宣教局

Level1を学んだ方々でT&Mを実施している方を対象のセミナーです。親教会から子教会、または外に増え広がるスモールグループの発展的な宣教の広がりを学びます。

T&Mで取り扱われている証しの方法、三つの円を用いた伝道、エバンジェキューブを用いた伝道、訪問伝道、帰納的聖書研究などについての実践的な学びと訓練を致します。どなたでも参加できます。

故郷に帰るそなえ
夏が来ました。山や、海の季節です。この夏、大自然を訪れる計画を立てている方々もいらっしゃるかもしれませんね。また、新型コロナウィルスへの向き合い方もわかってきて、ウィルス自体も変化する中、そろそろ実家に帰ろうかという方々も、いらっしゃるかも知れません。私自身、もう卒寿を前に5年も孫に会っていない義母の顔が頭の隅にチラついています。そろそろ帰らねばと思っています。
さて、右の聖書の言葉は、天国を、私たちが帰るべき天の故郷だと言っています。しかも、そこを懐かしむと言うよりも、あこがれの場所だと言います。まさしく私たちは、人生に与えられた神からの使命を終え、全てのなすべき事を果たし終えて、そこに帰るのだと言っています。このように、地上の生涯の先に、帰る場所があるということは、何と心強いことではないでしょうか。ニュースで帰るべき場所を失った人々のことを拝見する度に、故郷の大切さを改めて噛みしめています。
もしかしたら、本誌の読者の中には、なぜ教会に行くのか、教会には何をしに行くのかと、疑問に思っておられる方もいらっしやるかもしれません。もちろん、これが全てではありませんが、私は、教会に来て、神さまを求めることは、この人生の先にある天国に帰る準備の1つだと思っています。特に、きよい、正しい神さまにお会いするには、毎週の「心のおそうじ」は、欠かすことはできません。
私たちが天の故郷に帰り、天の神さまに会うためには、きちんと準備をする必要があります。それが、イエス・キリストを知ること、受け入れることです。そして、教会に行くことです。あなたも、天の故郷に帰る準備として、お近くの教会に足を運んでみませんか。皆様がお越しくださることを、どの教会もお待ちしています。
(「きぼう」7月号)

限りなく深い主の愛
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。」(コリント信徒への手紙一13章4~6節)
かなり前のことですが、当時、私は非常に悩み、考え込んでしまう課題にぶつかっていました。時が過ぎた今、その具体的な内容についてはっきりとは思い出せませんが平安がなく、「主よ。どうしてこのようなことが……」と、悶々とした中で祈りつつ、日々が過ぎていきました。
そのような中で、ある時「愛は寛容であり、愛は情け深い……(口語訳)」の御言葉が私の心に響きました。主の御心だと察したのですが、その御言葉に向かう勇気が出ませんでした。無理だと思いました。重く感じ、脇に置いて過ごしていました。けれども、家事をしていても、仕事をしていても、常にその御言葉が私に迫りました。ある日、私はとうとう観念しました。「主よ。わかりました。今の私に必要な御言葉なのですね。受け取ります」と祈りました。すると主は、この御言葉を『生涯の言葉、糧とするように』と語りかけてくださり、そして光がサァーッとさすように瞬時に、私を悩みから解放へと導いてくださいました。すべての問題や課題は、主から来る愛の中で解決していくのだということを学びました。主に委ねきること、ひたすら祈ることか、解決への唯一の近道であるのですね。
私たちの罪を担い、十字架におかかりくださり、救いの道を開いてくださった主イエスさまの歩まれた道には、限りなく深い愛が溢れ、刻まれていることを覚えます。姦淫の女に対して、主イエスさまは罪に定めることはなさらず、やり直て生きるいのちの道を与えられました。また、弟子たちの足を洗うという行為を通して、主は弟子たちに愛をあらわしてくださいました。その他、沢山の主の愛のみわざを、福音書の記事を通しても知ることかできますし、私たちの日々の生活の中にも、生きて勣かれる主の愛の恵みを覚えます。
パンデミックの最中、戦争も起き、平和を強く願わされる時代の只中にあり、私たちの心の思いや言動は、さらに主の愛に深く根差すものでなければならないことを思わされます。
「互いに愛し合いなさい」という主の戒めを深く心に留め、復活の主を仰ぎ見て、聖霊の助けをいただきつつ、愛を追い求めて共に歩んでまいりましょう。


区切りをつけること
「創立〇〇周年記念誌」を一年に何度かいただきます。どの記念誌も工夫が凝らされていて、写真の中に懐かしい方々の姿を見つけると実に楽しいものです。この記念誌を作成する側から考えると、その作成には手間がかかり、同時に意味深いものになります。その作業において過去を振り返ることになりますが、そこには単純に感謝だけでなく、複雑な思いがよみがえることもあるでしょう。しかし、こうした作業の中で、教会の歩みに一つの区切りをつけることになるのです。また、編集後記は必ずと言って良いほど、将来への期待や祈りの言葉で閉じられています。つまり、過去の振り返りに終わらず、将来を望み見るものになるのです。
このように振り返る歩みに区切りをつけることの大切さは、一般的にも知られていることですし、また、聖書、特に旧約聖書の中にも見られます。さらに今年の総会で承認された新しい任命制度も、一つの区切りをつ
ける作業と言えます。そこで、よく聞くこの区切りをつけることの意味に、信仰の歩みを重ねてみましょう。
第一は、「現在地」を知る。自分の現在地……という表現が当たり前のように使われますが、この現在地とは、例えば施設の案内板(地図)にある「現在地」、つまりあなたが今いる所です。どんなに素晴らしいゴールが待っていて、手には完ぺきな地図があっても、この現在地が分からなければどうすることもできません。だから、地図を手にしたら、誰もがまず現在地を確認するのです。人生の旅の地図を手にしている私たちも同じです。とりわけ神さまとの関係の中での現在地は、どこにあるのでしょうか。
第二は、感謝する。今を知ることは、「今日まで守られ、来たりし我が身」(新聖歌171)を知ることでもあります。「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(コリント人への第一の手紙15章10節/口語訳)とある通り、現在地に溢れる神の恵みを覚えるのです。
第三は、将来を確信する。先の聖歌は、「露だに憂えじ、行く末などは」と続きます。人の計算や計画通りでない神の恵みという御業は、将来に対する確信の根拠となるからです。そして、思い通りにならない状況で、「如何なる折りにも愛なる神は、すべての事をば善きにし給わん」と神さまは歌わせてくださるのです。
せっかく新しい任命制度が始まるのです。互いの信仰、教会の歩みに区切りをつけるため、そして、目指すゴールへの道筋を確認するため上手く用いたいものです。