宣教局


○5月14日〜7月 2日


Level1を学んだ方々でT&Mを実施している方を対象のセミナーです。親教会から子教会、または外に増え広がるスモールグループの発展的な宣教の広がりを学びます。

T&Mで取り扱われている証しの方法、三つの円を用いた伝道、エバンジェキューブを用いた伝道、訪問伝道、帰納的聖書研究などについての実践的な学びと訓練を致します。どなたでも参加できます。

私(イエスさま)は道
私は道であり。真理であり。命である。
私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。
私たちが生きている今は、二度とありません。同じような時を過ごしても、同じではないのです。あなたはこの大切な一瞬一瞬を、どのように生きていますか。なぜ、イエスさまを信じないのですか。なぜ、イエスさまを信じたのですか。
私は長いこと、イエスさまを知らずに過ごしていましたが、今は、父なる神さまのもとへ行きたいと、「これは道だ。これに歩め」と、イエスさまに言われ、「道であるイエスさま」を信じて生きています。
私たちはよく道に迷います。知らない道を行かなければならないこともあるかもしれません。そんな時、一緒に行く人がいたら心強いですね。「あなたが行く道は、私だ」と、イエスさまは言われます。イエスさまは道を教えてくれるだけではなく、あなたと一緒に行ってくださるお方です。イエスさまが一緒なら安心です。イエスさまと一緒に生きて、イエスさまの道を歩むなら、あなたにとって、その生涯の道は確かなものとなります。
ある牧師が「私の足は泥だらけで、その道を行けないと大は言う。けれども、イエスさまは足を洗ってくださるお方です。道は踏まれて行くものだ。イエスさまは『踏まれても良い』と、『私は道だ』と仰った」と、祈られたそうです。
「人の世話になんてならない。自分の道は自分で!」と、自分の力だけで歩むのではなく、イエスさまの道を歩むなら、父のもとへ行ける。そして、イエスさまの道を歩むなら、神の愛が滝のように注がれます。その愛を受け取る時、あなたの人生は変わります。神の愛の言葉を、「はい。信じます」と受け取る時、あなたには神の力が与えられ、イエスさまという道を歩み、その人生は豊かにされるのです。道に迷い、戻ったり、進んだりして来られたでしょうか。
さあ、あなたが歩んで行くべき道を、イエスさまと共に歩みませんか。

人が神にならないために

総務局長 佐藤信人
ロシアによるウクライナ侵攻が続いています。プーチン大統領は、すべてのことを自分の思い通りに進めようと、力にモノを言わせて周りの人々を動かし、反対する者がいれば容赦なく消し去ろうとしています。私たちは今、神に成り上がって生きる独裁者の恐ろしい姿を見せつけられています。
しかし、これは遠い世界の話ではなく、プーチンのような人は私たちの周りにもいるように思います。自分の思い通りにならないと気が済まず、そのためには地位や立場、お金や腕力などを用いて相手を自分の思いのままに動かそうとする。自分が置かれている小さな世界の支配者、独裁者になって生きようとする人たちが、職場や学校、家庭や地域にも存在するのではないでしょうか。そればかりか、私たち自身の中にも、他者を自分の思いのままに動かしたいと願う支配者の心が潜んでいるのではないでしょうか。プーチン大統領の横暴を目にしながら、「私の中にもプーチンがいる」という恐ろしい現実に気づくべきでありましょう。
私たちをそのような罪から解き放つために、「静まれ、私こそが神であることを知れ」と主は語られます。人間に過ぎない者たちがこの世の神になろうとする、支配者になって生きようとする、その罪から逃れる唯一の道は、主こそ神であることを知ることです。人が神にならないために、神が人となってくださり、十字架による贖いのわざを成し遂げてくださいました。このお方は、ご自分の力を用いて罪人たちを消し去るのではなく、罪人たちの手によって十字架に上げられてくださいました。この主イエスこそ、私たちがひれ伏すべき真の神です。
私たちの信仰生活における本当の戦いは、キリストを退けて自分が神になって生きようとする、古き人との戦いです。日ごとに、この古き人が死に、キリストのいのちに新しく生かされる、聖化の道に生きるようにと私たちは招かれています。そのとき、「静まれ、私こそが神であることを知れ」との語りかけは、私たちを罪の囚われから解き放つ喜びの知らせに違いありません。私たちはもはや自分が支配者となる必要はありません。主イエスが恵みをもってすべてを治めてくださるからです。そのお方に向かって、「あなたこそ私たちの主」と喜んでひれ伏すところに、人が人として生きる健やかな歩みが生み出されていくのです。


「私」と「わたし」
3月の教団総会において承認を得ました今年度のテーマは、「主イエスに遣わされたわたし」です。このような次年度のテーマや聖句は、まず教団委員会において、続いて全国教区長会議において質問、意見をお受けします。その上でさらに教団委員会で協議し……という手順を踏みます。今回ある教区長から、「『主イエスに遣わされたわたし』の『わたし』がどうしてひらがななのか」と問われました。至極まっとうな質問でした。その答えの準備のなかった私は、「ひらがなの方が、見た目がいいからかな。キャッチーじゃないですか」と答えたように記憶しています。実際、同じ言葉も漢字で書くよりひらがなで書く方が柔らかな印象となることは、一般的によく言われることです。
改めてどうしてひらがなにしたのかを考えると、やはり自分の中では漢字の「私」とひらがなの「わたし」に違いがあるのです。漢字の「私」には堅い印象がありませんか。そして、「私」と表記される場合、立場や務め、外見……そのように人に見せている「私」、人から見えている「私」があるように思います。ところが、ひらがなで「わたし」と表記すると、自分を覆い、飾っているものを取り外してしまった「ありのままの自分」 「素顔の自分」が表現されるように思うのです。
私たちが遣わされ、置かれた場所でどのような働きをしているのか、どのような立場を得ているのかという自分の「していること」は大切なことです。人の評価もそのところに向けられます。でも実際はどうでしょうか。何をしているのだろうと迷うことがあります。いくら働いても実を結べない、良い結果につながらないとがっかりします。そんな「わたし」なのですが、それでも誰が、どのような評価をしても、主イエスに遣わされている「わたし」だと信じる。これを大切にしたいのです。
そもそも復活の主イエスに遣わされた弟子たちは、マルコによると復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったため、不信仰とかたくなな心をとがめられた人たちでした。にもかかわらず遣わされたのです。「主イエスに遣わされたわたし」は、選抜チームに選ばれる優秀な弟子ではありません。ただ恵みにより立てられた「わたし」です。そして、その「わたし」が遣わされ、今あるところに置かれているのです。今年度、主イエスはこの「わたし」を通して何をなされるのでしょうか。楽しみじゃないですか。