もうすぐ冬休みが終わります。あと3ヶ月で卒業する人もいるでしょう。どんな時も神様が共にいてくださることを信じて歩めますように。 1月5日(日)マタイ三1〜3  天の国は、悲しいことや苦しいこと、痛いことなどみんなが嫌だと思うことが全然ないところです。神さまと一緒にいられて、うれしいことばかりがあるのです。そこに入るために必要なことは、悔い改めです。神さま、私の罪をおゆるしください。自分の罪に気づいたら悔い改めることができますように助けてください。 1月6日(月)マタイ三1〜3  預言者イザヤが「荒れ野で叫ぶ声」と言っていたのは、洗礼者ヨハネのことでした。ヨハネは人々に、「救い主が来られるから悔い改めて、救い主をお迎えしよう」と叫びました。イエスさまを信じているなら、私たちも、イエスさまを知らないお友だちや家族、他のだれかに、イエスさまのことを紹介する「荒れ野で叫ぶ声」なのです。 1月7日(火)マタイ三4〜6  ヨハネは預言者エリヤの生まれ変わりではありませんが、エリヤのような預言者として神さまがつかわした人でした。人々は毛衣に革の帯を締めた格好のヨハネを見たら、ヨハネを預言者だと思いました。だからヨハネのところにきた人はみんな罪を悔い改めて洗礼を受けました。こうして神さまの言葉の通り、救い主が現れるための道が整っていきました。 1月8日(水)マタイ三7〜10  ユダヤ人は神さまに選ばれた特別な民です。だからユダヤ人はみんな救われると思っていました。特にファリサイ派やサドカイ派のような、神さまの教えを熱心に勉強し従う人たちは、自分たちは大丈夫だと思っていたのです。でもヨハネは、悔い改めたとおりに生きなければどんな人も裁かれると言いました。 1月9日(木)マタイ三11〜12  洗礼はヨハネも救い主も水を使います。ヨハネは洗礼によって、悔い改めたことをあらわしました。しかし救い主を信じて受ける洗礼は、罪がゆるされ、心がきよくされ、聖霊を心の中にいただけるのです。 1月10日(金)マタイ三13〜15  イエスさまは罪のない救い主なのに、どうして洗礼を受けたのでしょう。それは私たちに必要なことを人となったイエスさまも、同じようにすべて体験することが神さまの計画だったからです。 1月11日(土)マタイ三16〜17  イエスさまが洗礼を受けた時に起こったことは、イエスさまが天から来られた救い主であることを示していました。イエスさまの上に降った聖霊は、油注がれた救い主のしるしです。そして「これは私の愛する子」と天からの声は、イエスさまが神の子だとはっきり示されたのです。  悪魔はいつも私たちを神さまから引き離そうとします。でもイエスさまは誘惑に勝たれました。だから悪魔よりもはるかに強いお方が、誘惑に勝つ力を私たちにも与えてくださいます。 1月12日(日)マタイ四1〜2  私たちは誘惑されたくないし、悪いことから離れていたいものです。でもイエスさまは自分から悪魔の誘惑を、悪魔からの挑戦を受けに荒れ野に行かれました。荒れ野は神さまに信頼して従うための良い訓練の場所だからです。そしてイエスさまにとって救い主としてのテストを受ける場所でした。 1月13日(月)マタイ四3〜4  悪魔は「神の子ならこれくらいできるだろ?」とイエスさまに石をパンに変えるように勧めました。神の子だから簡単です。でもイエスさまはしませんでした。できなかったからではなく、できるのにしなかったのです。できるところを見せたい私たちには不思議に思えます。 1月14日(火)マタイ四3〜4  イエスさまは、悪魔に神の子の力を見せて、自分は神の子だと証明して、悪魔に「参りました」と言わせようとはしませんでした。「パンも生きるために必要だけれど、私は神さまの言葉をいただいて、そのとおりに生きる。」と言って、悪魔の誘いをはねのけました。 1月15日(水)マタイ四5〜7  悪魔はまた言いました。「神の子なら、神殿のてっぺんから飛び降りて、天使が助けてくれると書いてある聖書の言葉が、そのとおりになるかどうか見せてみろ。」そんなすごいことを見たら、みんながイエスさまはすごい、本物の神の子だと信じるでしょう。でもイエスさまは悪魔の誘いに乗って、神さまの言われたことを試しにやってみようとはしませんでした。 1月16日(木)マタイ四5〜7  イエスさまの答えは「神さまを試してはいけないと聖書にあるから、私はしない。」でした。イエスさまが心から神さまを信頼していることが、神の子のしるしでした。 1月17日(金)マタイ四8〜11  最後に悪魔は「私を拝めばこの世界の支配者になれる。」と言いました。悪魔に従えば、イエスさまは十字架で苦しむことなく、人々が従うようになると、悪魔は言ったのです。でもイエスさまは悪魔の言いなりにはなりませんでした。イエスさまは、神さま以外拝みませんでした。 1月18日(土)マタイ四8〜11  イエスさまは「退け、サタン。」と悪魔の誘いをはねのけました。私たちの本当に必要なものをくださるのは神さまです。神さま、私たちが自分の欲しいものを手に入れるために、神さま以外のものを拝むことがないように助けてださい。「退け、サタン」と言って、サタンの誘惑をはねのけさせてください。  イエスさまは私たちに、だれでも私のところにおいでと呼んでくださっています。 1月19日(日)マタイ九9  マタイは仕事中だったのにイエスさまに従いました。それはもう徴税人の仕事を辞めたのです。イエスさまの弟子になるために立ち上がったのです。どうして「私に従いなさい」の一言で、そうできたのでしょうか。イエスさまの言葉には、そうしようと思わせる力があったからです。 1月20日(月)マタイ九10〜11  イエスさまは人々から嫌われたり、悪いヤツだと言われたりする人たちとも、ご飯を食べて楽しく過ごしました。でもまじめで、神さまの前にきよく正しく生きていた人たちは、それはいけないことだと思っていました。親しく過ごすことで、きよい人もきよさがなくなってしまうと思われていたからです。 1月21日(火)マタイ九12〜13  イエスさまの周りに集まってきた徴税人や罪人たちは、自分たちの罪を知ってゆるして欲しい人たちや、ゆるされて従ってきた人たちです。それなのにもし「あなたたちは罪人だから来てはいけない」と受け入れなかったら、せっかく悔い改めにきた人たちがやり直せなくなってしまいます。悔い改める彼らをイエスさまは喜んで受け入れました。そして彼らもイエスさまに喜んで従いました。 1月22日(水)マタイ九12〜13  自分は正しいと思っていると、正しくないと思える人に厳しくなります。でももし自分も間違っていたり、罪があるとわかったりすると、人のことを厳しくいうことができなくなります。自分もイエスさまにゆるされたんだとわかると、人をゆるす心が与えられます。 1月23日(木)マタイ九12〜13  神さまはいつでもごめんなさいと神さまのところに帰ってくる人を待っています。どんな人も待っています。私たちも待ってもらっていたのです。神さま、自分がゆるされたことを忘れて人に厳しくなってしまいます。あわれみの心を与えてください。 1月24日(金)マタイ九12〜13  ファリサイ派の人たちは、神さまを正しく礼拝し、真面目に神さまに従っていました。でもそうしない人たちのことは、見下して切り捨てていました。正しいのに、愛がなくなっていたのです。でもイエスさまは、正しいことをする時、人に対する優しさや思いやりを忘れてはいけないと言われました。 1月25日(土)マタイ九12〜13  もし正しい人だけがイエスさまのところに行けて救われるなら、私たちはだれも救われることができません。本当に正しい人はイエスさまの他にはいないからです。でもイエスさまは言われました。「私は、正しい人ではなく、罪人を招くために来ました。」と。  十二人の使徒は、イエスさまの弟子の中でも代表メンバーです。彼らはみんな別々の仕事をしていて、性格もいろいろな人たちですが、イエスさまによって選ばれました。 1月26日(日)マタイ十1〜2  12人の使徒たちはこれから出かけて行って「天の国」を伝えるのです。そのために彼らはイエスさまから特別な力をいただきました。悪霊を追い出し、病気を治す力です。悪霊が追い出され、病気が治ったら、だれでもうれしくてたまりません。そしてそれによって、天の国が来ていることをみんなが知れるのです。  1月27日(月)マタイ十5〜7 使徒たちが行くのは、イスラエルの人々の家です。まずイスラエルの人たちが救われて、そしてイスラエルから世界中へ「天の国」が届けられるのです。神さまと自分は関係ないと思っている人たちに、だれでも神さまなしには生きていけないことを伝えるのです。 1月28日(火)マタイ十7〜8  伝えるのは「天国の方から近づいてきてくれている」ことです。それを知らせるために、病気を治し、死んだ人を生き返らせ、悪霊を追い出すのです。それに私たちが何かをして天の国に近づけるのでも、入れるのでもありません。ただ悪霊や病気や罪から救ってくださるお方を信じることで、天の国に入れるのです。 1月29日(水)マタイ十9〜10  旅のための持ち物はほとんどありません。お金も着替えも持たないのです。私たちは何も持たないで旅ができるのかと心配になります。でも神さまが必要なものは与えてくださるから大丈夫なのです。神さまは、神さまの働きをする人に、食べ物、着る物、寝る場所を用意してくださるのです。 1月30日(木)マタイ十11〜13  イエスさまの弟子は平和も持っています。だからお祈りしてその平和を届けることができるのです。その家に平和があることが、家の人も、泊めてもらう使徒たちも安心でおだやかに過ごせるからです。イエスさまを信じるなら、私たちも平和を持ち運ぶ人なのです。 1月31日(金)マタイ十11〜13  平和を祈っても、自分にはいらないと思う人もいます。天の国を信じることができなければ、平和も受け取ることはできません。神さま、私たちが伝えても聞いてもらえない時があります。でもそれで挫けないで、伝えていけますように。 2月1日(土)マタイ十14〜15  使徒たちはイエスさまの代わりに出かけて行きました。だから彼らを受け入れないなら、イエスさまを受け入れないことになります。それは救いをいらないというのと同じです。でも自分に必要だとわからないとほしいと思えないのです。どうぞみんなが救いの必要に気づけますように。  「天国」はどんなところでしょう。イエスさまは「天国」についていろいろなたとえで教えてくださいました。 2月2日(日)マタイ十三24〜30  「天の国は良い種を畑に蒔いた人に似ている」のですが、どんなところが似ていると思いますか?畑の主人が畑に毒麦が生えていることを知っても、すぐに抜かなかったところです。刈り入れまで待ちました。天の国でも、天の国の主人である神さまは、私たちが天国に入るようにと、待っていてくださるのです。 2月3日(月)マタイ十三31〜33  天の国は「からし種」にも「パン種」にも似ています。からし種は小さくても、空の鳥が巣を作れるぐらい大きく成長します。パン種も少しの量で、こねて丸めた小麦粉を膨らませます。天の国も始まりは小さくても必ず大きく成長していく力があります。だから最初小さくても、少ししかなくても、心配ないのです。 2月4日(火)マタイ十三34〜35  種をまいてお花を育てたことはありますか?畑で種をまいたことがある人や、種まきを見たことがあれば、イエスさまのお話も頭の中でイメージがわいてきます。こうやってイエスさまは、だれも見たことのない天国をわかりやすく教えてくださったのです。 2月5日(水)マタイ十三36〜40  24節からの良い畑に毒麦も生えてきてしまう話は、どういう意味なのでしょう。神さまはこの世界をすばらしいものとして造られました。でも悪魔は、私たち人間が神さまを信じないようにそそのかすのです。神さまを信じないと、私たちは自分勝手に生きてしまいます。そのままでは天の国に入ることができません。だからこの世界の終わりまで、神さまは、私たちが罪を悔い改めて神さまを信じて生きることを待っているのです。 2月6日(木)マタイ十三41〜43  私たちには神さまの恐ろしい裁きから逃げられない罪があります。でもイエスさまが私たちの罪のために十字架で死んで恐ろしい裁きを受けてくださいました。そして死からよみがえられました。だからイエスさま信じれば、もう恐ろしい裁きを怖がらなくてもいいのです。イエスさまが救ってくださいました。私たちは天の国に入れていただけると信じていいのです。そして天の国で輝く希望をいただいています。 2月7日(金)マタイ十三44〜46  天の国をいただくことは、私たちが持っているものやお金を全部なくしても、何も心配しなくて大丈夫なものを持つことになるのです。 2月8日(土)マタイ十三51〜52  古いものは自分の力に頼ることです。新しいものはイエスさまに頼ることです。どうぞ天の国に導いてくださるイエスさまにいつも頼れますように。  祈ってもなかなか答えがない時は、この女の人のお話を思い出してみましょう。 2月9日(日)マタイ十五21〜28  「主よ、私を憐れんでください。」とイエスさまのところに助けを求めてきたのは、外国人の女の人でした。女の人の娘が悪霊に  苦しめられていたのです。ところが、イエスさまは何も答えませんでした。まるで冷たいのです。 2月10日(月)マタイ十五21〜28  弟子たちもイエスさまに「あの人を追い払ってください」と言いました。彼らもなんだか冷たいのです。でも彼らは、黙って答えないままでいないで、彼女に何か言ってほしかったのです。このままではきっと女の人は叫ぶことをやめないし、あきらめないだろうと思ったからです。 2月11日(火)マタイ十五24〜25  イエスさまの答えは優しくありません。「私は今イスラエル人のために働いているんだ。」イエスさまがそんなふうにいうのは、イエスさまの働きには順番があるからなのです。こんなふうに言われたら自分ならどうするでしょうか。あきらめるでしょうか。 2月12日(水)マタイ十五24〜25  女の人は、イエスさまの冷たい返事にもあきらめませんでした。イエスさまにひれ伏してお願いしたのです。「主よ、私をお助けください。」娘が苦しんでいると、お母さんも苦しかったのです。娘が悪霊に苦しめられる様子を見るのは、悲しくて辛いことでした。娘が苦しいままではお母さんは幸せではありません。だからあきらめませんでした。 2月13日(木)マタイ十五25〜27  イエスさまは、イスラエル人を飛び越えて、外国人に神さまの恵みをあげられないと言われました。最初の時と同じように、順番があると言われたのです。ここまで来てもまだ、女の人の願いは答えられませんでした。でも女の人は願うことをやめませんでした。 2月14日(金)マタイ十五27  女の人は、外国人の自分のことをイエスさまが小犬と呼んだことをそのまま受け取りました。「イエスさま、おっしゃる通りです。私は小犬です。でも小犬はテーブルから落ちたパンくずならいただけます。私もイエスさまのあふれ出る救いの力からこぼれおちた分をいただければそれで十分です。それで娘は良くなると信じています。」女の人は、イエスさまの答えを聞いてもイエスさまを信じることをやめませんでした。 2月15日(土)マタイ十五28  「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」イエスさまは女の人の娘をいやされました。イエスさまの恵みはあふれていて、こぼれ落ちたわずかなものでも、私たちを救う力があるのです。それを信じていた女の人の信仰を模範にしたいですね。  私たちはイエスさまをどうして信じることができたのでしょう。信じることも神さまが助けてくださったからです。 2月16日(日)マタイ十六13〜14  イエスさまの名前を聞いたことのある人はたくさんいます。でもイエスさまを救い主と信じている人は多くはありません。イエスさまの時代の人たちもそうでした。多くの人は預言者かもしれないと思っていました。預言者も不思議な力を持っていたし、神さまの言葉を伝えていたからです。 2月17日(月)マタイ十六15〜17  ペトロはイエスさまのことを「あなたは私たちのメシアです。神の子です」と言いました。メシアは救い主という意味です。預言者は人ですが、イエスさまは神の子救い主なのです。ペトロと弟子たちが、イエスさまのことを救い主と信じられたのは、神さまが教えてくださったからです。 2月18日(火)マタイ十六18〜20  教会の土台はイエスさまを救い主と信じる信仰を土台にしています。イエスさまの言われる教会は目に見える建物のことではなくて、信じる私たちのことなのです。そしてイエスさまは死にも強いお方なので、イエスさまを信じる教会も、死に負けないのです。 2月19日(水)マタイ十六18〜20  イエスさまを信じる教会の私たちに、神さまは天の国のカギを預けられました。それはイエスさまを信じて罪を悔い改めた人に、「あなたの罪はゆるされました」と伝えることです。それが天国を開けるカギを使って天国を開けているのです。イエスさまを信じ悔い改めることが、天国へ入る道だからです。 2月20日(木)マタイ十六21  イエスさまは、弟子たちが、イエスさまを救い主だと告白した時から、大切な話をされました。でもそれはみんなが簡単に受け入れられることではありませんでした。それはこれからエルサレムで十字架にかけられて殺されると言われたからです。 2月21日(金)マタイ十六22〜23  イエスさまを救い主と答えて喜ばれたペトロが、今度は「サタン、引き下がれ」と叱られてしまいました。だれにとっても、力ある救い主イエスさまが十字架で死んでしまうことはあり得ないことです。でもそれが私たちを救うための方法だったのです。だからそれを邪魔することは悪魔のすることと同じなのです。 2月22日(土)マタイ十六24〜28  イエスさまを信じる私たちに、イエスさまは十字架を負ってついてきなさいと言われました。それは自分の持っているものを失わないように、ぎゅっと握って生きるのではなくて、損したり、失ったりしても、それ以上に与えてくださるイエスさまにお任せすることです。イエスさまのように生きる者にしてください。  イエスさまは、本当は光り輝くお方です。でも地上の生活ではそれを隠されて、人として生活されました。 2月23日(日)マタイ十七1〜2  イエスさまは山の上で、神の子救い主の姿をペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せました。光かがやく顔、光のように白い衣は、イエスさまのいつもの生活では、隠されていました。でもここで本当の姿を現されたのです。これは時が来たら、3人がイエスさまは確かに救い主だと伝えることができるためでした。 2月24日(月)マタイ十七3〜4  モーセも預言者エリヤも、昔のイスラエルの偉大なリーダーでした。そしてイエスさまは、私たちを罪から救い出す偉大な救い主です。3人はイエスさまの十字架について話していました。ペトロは彼らにいつまでもそこにいてほしいと思いました。この偉大な3人がいれば、もう何も怖いものはないように思えました。 2月25日(火)マタイ十七5〜6  3人は光り輝く雲に覆われて見えなくなりました。そして雲の中からの声がイエスさまを指して言いました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」ペトロはいつまでも3人がいてくれたらいいと思いましたが、神さまはイエスさまの言葉を聞きなさいと言われました。 2月26日(水)マタイ十七7〜8  弟子たちは怖くなってひれ伏しました。イエスさまは彼らに近寄ってやさしく触られました。そして「恐れるな」と声をかけて安心させてくださいました。そこにいたのはイエスさまだけでしたが、天からの声の通りに、彼らはイエスさまの言葉を聞こうと立ち上がりました。 2月27日(木)マタイ十七9  イエスさまは、山でペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけが見たことは、時が来るまでだれにも話さないように言われました。それはイエスさまが死から復活する時までです。その時には、イエスさまの本当の姿を見ていない人たちも、この出来事を信じることができるからです。 2月28日(金)マタイ十七10〜14  律法学者たちは、イエスさまを信じていません。だから「聖書には、救い主が来る前に、昔の偉大な預言者エリヤが来ると書かれている。だからイエスが救い主なら、エリヤが来ているはずだ」と言いました。でも洗礼者ヨハネがエリヤとしてきていたのです。ヨハネのことを邪魔者だと思った人たちが殺してしまいました。 3月1日(土)マタイ十七10〜14  律法学者たちはイエスさまのことも救い主と認めません。ヨハネのように自分たちに都合の悪い人なので、イエスさまのことを苦しめて終わらせようとしていました。どうぞ私たちは神さまから遣わされた人を大切にすることができますように。  ゆるせないことはどうしたらゆるせるようになるのでしょう。 3月2日(日)マタイ十八21〜22  だれかに対して怒っていることはありますか。「あの時もこんなことをされた。この時もこんなことをした。」と自分に対して嫌なことをされたと思うと、それがどんどん積み重なって、なかなかゆるせない思いになります。「もうゆるせない」と思う私たちにイエスさまは、何度でもゆるしてあげなさいと言われました。 3月3日(月)マタイ十八23〜24  イエスさまはまたあの「天の国」のたとえ話から、ゆるすとはどういうことかをお話しされました。ある王様が自分のお金を貸している人たちに。そろそろ返してほしいと話した時のことです。1万タントンという途方にくれるたくさんのお金を借りている家来がいました。一生働いてもとても到底返せないほどの借金でした。もしあなたがそんなに借りていたらどうしますか? 3月4日(火)マタイ十八25〜26  王様は、家族も、持っているものも全部売って、お金を返すように言いました。家族はみんな奴隷となってどこかに売られ、一生の間買われたところで働くのです。それでも払い切れるとは思えません。でも家来は、なんとかしてお返しするので、待ってくださいと一生懸命にお願いしました。きっと私たちもこの人と同じように「待ってください。」とひたすらお願いするでしょう。 3月5日(水)マタイ十八27  借金の帳消しは、だれも想像しないことです。考えられないことです。でも王様は、一生懸命に「待ってください」とお願いする家来を見て憐れに思いました。そしてもう返さなくていいと言ったのです。そのゆるされた金額の大きさと愛の深さに圧倒されます。なんという素晴らしい恵み(プレゼント)でしょうか。 3月6日(木)マタイ十八28〜30  こんなに大きなゆるしをもらったのに、どうしてこの家来は、自分に借金をしている人のことをゆるしてあげられなかったのでしょうか。これも私たちにはびっくりすることです。でもこれが私たちの姿です。自分はゆるしてもらったのに、人のことをゆるせないずるい者なのです。 3月7日(金)マタイ十八31〜33  私たちは、すぐに自分がゆるされてきたたこと忘れてしまうので、人のことをゆるせなくなります。神さま、イエスさまの十字架によってゆるされた私です。どうぞゆるされた恵みの大きさをいつも思い出して、ゆるすことができますように。 3月8日(土)マタイ十八33〜35  神さま、自分の力ではゆるせないので、ゆるせるように助けてください。自分が受けた大きな恵みを思い出して、同じように人にできますように。  イエスさまを信じたら、私たちはもう永遠の命をいただいています。 3月9日(日)マタイ十九16〜19  青年がイエスさまに聞いた永遠の命は、死なないのではなく生きている今も死んだ後も天の国で生きる命です。ではこの青年が言うように、どんな善いことをしたらそれをいただけるのでしょうか。 3月10日(月)マタイ十九16〜19  イエスさまが言われた戒めを全部まとめると、「人を愛して生きなさい」ということです。戒めを守るのは、人を傷つけたり、悲しませたり、悩ませたり、苦しめたりしないためです。そして人が喜ぶことを大切にするのです。でも本当は、自分ではできないのです。自分のことばかり大切にしてしまうからです。 3月11日(火)マタイ十九20〜22  戒めを守ることは、人のことを思いやって生きることです。だからイエスさまは、戒めを守っていると思っている青年に「持ち物を売って、貧しい人に与えなさい。それから私に従いなさい。」と言われました。青年はとても悩みましたが従うことはできませんでした。そもそも自分が何か善いことをすれば、永遠の命をいただけると思うことが違うのです。それが彼にはわかりませんでした。 3月12日(水)マタイ十九23〜26  青年は永遠の命をいただくことより、財産を手放すことを惜しみました。でも私たちも、何もかもささげてイエスさまに従うことは、自分にはムリだと思ってしまいます。それにらくだが針の穴を通ることもありえないことです。これでは永遠の命のために私たちにできることはないと途方にくれてしまいます。 3月13日(木)マタイ十九23〜26  弟子たちは、たくさんの財産があるのは神さまからの祝福のしるしだと思っていました。そういうふうに祝福されている人は当然天の国に入れると思っていました。でもイエスさまの言われることはその反対でした。だれもどんなに善いことをしても、自分の力では救われることはできないと言われたのです。ただ神さまだけができることなのです。 3月14日(金)マタイ十九27〜28  ペトロたちは何もかも捨ててイエスさまに従いました。ペトロは、青年にはできなかったことを自分たちはできたと得意な気持ちでした。でも後で弟子たちはイエスさまを裏切ってしまいます。従うことも自分の力ではできない弱い自分をまだ知りませんでした。 3月15日(土)マタイ十九29〜30  イエスさまは私たちを救うために何もかも捨てて十字架で死んでよみがえられました。そして永遠の命をくださいました。私たちには永遠の命をいただくためにできることはありません。ただイエスさまから信じる者に与えられものなのです。  私たちはいい人ぶってしまう時があります。人に認めてもらいたいからです。 3月16日(日)マタイ二三1〜4  律法学者やファリサイ派の人たちは、真面目で神さまの言葉をしっかりと勉強し、教えていた人たちです。でも言うことが立派すぎて、自分でもできないようなことを、人にやりなさいと教えていました。人には偉そうに言うのに、自分ではやらないことが私たちにはあります。どうぞ口先だけでなく、言ったことを自分も実行することができますように。 3月17日(月)マタイ二三5〜12  私たちは人から立派だと尊敬されると、本当の自分よりもっとすごいと見せたくなってしまうことがあります。リーダーになったり、先生と呼ばれたりすると、さらに立派な人のふりをしてしまいます。そして得意な気持ちになって、人を下に見ている時があるかもしれません。でも自分より立派な人はたくさんいます。そして本当にすごくてすばらしいのはイエスさまです。神さま、謙遜になれない私たちをお助けください。 3月18日(火)マタイ二三13〜15  偽善者は人のことを思って行動するのではなく、自分が得することばかり考えて行動しています。律法は、そういう自分を知るための教えです。でもそれに気づかないで自分の力で律法を守っていると思っているなら、守れていないのです。そういう自分こそ神さまの助けが必要なのに、わからないので人を罪人だと裁いてしまうのです。 3月19日(水)マタイ二三16〜22 「誓う」というのは、絶対にするという約束です。でも私たちは絶対にすると強く固く決心して誓っても、できないことがたくさんあります。だから最初からできない約束をして、人を信じさせたり、期待させたりするのはやめなさいと言われました。 3月20日(木)マタイ二三23〜24  神さまへの十分の一のささげ物をすることは大事なことです。ささげ物を忠実にするように、人に対しても正しく、思いやりを持って、心から関わることも同じように大事なことです。人のことを思いやることをしないのは、立派な人のふりをしているだけだからです。 3月21日(金)マタイ二三25〜28  イエスさまが言われる「災いあれ」は、「悪いことが起こって苦しめばいい」ということではありません。自分のことばかり考えて、外側ばかりつくろって生きるなら幸せではないと言われたのです。ふりではなく、心と行動が一つになりますように。 3月22日(土)マタイ二三37〜39  イスラエルの人々は昔から神さまの言葉を聞けませんでした。でも神さまは偽善者になってしまうイスラエルのことも、私たちのことも救おうと待っておられるのです。  イエスさまが十字架で死なれる時が近づいていました。 3月23日(日)マタイ二六1〜5  イエスさまが弟子たちに十字架の話をしている同じ頃、イスラエルのリーダーたちも、イエスさまを逮捕して十字架につけようと相談していました。イスラエルの人々は、過越の祭りの頃に救い主が現れると期待していました。確かに救い主は現れます。でも人々の想像した立派な姿ではなく、傷つけられ死なれ、復活されることによって現れるのです。 3月24日(月)マタイ二六6〜13  女の人はイエスさまへの感謝の気持ちがあふれて、香油を惜しみなく注ぎました。それをイエスさまは、「これから死のうとしている私の体に、お墓に葬る時に塗る香油として注いでくれた」と喜ばれました。彼女のしたことは、この方こそ私たちの救い主だと、今の私たちにまで伝えてくれています。 3月25日(火)マタイ二六14〜16  弟子のユダは、祭司長たちにイエスさまの逮捕の協力をする約束をしてお金をもらいました。彼が受け取ったお金は銀貨30枚。女の人の高価な香油とは反対に、たった四日分の給料でイエスさまを売ってしまいました。 3月26日(水)マタイ二六17〜19  昔、イスラエルがエジプトの奴隷生活から脱出するために、神さまがエジプトに与えた災いがありました。イスラエルの人々は家のかもいに羊の血を塗ったので、それが印になって災いはイスラエルの家を過越しました。それでイスラエルはエジプトを脱出できたのです。過越の食事は、その時の神さまの救いを感謝し祝う食事です。 3月27日(木)マタイ二六20〜25  イエスさまが「私を裏切る者がいる。」と言われた時、ユダはドキッとしたでしょう。イエスさまは、ユダが「私です。ごめんなさい。」というチャンスをくださったのです。ユダは後戻りできたのです。悔い改めるチャンスは最後まで残されていました。 3月28日(金)マタイ二六26〜30  イエスさまは十字架で死ぬことで、私たちを罪から脱出させてくださいました。だから過越の食事も新しくなりました。洗礼を受けた人がいただける聖餐です。イエスさまの裂かれた体を思ってパンを食べ、イエスさまが流してくださった血によって罪がゆるされたこと感謝してぶどう液をいただくのです。 3月29日(土)マタイ二六31〜35  裏切るのはユダだけではありません。イエスさまが捕まってしまったら、みんな怖くて逃げだし、ペトロはイエスさまのこと知らないと言ってしまうのです。でもそれで終わりではありません。イエスさまは、そういうことが起こった後、「私は復活し、ガリラヤであなた方を待っている」と言われました。  悩みや不安がある時、人に話したり、どうやって乗り越えようか考えたりします。でも何よりもお祈りがいちばんの力と助けです。 3月30日(日)マタイ二六36〜38  イエスさまは三人の弟子の前で苦しみ悩みはじめられました。そして「共に目を覚まして祈ってほしい」と言われました。イエスさまはこれからやってくる苦しみに向かうために祈られました。そして一緒に祈ってくれる人がいることもイエスさまには支えでした。祈らないではいられない中をイエスさまは通られました。 3月31日(月)マタイ二六39  イエスさまは「できることならこの杯を過ぎ去らせてください」と祈られました。でも「御心のままに」と」自分の思いより神さまの思いをしてくださいと祈られました。イエスさまも戦っていたのです。イエスさまも苦しみの十字架に向かうために、自分の思いを通さないために祈られました。 4月1日(火)マタイ二六40〜41  どんな時もイエスさまに従うと覚悟を決めていた弟子たちでしたが、覚悟の通りにするならば祈らなければできないことです。悪魔の誘惑はいつも弟子たちをイエスさまから引き離そうとするからです。けれども覚悟とは反対に彼らは少しもイエスさまと共に祈ることができませんでした。 4月2日(水)マタイ二六42  イエスさまの2度目の祈りは「この杯を過ぎ去らせてください」ではなく、「私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心のままに」と祈られました。神さまの思いがわかっていても、それを受け入れられない時、イエスさまは何度も祈られました。 4月3日(木)マタイ二六  残念ながら弟子たちは眠っていました。イエスさまの苦しみ悩む姿を見ても、イエスさまを思いやることはできませんでした。神さま、私たちは、本当に人のこともイエスさまのことを思うことができず、自分のことばかりです。人のことを本当に思いやる心を与えてください。 4月4日(金)マタイ二六43〜44  イエスさまは寂しさの中で、もう一度神さまにお祈りしました。祈りを通して、十字架の苦しみの杯を飲む覚悟をして立ち上がられました。お祈りが私たちの確かな力であるのは、悩み苦しみがなくなるからではありません。神さまを信頼して任せることができるからです。 4月5日(土)マタイ二六45〜46  イエスさまは弟子たちを起こして言われました。「目を覚ましなさい。私が十字架にかけられる時が来た。」そしてご自分をとらえようとする人々の方へ向かわれました。イエスさまは、人々の悪巧みによって十字架にかけられるのですが、神さまの計画に従って、ご自分から十字架につけられました。