1.聖書

 旧新約聖書六十六巻は、神の霊感を受けて書かれた誤りのない神の言であり、キリストを啓示し、福音の真理を示すものである。聖書はわたしたちの信仰と生活の規準であり、教会の唯一の正典である。

① 教会の正典

 プロテスタント教会は、旧約聖書三十九巻と、新約聖書二十七巻を正典としています。正典とは、「ものさし」に由来する言葉で、聖書正典とは聖書が教会の信仰と生活の唯一の「規範」であることを意味します。
現在わたしたちが用いている旧約聖書三十九巻は、ヘブル語で書かれた聖書をギリシャ語に翻訳した「七十人訳聖書」によるもので、「律法」、「歴史書」、「諸書」、「預言書」の順序になっています。一方、ヘブル語の原典は二十四巻で、「律法」、「預言者」、「諸書」の三部に分けられています。正典の結集は、このヘブル語聖書の順序に従って、徐々になされました。最終的にこれらが正典として承認されたのは、紀元九〇年頃、ヤムニヤで開かれたラビたちの会議においてでした。このユダヤ教が正典として承認していた旧約聖書を、キリスト教会もまた自らの正典として受け入れました。
 新約聖書二十七巻は、様々な変遷をたどりつつ教会に受け入れられ、最終的に正典として承認されたのは、紀元三九七年に開かれた第三回カルタゴ会議においてでした。
 このように旧新約聖書六十六巻は、教会会議において決定された教会の書です。ですからわたしたちは、教会で共に聖書の言葉に耳を傾けます。このことが正しく受け止められる時、初めて個人で聖書を読む意味が明らかになるのです。また聖書が教会の書であるとは、聖書を読む際には、教会の読み方があるということです。聖書を歴史的な文献として、または文学書として読む方法があるでしょうが、わたしたちは、これを教会の書、すなわち正典として読みます。この読み方は、教会の信仰理解に則して読むことを意味します。そうすることによって、み言葉が与えられたと言って独善的な考えに陥るような誤りから守られ、正しい信仰と豊かな恵みの中を歩むことができるのです。
 歴史的には、教会が会議において正典を決定したのですが、旧新約聖書六十六巻を書かせた聖霊が、教会に六十六巻を正典として定めるように迫ったのです。教会はこの聖霊の迫りを受け止め正典を結集しました。ですから、聖書を正典と定めた教会は、自らの在り方を六十六巻の聖書によって規定してきたのです。

② 霊感

  《聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である》(Ⅱテモテ三・一六)と、記されているように、聖書は神の霊感を受けて書かれました。「霊感」とは、聖書が書かれる時に、聖書記者たちのうちに働かれた聖霊の特別な働きを意味します。従って、音楽家や画家たちが作品を生み出す際に体験する霊感とは全く異なるものです。また、聖書記者たちを導かれた聖霊は、聖書を読む者にも働いて、聖書の真意を明らかにしてくださいますが、これは「照明」といわれるもので、「霊感」とは区別される聖霊の働きです。
 霊感については多種多様な理解がありますが、わたしたちの教団では、聖書記者がタイプライターのような道具となって神の意志を機械的に記録したとする「機械霊感説」を退け、聖霊がそれぞれの聖書記者の個性を通じて、ダイナミックに神の意志を記録したとする「動力霊感説」を受け入れています。
また聖書記者の思想だけを聖霊が導かれたとする「思想霊感説」を退け、霊感はその言語にまで及んでいるとする「言語霊感説」の立場をとっています。
さらに人間の理性によって探求できない宗教的な事柄だけに霊感があったとする「部分霊感説」を否定し、聖書全体に霊感が及んでいるとする「十全霊感説」の立場をとっています。

③ 誤りなき神の言

 聖書は、神の霊感を受けて書かれた書物ですから、この世界に存在する他のいかなる書物とも異なるものです。全知全能の神が、聖霊の霊感のもとで書かせた聖書は、神に起源をもつものです。一方、霊感を受けた著者たちは、人間の言葉を用いて聖書を記しました。この意味で、聖書は人間の言葉でもあります。このように聖書は、神的側面と人的側面を兼ね備えた書物なのです。しかし、いずれにしても、聖霊が聖書の真の著者であることに変わりはありません。聖霊は、真理の御霊ですから、誤った知識や事柄を聖書の著者たちに書かせるように導くことはありませんでした。従って聖書は「誤りのなき神の言」なのです。
 ここで注目すべきことは、「誤りがない」とは、救いにいたる知識や信仰の事柄についてのみに誤りがないというのではないことです。そうではなく、「誤りがない」とは、それらを含むすべての分野で聖書には誤りがないということです。確かに聖書には、人間の理性では説明できず、一見矛盾と思われる記述もありますが、それを人間の理性で誤りと判断すべきではありません。なぜならば、歴史的、科学的分野において今日に至るまでに解明されていない多くの真理は残されていますし、後に明らかにされるものや、訂正されるものもあるに違いありません。わたしたちは、人間の理性の支配下に霊感された聖書を置くべきではありません。
わたしたちの「聖書は誤りのなき神の言」という姿勢が崩れますと、わたしたちの信仰も揺らぎます。聖書の権威に対する姿勢を曖昧にしてしまうと、教会が権威のよりどころを失ったり、確信をもって聖書のメッセージを語れなくなったりしてしまうのです。

④ キリストを啓示

 主イエスは、《あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである》(ヨハネ五・三九)と言われました。これは、キリストを指し示すことが聖書の機能であることを表しています。ここで使われている《聖書》とは実際には旧約聖書のことですが、旧約聖書は救い主であるイエス・キリストを待望する歴史を証言し、新約聖書はイエス・キリストが救い主であることを想起させる機能を果たしています。信仰告白文では「啓示し」と言い表していますが、聖書はキリストを証言することによって啓示しているという意味です。
 聖書がキリストを証言できるのは、聖書を書いた著者たちに与えられた聖霊がキリストの霊であり、《わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう》(ヨハネ一五・二六)とあり、また《彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである》(Ⅰペテロ一・一一)とあるように、著者たちのうちに働かれた聖霊は、キリストを指し示しているのです。また、聖書を読む者に働かれるキリストの霊は、キリストを想起させてくださるのです。

⑤ 福音の真理を示す

 テモテへの第二の手紙には、《また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている》(Ⅱテモテ三・一五)と記されています。使徒パウロはこの個所で、聖書が救いに至る知恵を与えうる書物であると断言しています。「救いに至る知恵」とは福音の真理を意味しています。旧約聖書で預言され、イエス・キリストにおいて成就した救いの出来事こそは福音です。ですから、聖書はこの福音の真理を示す書物なのです。