなわち、天の父なる神のもとから降りてこられた方がイエス・キリストなのです。彼は神の御子であられたのに、この地上に肉体を備えて生まれてくださったのです。しかもこの方は、人が刈り取らなければならない罪をご自分の身に引き受けて、十字架におかかりくださり、死の恐ろしさを味わい、死に打ち勝って復活してくださったのです。実にこの「上から来られた方」、すなわち救い主を信じる者は罪の中で死ぬことはないのです。クリスマスとは、この救い主がこの地上に来てくださったことをお祝いする日なのです。メリークリスマス!
11月号
天にある国籍
「彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」ピリピ人への手紙3:19~20)
今年三月、かつて経験したことのない巨大地震、津波が東日本を襲い、かけがえのない尊い命が失われました。行方不明者を合わせ、その数は二万人とも言われています。被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
そのような深い悲しみの中にも日本は今、希望をもって立ち上がろうとしていますが、時として、私たちもかけがえのない大切な命を失い、深い悲しみの中にも一縷(いちる)の望みを抱いて歩み出そうとすることがあるものです。そのような時、「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)との御言葉は、私たちの目を天に向けさせ、不思議に生きる力を与えます。
国籍と言われても、ピンと来ないでしょう。日本は比較的恵まれている国だからです。しかし、内戦や貧困にあえぎ、劣悪な環境の中に生きている人たちにとって国籍の違いは生死を分けることさえあり、そのため、密入国、あるいは偽装結婚や賄賂を使って不法に他国籍を取得しようとする人たちが後を絶ちません。
この言葉が書かれた二千年前も同様でした。当時の世界を支配していたローマ帝国の国籍を持つことは、多くの恩恵にあずかることを意味していたのです。だからこそ使徒パウロは、天の国籍を持つ者こそが幸いなのだと語ったのでした。
確かに、イエス・キリストを信じ、救われた者に与えられる天国籍を得たとしても、この世に生を受けている以上、災いや悩みはあります。けれども、あえて申し上げますが、そのような時こそ、そして、死に臨む時においてこそ、天国籍にあずかっていることがどんなに大きな祝福であり、光栄であるのかがわかります。
災いや悩みの時に、そして、生涯を終えようとしている時、この世で得た権利は何の効力も発揮できません。しかし、天国籍を持つ者には希望があります。力があります。喜びがあります。救いがあります。だから毎日を感謝し、賛美をもって喜々として生きられるのです。
「どんな手を使っても獲得すぺきは天の国籍である」と聖書は言います。そして、それだけ価値のある国籍は、主イエスーキリストを信じることだけで得られと約束されています。
10月号
勝ちにこだわる
「すべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ人への手紙8:26)
プロ野球のペナントレースも最終盤。サッカーW杯の予選や五輪の出場権をかけた戦いもあり、毎日一喜一憂しています。ただ、読者の中には「勝負事には興味がありません」、「なぜ勝敗にこだわるんですか」などと言われる方もおいででしょう。しかし、そのようなあなたも、実は、「勝負の世界に生きている」のです。しかもそれは、絶対に負けてはならない、勝ちにこだわらなければならない戦いです。
と言われても戦っている感覚はないでしよう。でも、自分の無力さを感じたことはありませんか。屈辱感を味わったことがないでしょうか。また、思い煩いや苦悩に満ち、焦りや見えないプレッシャーに押しつぶされそうになって生活をしているとしたら、それはあなたがその「戦い」に敗北している証拠です。
そうです。誰もが、否が応でも、日常の生活に起こってくる様々な問題と戦わざるを得ず、勝っていかなければなりません。ところが、いくら背伸びをしたところでそれに勝ち続ける力などなく、簡単な相手を破っても、すぐに強敵が現れ、打ち負かされてしまう。それが現実です。
それではどうしたらよいのでしょうか。
聖書には、「すべての事において勝ち得て余りがある」、つまり、「どんな相手でも圧倒的な勝利を得られる」秘訣が書かれています(ローマ8:31~39)。
「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」といった、私たちの生活に関わる重要事が列記されています。それらは回避できない、戦っていかなければならない課題として、いつも私たちの前に立ちはだかります。
これらの難敵を向こうに回し、「これらすべてにおいて勝ち得て余りある」と聖書が言い切っているのは、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)、神を味方につけて戦えるからなのです。
私たちは常に敗北を味あわされています。もし、勝ち続けられるなら、どんなにすばらしいでしょう。そのために、今こそ、神と敵対する立場を取るのではなく、自分の無力さを認め、神を受け入れ、神に頼り、神を味方にして、勝ち続けていく生き方をすべきなのです。
9月号
主にゆだねよ
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ」(箴言16:3)
七月に海外の二つのニュースが新聞の一面を占める事態が起こりました。一つはノルウェーの連続テロ事件、もう一つは中国の新幹線事故です。ニュースを聞いた人々は、「まさか!」と同時に、「やはり!」という反応だったように思います。
敬意とあこがれを持つ文化国家での驚くような残虐な事件、世界中の知恵と技術を集めた鉄道の事故、これらのニュースは大きなショックを世界中に与えました。両者とも人間の知恵をあざ笑うかのように起こった事件でした。
人の知恵は、それがどんなに優れていても必ず欠けている部分があります。また、人間が立てる計画は、それがどんなに完璧に見えてもどこかで行き詰まる部分を秘めているものです。行き詰まりを感じている日本の国に、すばらしい指導者が現れて、すばらしい政策を実行したとしても、どこかで何かの弊害を生み出す事は避けられないでしょう。
では、どうせ何をしても行き詰まるのならば、最初からあきめて無気力に生きていくべきでしようか。そうすれば何が起きようと驚かないかもしれません。それとも、さらに完璧を求めてばく進して行くべきなのでしょうか。
無気力に生きることは虚無的に生きることです。そこには人生の喜びはありません。一方、完璧を求めて強行に前進することは勇ましい事ですが、挫折した時の苦痛は痛ましいものがあります。また心のゆとりがなくなり、周りを蹴散らし傷つける危険性があります。
聖書は両者の中間とも思えるような道を私たちにボします。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3新改訳)。
私たちのする事の結果を神にお任せするのです。そこから生まれるものは無気力ではありません。心の穏やかさです。結果はどのように出たとしても、私たちを愛してくださる神はベストの方向へと導いてくださると信じるのです。私たちは自分のできる範囲内でベストを尽くせば良いのです。私たちは結果を完全にコントロールする事はできません。それは神がなさる領域です。それを信じて歩む私たちは揺らがないのです。
8月号
真の神がおられる
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒行伝17:23)
日本に来てから不思議だと思つているのは(ちなみに私は韓国人です)、日本人の宗教への熱心さです。至る所に神社があり、寺院があり、熱心に手を合わせている姿をよく見かけます。しかし、私の驚きはそこではなく、それぞれに願い事はあるのでしようが、だからといって、どんなものにも、時には何がまつってあるのかわからなくても祈つている、そのような行為に対して疑問を抱いてやまないのです。
聖書に、同じ疑問を持つた人が出てきます。使徒パウロです。彼が伝道のために訪れたギリシャのアテネに来た時、驚くような光景を目にします。日本と同じく、神々が至る所に存在し、まつられている神の名も知らないのに、人々が熱心に拝んでいたからです(使徒行伝17章)。
パウロは、そのようなアテネの人たちの熱心な宗教心に触れながらも、それが本当の信仰ではないことを指摘しました。すなわち、「どんな神かもわからないのに、拝んでいるのはおかしい」というわけです。そして、彼は、「あなたがたが拝むべき神はただ一人、真の神はただ一人しかいない。あなたが知らずに拝んでいる真の神を教えよう」と語り始めます。
仮に、神社や寺院で祀られている神々の中に、本物の神が一つあったとしたら、それ以外のものは本物ではないことになります。もし、「そのようなことを考えなくてもいい。そこに寺社があるから手を合わせるのだ」と言うのであれば、それはもはや信仰の行為ではなく、ただの習慣的な、気休めに過ぎない行為、あるいは文化的な行為と言わざるを得ません。そこに救いはありません。
聖書は、真の神がおられることを教えています。しかし、すぺての人間は罪があるために、真の神の存在がわからなぐなっているとも証言しています。ですから、神が、自然などの被造物を通してご自身を表されていても、また、神の御言葉である聖書を通してご自身をはっきりと示してくださっていても、真の神がわからず、それゆえに、知らず知らず、身近な神仏を拝んで、安心を得ようとしているのです。
パウロは言います。「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」。
あなたを救う、真の神を求めてください。